Prev | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | Next

小説の中の高杉晋作の最後
1)高杉晋作は死んだ。(略)衰弱の身に、喀痰が咽喉をふさいで、悶死するとき、その板のようなうすい胸を横切った思いは何であったろうか。

早乙女貢「奇兵隊の叛乱」


2)このきわめて凝縮された老年を送った人物の生涯は、さきに二十八年と書いたが、それを正確に計数すれば二十七年と八ヶ月でしかなかった。

司馬遼太郎「世に棲む日日」


3)それは花火のように短くもまた激しい命の燃え尽きる時でございました。

古川薫「高杉晋作・戦闘者の愛と死」


4)高杉の任務は終ったといってもいいので、その死はむしろ時機を得た感じである。死は奇妙に、丁度いい時にやって来るものである。

大岡昇平「高杉晋作」


5)五十年の人生を、われとわが身で二十八年に縮めて生きた男一匹だったのだ。

山岡荘八「高杉晋作」



|| ||
木戸孝允日記
「木戸孝允日記」は、明治元年(1868)4月1日から明治10年5月5日までのモノが遺されている。
この最後の日付から3週間後の5月26日、木戸は、胃病の悪化の為、死去した。

明治10年は西南戦争の年である。同年1月24日、明治天皇は、海路をとって京都方面への行幸に出発した。前年に参議を辞し、今は内閣顧問という閑職につく木戸も天皇に同行した。

28日、京都着。その翌日、木戸は、「胸や背が痛み、夜に入ってますます激しくなった」と記す。

<30日、鹿児島私学校生が陸軍省火薬庫から弾薬を略奪>
木戸は、2月5日の日記でこの一件に触れ、維新以来の薩摩兵の驕りを嘆ずる。
鹿児島の不穏な状況は、その後もたびたび記される。

25日、西郷・桐野・篠原の官位剥奪、その日の日記には

「西郷隆盛とは十二年来の知人であった。同氏が国家に尽したところは少なくない。忠実、寡欲、果断な男ではあるが、欠点は大局を見ることが出来ない事で、そのため、その名を損じ、その身を亡ぼそうとしているのは誠に遺憾だ。第一次長州戦争の際、同氏は尾張藩を助けたが、彼に悪意が無かったことは、その後の交際において氷解した。薩長同盟は自分と同氏との誓いが始まりであったし、その結果、ついに維新の大業をとげることができた。それなのに、同氏の今日を思うと、忍に耐えざるものがある。」

3月4日、西郷軍に包囲された熊本城の危機を憂え、自分の主張する作戦を日記にしたためる。
熊本城に南下する山県有朋指揮の政府軍に呼応して、数大隊を熊本の南に送り込み、西郷軍の背後を衝かせるべきだと木戸は考える。
そして、主張が容れられないのを嘆く。

14日、田原坂の戦闘での、警視庁抜刀隊の活躍ぶりを「実に抜群の功なり。」と記す。

4月18日
「内務省は従来、他の諸県ばかりを厳格に取り締まってきた。その為、鹿児島県は一種独立国の趣を呈している・・・・内務省の官員鉄仮面だ・・・」
大久保内政に対する批判を記す。

19日
「胸痛、もっとも不快を覚ゆ。」

21日
「終日病臥。」

24日
警視庁大警視川路のスパイ中原尚雄の一件に触れ
「今度の戦争では、両軍二万に近い死傷者が出ている。民衆の家屋家財の焼失は幾千万円に及ぶか知らない。しかし、もとをただせば、大久保や川路が西郷暗殺を謀ったという一事にすぎないのだ。・・・自分が大久保に切に切に望むのは、彼が内務卿を引退し、これまでの政治の偏重を反省してくれることだ。」

5月3日
「今晩、気分甚だ不快を覚え、日々の疲労、ますます加われり。」

6日
「昨日来、寒気が病骨に突き刺してくるようだ。」
この日をもって、日記断絶。

以後、木戸は重態に陥り、意識混濁のまま大声で叫んだという。

「西郷、もう大抵にせんか!」



|| ||
高杉の死生観
高杉が「丈夫死すべき所如何」と問うてきた時、松陰はこう答えている。

「死は好むべきにもあらず、亦憎むべきにもあらず。道尽き心安んずる、すなわち此れ死所」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

また、【留魂録】<第8章>にはこう書かれている。


【留魂録】<第8章>(意訳)

今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。

つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民達はその年の労働による収穫を喜び、酒を造って村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることが無く、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なのである。

なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季を巡って営まれるようなものではないのだ。しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずからの四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えて欲しい。


元治元年(1864)3月から6月まで野山獄に投じられた晋作は、今までよりさらに松陰を身近に感じた。

「先生を慕うてようやく野山獄」
「散り行きし花に色香は劣れども同じ心の散る桜花」

この時「晋作」26歳。「松陰」も25歳から26歳を野山獄で過ごす。

此の年の暮れ12月、晋作は下関で挙兵(功山寺決起)、防長回天の一歩を踏み出す。

この時「遺書」らしき手紙を書いている。

幾たびか死を回避してきた「男」が、ようやくそこを「死して不朽の見込み」

ある場所と決めたのであろう。




|| ||
8.18の政変
世はかりこもと乱れつつ 茜さす日のいと暗く 瀬見の小川に霧立ちて へだての雲となりにけり
うら痛ましや、たまきはる 内裏に明暮れとのいせし 実美朝臣に季知卿、壬生、沢、四条、東久世
その他錦の小路殿、 いまうき草の定めなき 旅にしあれば駒さえも 進みかねてはいばえつつ
降りしく雨の絶間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山浅茅顔が原 露霜わきてあしがちる
難波の浦にたく塩の 辛き浮世はものかはと ゆかんとすれば東山 峰の秋風身にしみて
朝な夕なに聞き馴れし 妙法院の鐘の音も なんと今宵は哀れなる いつしか暗き雲霧を
払ひ尽くして百敷の 都の月をしめで給うらむ

これは、文久3年(1863)8月18日の政変で京都を追われた尊攘派の七卿が長州を目指して落ちていった際、久坂玄瑞が詠った今様である。

此の年の6月、尊攘派のリーダー的存在である「真木和泉」が入京して志士らに<攘夷親征と倒幕の決行>を説いた。

また長州藩も藩主の意見として<攘夷親征>を公卿たちに説いた。

関白鷹司は親征をなすべきかどうかを在京中の因幡・備前・阿波・米沢藩主らに相談したが、いずれも反対意見であった。
しかし、三条実美らの尽力で「今度、攘夷御祈願として大和国へ行幸、神武帝山陵・春日社参拝してしばらく御逗留、御親征軍議あらさせられ、その上伊勢神宮行幸の事」との詔が、8月13日に出された。

この時が尊攘過激派の絶頂の時であり、その中心が「長州藩」であった。


横道にそれますが・・・この文久3年(1863)は「維新史」の一つの「転機」となる年です。

1月 将軍後見職一橋慶喜、入京
2月 長井雅楽失脚、長州藩尊攘派が実権を握る
   清河八郎の浪士組、入京して壬生村に分宿
3月 孝明天皇、将軍家茂を伴い攘夷祈願(上賀茂・下鴨社)
   新撰組創設、京都守護職に属す
4月 清河八郎暗殺
   孝明天皇、石清水八幡宮に攘夷祈願
   幕府、攘夷期限を5月10日と上奉
5月 長州藩、米船ペムブローグ号砲撃(攘夷実行)
6月 米・仏、長州藩に対し報復攻撃
   【高杉晋作】、奇兵隊を編成
7月 薩英戦争
8月 朝廷、攘夷親征祈願のため神武陵行幸を宣布
   8月18日の政変
   天誅組挙兵
9月 芹沢鴨暗殺
10月 生野の変


本題に戻りますが・・・

孝明天皇は熱烈な攘夷論者ではあるが、それはあくまで幕府が中心で、公武合体で行おうとの考えであった。まして倒幕といった現実政治の変革までは望んでいない。
また一橋慶喜や松平容保の云うように攘夷開戦するのは、時期尚早だと考えていた。

天皇は、とりあえず期日の迫った親征の事はしばらく延期したいと思い、中川宮に意中を打ち明けた。

そこで、中川宮は前関白近衛忠ヒロ父子や右大臣二条斉敬ら公武合体派公卿と謀り、藩主松平容保が京都守護職にある会津藩と、寺田屋事件で急進派を排除した薩摩藩の武力に期待した。

8月18日の朝議では、大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内・外出・面会の禁止長州藩の堺町門警衛免除(薩摩藩がそれに代わる)などが決定された。

そうして中川宮から、天皇の言葉が伝えられた。

「このころ、国事担当の者たちは長州が主張する暴論に従って、天皇のお考えでもないことをそのように申立てた場合が少なくない。なかでも御親征行幸などのことでは、まだその機会ではないとお考えであるのに天皇の御意思であるかのように発表したため、ご立腹も大変である。攘夷のお気持ちは変わられないが、行幸はしばらく延期される。(略)長州の大変な計画に同意して天皇までを引き込もうとしたことは不忠の至りであり、三条中納言(実美)はじめおって取り調べるので、まずは禁足し、他人との面会はとりやめること」

特に取り締まるべしと指名された尊攘派の中心人物は、真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎・宮部鼎蔵・轟武兵衛などである。

こうして長州藩士、尊攘派公卿、尊攘派諸藩士をあわせて2600人程が妙法院に集まって協議し、一旦長州に退いて再挙を図ることなったのである。

尊攘派は此の政変は中川宮や会津・薩摩藩などに天皇がそそのかされた結果であると解釈し、やがては禁門の変に繋がっていくのである。

この中川宮は大政奉還の翌日に辞職。明治元年に新政府から親王などの位階を停止され、広島に流されている。

この政変をきっかけとして、京(朝廷)を牛耳る様になったのが「薩摩」である。

尊攘派の失脚に伴い、行き場を失った者たちが蜂起する。
天誅組の蜂起である。此の戦いで土佐の吉村寅太郎が戦死している。

生野でも蜂起した。

此の戦いでは平野国臣が捕らえられ翌年、斬殺されている。


さて、「高杉晋作」は8月18日に「何をしていたか?」

奇兵隊と先鋒隊が教法寺において衝突(教法寺事件)したのが、丁度この頃。
京での政変知る由も無し。

翌月に奇兵隊総督を免ぜられている。後任は、滝弥太郎・河上弥一。
しかし河上は生野の変に参加、敗死している。



|| ||
松陰の遺志を継ぐ第一人者
松陰が、安政の大獄に巻き込まれて、江戸、伝馬町の獄で斬られたのが、安政6(1859)年10月27日、彼は、死に先立って、門人達に、

「諸君は、すでに僕の志と考えをよく知っている。だから、僕の死を悲しまないで欲しい。しかし、僕の死を悲しむことは、僕の考えと志を知ることであり、僕の考えと志を知るということは、僕の志を達成してくれることである。それ以上に何者もないことをしっかりと悟って欲しい」と書き送った。

此の手紙を晋作がいつ読んだかは明らかではないが、11月26日、周布政之助あての手紙に、

「我が師松陰の首を幕府の役人の手に掛けたことは残念でなりません。私達弟子としては、【此の敵を討たないでは】とうてい心も安まりません。といっても人の子として主君に仕える者、此の身体は自分の身体のようであっても自由になりません。いたしかたないままに、日夜松陰先生の面影を慕いながら激歎していましたが、この頃やっと次のような結論に到達しました。即ち隠忍自重によって、人間の心はますます盛んになるという言葉の意味をよく理解して、朝には武道、夕は学問して、自分の心身を鍛えぬいて、父母の心を安んじ、【自分の努めをやり抜く事】こそが、我が師松陰先生の敵を討つ事になると言う事であります」と書いている。

久坂玄瑞と並んで、村塾の竜虎と云われた晋作らしく、いち早く松陰の心を理解し、その志を継承していこうとする姿勢に達している。玄瑞も又、同じ頃、入江九一あてに、「先生の悲命を悲しむ事は無益です。先生の志をおとさぬ事こそが肝要です。」と書き、あわせて、晋作の最近の努力ぶりと成長ぶりを報告している。

晋作は、まさに、その年の7月、松陰が獄中から、

「僕が死ねば、貴方の志もきっと固まるに違いない。僕が死なないかぎり、貴方の志はふらふらし続けるようだ」と書いた通りになったのである。

松陰の死をきっかけとして、晋作はぐんぐんと成長を続け、「十年後、事を為す時は、必ず晋作に謀る。晋作はそれだけの人材である」と松陰が云っていた様に【明治維新の大事業の礎石をつくる人物】に育っていく。



|| ||
Prev | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | Next