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竜馬の手紙の中の晋作
「高杉晋作、本陣より、錦の手のぼりにて下知し、薩摩の使者村田新八といろいろ咄いたしなどし、へたへた笑いながら気をつけている。敵は肥後の兵など強かりければ、晋作下知して酒樽をかきいだし、戦場にてこれを開かせなどしてしきりに戦わせ、とうとう敵を打ち破り、肥後の陣幕・旗印など残らず分取りいたしたり」

龍馬が兄権平に宛てた手紙である。

慶応2年(1866)6月17日、龍馬と晋作は一緒に戦闘を観戦している。
この時の晋作の様子を報じたモノだと思われる。

それにしても、「へたへた笑いながら」とはどういう笑い方なのでしょうか?



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晋作と小五郎
「晋作」と「小五郎」について中岡慎太郎は、慶応2年、板垣退助に宛てた手紙の中で次のような評価をしています。

「胆あり、識あり、思慮周密、廟堂の論に堪ふるものは長州の桂小五郎。識あり、略あり、変に臨んで惑わず、機を看て動き、気を以て人に勝つものは高杉東行」

この長州藩攘派を代表する2人は、「志」は同じなれど、行動は異なっています。

一言でいえば、晋作は戦略家であり、小五郎は政略家ではないでしょうか?

「防長割拠」についても、「晋作」のそれは、藩主をはじめ長州人全て帰国して防長二国での割拠に徹し、藩内の富国強兵に専念して討幕を押し進めようとするものに対し、「小五郎」のそれは、正義の雄藩を連合して幕府勢力に対抗しようとする正藩連合大割拠です。

それと、「小五郎」は「晋作」のよき理解者です。
血気にはやる「晋作」を上海に行かせて国際情勢を肌で感じらせたのも「小五郎」の配慮によるものです。

維新の表舞台で華々しく散った「晋作」、裏方として実務に腕を振るった「小五郎」。

もし・・・「晋作」が明治2年11月の奇兵隊ならびに諸隊の叛乱まで生きていたら、両雄対決という悲劇が生じたかもしれません。



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晋作と名乗った桐野利秋
「人斬り半次郎」こと桐野利秋は、中村から改姓した時に通称を「晋作」としていたそうな。

他の者がそのいわれを聞くと「高杉晋作を尊敬しているので、それにあずかりたいと思って」と答えたとか・・・

桐野は晋作と一面識もありません。
きっと、桐野の炯眼は、幕府によって潰されかけていた長州藩を立て直し、回天の原動力たらしめたのは晋作だったことを見抜いていたのでしょう。(^^)



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尾大の幣
奇兵隊の特徴は、「反封建的エネルギー」であり、「民衆パワー」といってもいい様な要素を多く持っていました。そういう軍事力が膨れ上がってくる、

桂の言葉で言うならば、「尾大の幣」、尻尾ばかりが非常に大きくなってどうにもならなくなってくる。

権力の側にとってみれば、そういうものがどんどん大きくなって実力を持ってくると、何時それが爆発するかわからない。自分たちが幕府を倒した時は必要だったけれども、一旦其れまでの権力を倒してしまって、今度は自分たちが権力をつくるとなると、邪魔になる。

「維新の矛盾」とでもいいましょうか、反封建的な民衆パワーを使って幕府を倒したけれども、実際に新しい権力というのは民衆寄りの権力かというと、必ずしもそうではない。

明治元年閏四月、新政府は中央直轄の常備軍をつくる構想を打ち出します。
そして、其れまで各藩が個別に持っていた軍事力に対し、厳しい制限を加えて行きます。奇兵隊など維新の戦いで活躍した諸隊に対しても、新政府の姿勢は変わりませんでした。
当然、奇兵隊は縮小を余儀なくされて行く・・・

こうした動きの中で、長州藩ではついに明治二年二月、奇兵隊、諸隊を解散し常備軍に再編成するとの発表が行われています。

しかしながら、常備軍に再編成されるのは、奇兵隊、諸隊の兵士のおよそ30%にすぎず、残りは何の補償もない。さらに、常備軍に組み込まれるのは奇兵隊の幹部階級に限られています。

元々、身分にかかわらず結成されたはずの奇兵隊、諸隊に、長い戦いの中で幹部階級と一般兵士との間に新たな「身分格差」が生まれてきた、すなわち、新しい時代に自分たちが主役になることを夢見た若者達に、再び身分の格差がのし掛かってきた。

「天下の人心は、以前とは異なっている。民衆の心は新政府を離れている」
「王政は幕政にしかず。薩長は徳川にも劣る」

明治二年十二月、奇兵隊、諸隊の兵士「1200名」が脱隊。それに農民一揆が加わり、明治三年に入ると、反乱軍は山口の藩庁を包囲。

此の叛乱に最も強い姿勢で臨んだのは「桂小五郎」(当時:木戸孝允)

薩摩などの助けを借りては新政府の於ける長州の立場が弱くなってしまうことへの危惧もあってか、大軍を投じ、力によって押さえ込んだ。

明治三年二月、奇兵隊、諸隊の叛乱は、圧倒的な軍事力の前に幕を閉じた。

そして・・・厳しい処刑が、人々の前で行われたのである。

「首を打ち落としたら『お見事!』と云って、髪の毛を掴んで振って、放ったという話です。その首は八幡様の前の池のところへ何日も晒されたという話です」

切腹:9人 打ち首:84人 戦死:60人超

其の多くは農民出身の若者達であった。

高杉晋作がその短い生涯の全てを賭けて生み出した長州奇兵隊は、明治新政府との戦いによって流された血の中に消えていったのである。

昔、長州を旅したときに、「通化寺」で見た弁当箱の落書きを思い出します。

「ばかじゃばかじゃといわれていても、胸に魂がありさえすれば、いつか世に出て・・・」

今一度、晋作の辞世の句を考えて見れば、奇兵隊に参加した若者の気持ちが、分かるような気がします。

奇兵隊に参加した若者たちは、それぞれの胸にある「面白き世」を求めて戦った。そして、新しい時代が「面白きこともなき世」であると感じたとき、再び新政府に対して戦いを挑んだ、のではなかろうか?



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晋作のルーツ
高杉家の家紋は「武田菱」。

そのルーツ( ルーツと聞けばクンタ・キンテを連想してしまいます。(^^ゞ )には二説あります。

陸奥の豪族安倍氏の裔瀞とするものと、備後国三谷郡高杉村の地名を氏としたもの。
後者が定説。

高杉家の伝承によれば、高杉家は武田末流と伝えています。
武田氏は甲斐の武田氏を本流とするが、その一族の者が安芸守護となり、後年武田元繁の時高田郡西浦に住み尼子氏と結び、毛利元就のために滅ぼされた。
一説には高杉家の始祖である小四郎春時を、元繁の子とするものもありますが高杉系図では小四郎信春の子としています。

高杉家の始祖、小四郎春時は備後三谷郡高杉村に移り在名をもって姓とし、高杉城の城督となったと伝えられており、高杉城の遺溝は三次市高杉町にあるモノと高田郡吉田町西浦にあるモノの二ケ所。
両城とも高杉氏に関わる城であろうが、後者の吉田町西浦にある高杉城は、高杉氏が毛利氏に帰属してからのものでといわれています。
三谷郡高杉村の高杉城は江田氏の端城の一つで、城主は武田氏。

『安西軍策』や『陰徳太平記』などに出てくる高杉城を死守した祝氏=武田氏が晋作のご先祖様か定かではありません。
また、高杉家の始祖である小四郎春時はこの戦以後毛利家に随従しますが、それがいつの時代にどういう経緯で毛利家に仕えたかも定かではありません。

【始祖】『春時』(小四郎) →『春光』(小左衛門尉)→『春貞』(小左衛門尉)→『就春』(又左衛門)→『春俊』(小四郎) →『春信』(半七)→『春善』(半七郎) →『春明』(梅之丞) →『春豊』(半七郎)→『春樹』(吉祐→晋作→小左衛門→小忠太)

天保10年(1839)年8月20日、高杉小忠太・道の長男として、『春風』(晋作)誕生。

此の年の5月「蛮社の獄」
松陰10歳、桂小五郎9歳、久坂玄瑞は翌年誕生。 龍馬4歳、西郷12歳。

晋作には3人の妹(武タケ・宋ハエ・光ミツ)がいる。



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