Prev | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | Next

新発見【永倉新八・戦場日記】
新撰組ネタをひとつ。

歴史街道4月号に、【新発見!新撰組幹部・永倉新八の「戦場日記」】という記事が出ていました。

若き日の永倉の手記で一級史料だと言うことです。

永倉自身『新撰組顛末記』と言うのを書いていますが、70歳を越えてから書かれたモノであり、記憶等があいまいな処も多々あるとの事。
(海舟の日記と同じ様なモノです・・・)

マッ!それに比べるとこの手記は、LIVEで書かれており、信憑性も高い!

現在、霊山歴史館の木村幸比古氏と幕末史研究家の多田敏捷氏が出版準備をされているとの事。

この会議室関連としては、『池田屋事件』ですが、土方の別働隊の到着が遅れたら近藤らも全滅していたであろうほど、せっぱつまった戦いであったとの事。

ドラマ等のように、一方的な新撰組の勝利ではないようです。(^-^)

この手記、京都の霊山歴史館で4月23日から5月31日まで開催される『徳川慶喜をめぐる人々展』で展示されるそうですので、お近くの方は、見に行かれたらと思います。

特に、表紙の『徳川家御撰之兵 浪士文久報国記事』の文字。→「撰」

以前雑誌で隊名は、『新選組』かそれとも『新撰組』か と書かれた作家がありまして、この中で、永倉新八は、『撰』を使い、子母澤寛は、『選』を使いながら、どちらでもいいと言っている。「撰」は、つくりのべる事で述作、著作の事、「選」は、えらぶ事で、選りすぐる意。(うんぬん)

締めの文が、「敢えて【撰】という人には【選挙が撰挙】」でもいいのかと問いたい。と書かれていました。

私ならこう答えます。

「じゃあ、貴殿は、【アメリカ合衆国】と書かずに【アメリカ合州国】と書かれているのでしょう。」と。

歴史街道の記事全て【新撰組】と書かれていたので、ふと、思い出しました。

私は、どちらでもいいと思いますが、それこそ敢えてと言えば、隊士である永倉が使用している【撰】に親しみを感じます。



|| ||
長州党の言い分
会津の方の『長州を許すことが出来ない』旨の発言目にしました。

>明治戊辰戦争で会津は新政府「薩摩・長州」のスケープコードにされた。
>会津藩は戦争をのぞまなかった。新政府にたいして恭順の意を表したのに許されなかった。
>私は長州を許すことができない。
>戊辰戦争では武士だけでなく婦女子までが西軍によって虐殺された。


以下、それに対する私の言い分です。

まずは、『桜田門外の変~会津藩降伏』までの主な出来事まとめてみました。(年号は西暦)

1860年
3月 (江戸)桜田門外の変、水戸藩17名・薩摩藩1名 
1860年
10月 朝廷和宮降嫁勅許
12月 (江戸)米国通訳官ヒュースケン殺害、薩摩藩・伊牟田尚平
1861年
5月 (江戸)英国公使館襲撃、水戸浪士14名
1862年
1月 (江戸)坂下門外の変、水戸浪士・平山兵介ら6名
4月 (京都)寺田屋事件、薩摩藩内紛
6月 (長州)長井雅楽失脚、正義派台頭 (京都)天誅横行、土佐藩・岡田以蔵、薩摩藩・田中新兵衛ら
7月 (京都)島田左近天誅、薩摩藩田中新兵衛?
8月 (神奈川)生麦事件、英国商人リチャードソン無礼討ち、薩摩
閏8月 (京都)京都守護職設置
1863年
5月 (長州)攘夷決行
6月 (長州)米・仏、下関報復攻撃
7月 (薩摩)薩英戦争
8月 (京都)8・18の政変
9月 (大和)天誅組挙兵、土佐藩・吉村寅太郎ら38名
10月 (生野)生野の変、筑前藩・平野国臣ら
1864年
6月 (京都)池田屋事件、新撰組により、肥後藩・宮部鼎蔵、長州藩・吉田稔麿、土佐藩・北添佶磨ら16名殺害
7月 (京都)佐久間象山暗殺、肥後藩・河上彦斎ら (京都)禁門の変、久坂玄瑞・来島又兵衛・寺島忠三郎・入江九一・真木和泉・平野国臣ら265名戦死
    第一次長州征伐
8月 (長州)四カ国連合艦隊、馬関砲撃
11月 (長州)長州藩、恭順を表明。国司・福原・益田の三家老切腹 俗論派台頭
12月 (長州)功山寺決起、高杉晋作、80名にて藩内クーデターを起こす
1865年
1月 (長州)俗論派崩壊、正義派台頭
2月 (長州)武備恭順路線から倒幕路線へ変更。『討奸檄』
閏 5月 (土佐)土佐勤王党壊滅、武市半平太ら処刑
9月 第二次長州征伐
1866年
1月 (京都)薩長同盟成立 (京都)坂本龍馬、寺田屋遭難
6月 (長州)四境戦争勃発
8月 (小倉)小倉城炎上、幕府敗北
12月 (京都)孝明天皇崩御、毒殺? (京都)徳川慶喜15代将軍就任
1867年
4月 (長州)高杉晋作永眠、27歳8ヶ月の生涯を閉じる
6月 坂本龍馬、後藤象二郎に『船中八策』を語る (京都)薩土盟約成立
10月 (京都)大政奉還 (京都)薩長に討幕の密勅下る
11月 (京都)坂本龍馬暗殺
1868年
1月 (京都)鳥羽・伏見の戦、勃発
3月 (長野)赤報隊「偽官軍事件」、相楽総三ら8名処刑 (江戸)江戸城開城 (京都)五箇条のご誓文 
4月 (江戸)近藤勇処刑
5月 (長岡)小千谷談判決裂、長岡藩・河井継之助VS土佐藩・岩村精一郎 奥羽列藩同盟成立 (江戸)彰義隊壊滅、長州藩・大村益次郎指揮
7月 長岡城落城
8月 河井継之助死去、享年43歳
9月 会津藩降伏 


ここで、注目していただきたいのが、『長州』と『薩摩』の動きです。

私が御託を述べるよりも、徳川慶喜の述懐を紹介しておきます。

「長州は初めからの敵だから憎くないが、薩摩は幕府に協力していながら裏切った事は、許せぬ」


長州藩は文久3年(1863)年8月から翌元治元年7月にかけて京でたてつづけに3つの不幸を味わう。

・8・18の政変によって会津・薩摩藩に京より追放。
・新撰組に池田屋を襲撃され尊攘派藩士の多くを失う。
・幕府や会津・薩摩の兵と戦った禁門の変で敗北。

<池田屋事件>
ー死亡した松陰門下生 (数字は享年)ー
吉田稔麿 (24)
他、松陰の親友であり松陰亡き後の門下生の精神的支柱であった肥後藩宮部鼎蔵

<禁門の変>
殉難者:長州勢265名/幕府側 会津60名・薩摩8名・桑名3名・彦根9名・越前15名・淀2名の計97名
数字から見ても此の戦闘は、長州対会津の私闘。

ー死亡した松陰門下生 (数字は享年)ー
久坂玄瑞 (25)・入江九一 (28)・寺島忠三郎(22)・有吉熊次郎(23)・阿座上正蔵(19)

つまり、会津により村塾四天王の内、三人を失う。


【長州藩と会津藩の藩風ー年頭行事ー】

<会津松平家の祖、保科正之「会津藩家訓」>
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」
ここにいう「大君」とは、将軍をさす。
会津藩では、年始に、学校奉行が「家訓」を奉読し、藩主・家臣共々平状してして拝聴するというのが、恒例の儀式。
君臣共に、藩よりも幕府への忠を第一義とするのが、会津藩の藩風。

長州藩は、関ヶ原のおり家康のペテンにより7カ国を奪われ周防・長門に縮小された。
毎年正月家老が主君に謁して「徳川追討の儀はいかが致しましょうや」と問い、藩主は「時期尚早である」と答えるのが、恒例の儀式。

前述の経緯からしても啀み合うのは当然か。


【松平容保の力量】

君臣共に、藩よりも幕府への忠を第一義とするのが、会津藩の藩風。

ただし、容保は会津藩主家の出ではない。高須藩主松平義建の6男として生まれ、12歳の時養子に迎えられて会津松平家9代目を継いだ。
此の事情が、容保をして藩祖保科正之以来涵養されてきた会津士風にかえって傾倒させることになった。

容保は性格的に一本気で、真率かつ誠実。尊皇、『公武合体』推進。

孝明天皇より「武士の心あはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもひで」との最大級の信頼を置かれていた。


文久2年(1862)松平容保、京都守護職となる。

西郷頼母、「薪を背負って火を救わんとするもの」と諫言し家老職罷免。
翌年、武家伝奏から「新撰組」命名。容保の私設機動隊誕生。

尊攘討幕派狩りを行う。最たるモノは『池田屋の変』

新政府より罪状とされたのは尊攘討幕派の有為の人材を弾圧したと言うことであった。

『安政の大獄』→『天誅・斬奸』→『京都守護職設置』

どちらがどうのとは、言えないのではないか?


<容保は非戦論者か>
鳥羽伏見の戦いが勃発し、慶喜と共に戦線離脱した容保は、「非戦・開明派」の神保修理を処刑している。

開戦の前に、国許へ以下の親書を送っている。
「主君が辱められた時、家臣は死を覚悟しなければならない。朝廷に対して弓を引く事は決してすべきではないが、奸邪の徒がもし天皇を欺き、攻撃を加えるならば関東と力を合わせ、義兵を挙げて君側の奸悪を除かざるを得ない」

慶喜にならい喜徳に家督を譲り、恭順の意を示すも(1868.2.4)3日後には、佐川官兵衛を中隊司令官に任命、18歳から35歳までの藩兵に撒兵練習を命ず。27日に藩士達に示した論告文の中で「この上は兵備を第一と致し候外これなく候間、一致一和に相成し・・・」と述べて、武備恭順の体裁はとりつつ、抗戦の意向を明らかにした。


<会津の惨劇>
1868年
7月29日 長岡城落城。
8月22日 容保、出陣。
8月23日 白虎隊自刃。容保、籠城。全ての人々が籠城する事は出来ず、藩士の家族(老幼婦女子)、国難に殉じる。
8月26日 西軍、小田山占領、攻撃激化。
9月18日 米沢藩の勧告で容保降伏を決意。
9月22日 会津藩降伏。

1ヶ月に渡る籠城戦を君臣一体となって戦い抜いた会津士魂には敬服致しますが、容保の決断の遅延が惨劇を大にしているとも言えるのではあるまいか。
更に、城下に初めて半鐘が鳴らされたのが8月23日、町民や子女にとっては正に不意打ち。
もっと速く疎開の指示を出していれば、被害は、少なくて済んだはず。


【薩摩の陰謀】
幕末の頃、京都の政界は、摂家近衛の親戚である『島津』と鷹司・三条と縁戚の『毛利』とが勢力を競っていた。
文久2年(1862)当時、薩摩→公武合体、長州→攘夷。

朝廷工作は、攘夷の勅令を取り付けた長州が一歩リード。
勢いづいた長州は、『攘夷決行』さらに、長州派公卿は、会津・薩摩の一掃を図る。
そこで利害が一致した薩摩と会津は同盟を結び、長州派を一掃。(8・18の政変)
その後、禁門の変。

宮廷工作は薩摩の独占。

長州征伐の際、幕府を見限った薩摩・西郷は参謀として出陣しながら長州を庇う。
その後、薩長同盟。

大久保と岩倉が画策し、「討幕の密勅」下る。

大政奉還で恭順を示す慶喜に対し、西郷は、益満休之助・相楽総三らに関東攪乱を命じ挑発。
→鳥羽伏見の戦い勃発。

赤報隊「偽官軍事件」が起き、相楽総三ら8名処刑


再度、慶喜の述懐
「長州は初めからの敵だから憎くないが、薩摩は幕府に協力していながら裏切った事は、許せぬ」


戊辰戦争時においての政府の意志決定は、薩摩とりわけ、西郷・大久保である。

西郷は「戊辰の戦は速く終わりすぎた。」徹底的に日本中が血を流さなければ、革命は完成しないという。この時の西郷は、明らかに主戦論者である。
彼からすれば、慶喜の首の代わりに会津藩を敵本として軍陣の血祭りにあげケジメをつけた。

維新後、薩摩は会津人を敬意と好意をもって受け入れ、進んで世話をしている例が多い。


<大久保への疑念>
小千谷談判で悪名高き、岩村精一郎を江藤新平との交渉役に指名。
結果、交渉決裂。佐賀の乱勃発。

盟友西郷までも挑発により表舞台に引きずり出す。
西南戦争勃発。

西南戦争時、旧会津藩士を中心とした抜刀隊を結成。


以上、私の言い分です。

作戦をたてた【大村益次郎】、実行部隊【山県有朋】以下長州藩士、をもって

> 私は長州を許すことができない。

とするのは、お門違いではなかろうか。

> 私は薩摩を許すことができない。

なら頷けます。



|| ||
【奇兵隊日記】破ったのは誰か?
2月に【奇兵隊日記の完全復刻】が出版されましたが、
元治元年8月5日から9日までの欠落部分どうなっているのでしょうか?

この5日間分を破り捨てた人物がいます。

つまり、この5日間に登場する人物の行動(活躍)が記述されていては不都合な人物です。
この5日間に登場する人物は赤根武人だと言われています。

一方、破棄したのは誰か?

「奇兵隊日記」の原本は、品川弥二郎が京都に建てた霊廟「尊攘堂」に納められましたが、それ以前は、山県有朋の手許にありました。

明治44年、赤根の遺族が贈位の審査を願い出た際、史談会では贈位然るべしとの結論を出したにも拘わらず、山県の反対により贈位は見送られています。

山県が反対の根拠にしているのは、赤根の履歴を汚した最期の他に、連合艦隊との戦いで赤根が奮戦したとする贈位資料の記述がでたらめだと言うモノです。
山県曰く「両日の戦争中、赤根はほとんど一令も発せず、其の挙動すこぶる隊中の侮るところ・・・」

この奮戦した日が日記の欠落部分と符号します。^^;

この間の赤根の行動は白石正一郎の日記に記載されています。
この日記を読む限り赤根は奮戦しています。

山県は私怨により贈位を反対したと言われていますが、真実はどうなんでしょう。

いずれにしても、欠落の5日間読んでみたいものです。

【奇兵隊日記】読まれた方は、この5日間の部分どうなっていたか教えて下さい。m(__)m

攘夷戦争を調べている際に、この赤根贈位問題が目に留まりました。

因みに、熊本の図書館には【奇兵隊日記】ありません。^^;


完全復刻版『定本奇兵隊日記』マツノ書店

|| ||
初公開!【高杉晋作書翰】入江宛
4月に本会議室にUP致しました、入江九一宛の書翰ですが、東行庵だよりに紹介されていましたので、ご紹介いたします。

この書翰は、今年3月に入江家より東行記念館に寄贈されたモノ。

奇兵隊参謀として馬関に在る入江を、晋作が萩か山口の自宅に呼び寄せた内容。

8・18の政変直後の文久3年秋頃のモノと推定されるとの事。

晋作と九一がやりとりした手紙の存在はこれまで知られていなかったモノで貴重です。

高杉晋作書翰(入江宛)

馬関御滞留、御間合御座候ハバ、
寸渡、御帰国拙宅ヘ両三日、御止宿被下間敷哉、
御閑談申上度事、如山岳、
御残留ナレバ不及其儀候、草々、拝白
             東行
 子遠兄
      〆
入江子遠兄      東行狂生
      内呈



|| ||
晋作ファンの吟醸酒
岩国市の矢野氏が晋作の吟醸酒を完成させたとの事。
ラベルに「面白きこともなき世を面白く、住みなすものは心なりけり」と書かれているそうです。

裏面には
「維新前夜、混乱の世の中をさわやかに駆け抜けた日本一の快男児高杉晋作のロマンに乾杯!」
と氏の晋作への想いが込められているとか。

純米吟醸・面白きこともなき世を面白く


しかし、このお酒の名前は「面白き・・・」でしょうか?
注文するときが大変です。^^;

|| ||
Prev | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | Next