松陰の遺志を継ぐ第一人者
松陰が、安政の大獄に巻き込まれて、江戸、伝馬町の獄で斬られたのが、安政6(1859)年10月27日、彼は、死に先立って、門人達に、

「諸君は、すでに僕の志と考えをよく知っている。だから、僕の死を悲しまないで欲しい。しかし、僕の死を悲しむことは、僕の考えと志を知ることであり、僕の考えと志を知るということは、僕の志を達成してくれることである。それ以上に何者もないことをしっかりと悟って欲しい」と書き送った。

此の手紙を晋作がいつ読んだかは明らかではないが、11月26日、周布政之助あての手紙に、

「我が師松陰の首を幕府の役人の手に掛けたことは残念でなりません。私達弟子としては、【此の敵を討たないでは】とうてい心も安まりません。といっても人の子として主君に仕える者、此の身体は自分の身体のようであっても自由になりません。いたしかたないままに、日夜松陰先生の面影を慕いながら激歎していましたが、この頃やっと次のような結論に到達しました。即ち隠忍自重によって、人間の心はますます盛んになるという言葉の意味をよく理解して、朝には武道、夕は学問して、自分の心身を鍛えぬいて、父母の心を安んじ、【自分の努めをやり抜く事】こそが、我が師松陰先生の敵を討つ事になると言う事であります」と書いている。

久坂玄瑞と並んで、村塾の竜虎と云われた晋作らしく、いち早く松陰の心を理解し、その志を継承していこうとする姿勢に達している。玄瑞も又、同じ頃、入江九一あてに、「先生の悲命を悲しむ事は無益です。先生の志をおとさぬ事こそが肝要です。」と書き、あわせて、晋作の最近の努力ぶりと成長ぶりを報告している。

晋作は、まさに、その年の7月、松陰が獄中から、

「僕が死ねば、貴方の志もきっと固まるに違いない。僕が死なないかぎり、貴方の志はふらふらし続けるようだ」と書いた通りになったのである。

松陰の死をきっかけとして、晋作はぐんぐんと成長を続け、「十年後、事を為す時は、必ず晋作に謀る。晋作はそれだけの人材である」と松陰が云っていた様に【明治維新の大事業の礎石をつくる人物】に育っていく。



|| ||
コメント
コメントする








この記事のトラックバックURL :
トラックバック