「東行遺稿」によれば、
面白キ事モナキ世ニヲモシロク 住ナスモノハココロナリケリ
とあります。「東行遺稿」は「晋作直筆の原本を写したもの」とされていますので、「に」が正しいと言うことになります。
尚、この歌は慶応2年の作としてあります。
(異説)
慶応3年(1867)2月説。この頃「野村望東尼」が晋作を見舞っています。
作家 杉田幸三 が次の一文を雑誌に載せています。
<「人ハ人吾ハ吾ナリ・・・」として、「面白キ事モナキ世ニヲモシロク」(高杉)続いて「住ナスモノハココロナリケリ」(望東尼)がある。まだしっかりしていた頃に綴ったものだろう。>
さらに、此の辞世の句の前に、「落花斜日恨きわまりなし 自らは愧ず残骸の晩風に泣くを」という、詩を望東尼に見せて、批評を仰ぐと、「もっと元気な詩を書いてくれ」と望東尼に云われ、辞世の句を書いた。と云われています。
何れに致しましても、晋作が亡くなったのが慶応3年4月14日ですので、死ぬ寸前に読んだモノではありません。
面白キ事モナキ世ニヲモシロク 住ナスモノハココロナリケリ
とあります。「東行遺稿」は「晋作直筆の原本を写したもの」とされていますので、「に」が正しいと言うことになります。
尚、この歌は慶応2年の作としてあります。
(異説)
慶応3年(1867)2月説。この頃「野村望東尼」が晋作を見舞っています。
作家 杉田幸三 が次の一文を雑誌に載せています。
<「人ハ人吾ハ吾ナリ・・・」として、「面白キ事モナキ世ニヲモシロク」(高杉)続いて「住ナスモノハココロナリケリ」(望東尼)がある。まだしっかりしていた頃に綴ったものだろう。>
さらに、此の辞世の句の前に、「落花斜日恨きわまりなし 自らは愧ず残骸の晩風に泣くを」という、詩を望東尼に見せて、批評を仰ぐと、「もっと元気な詩を書いてくれ」と望東尼に云われ、辞世の句を書いた。と云われています。
何れに致しましても、晋作が亡くなったのが慶応3年4月14日ですので、死ぬ寸前に読んだモノではありません。
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