木戸孝允日記
「木戸孝允日記」は、明治元年(1868)4月1日から明治10年5月5日までのモノが遺されている。
この最後の日付から3週間後の5月26日、木戸は、胃病の悪化の為、死去した。

明治10年は西南戦争の年である。同年1月24日、明治天皇は、海路をとって京都方面への行幸に出発した。前年に参議を辞し、今は内閣顧問という閑職につく木戸も天皇に同行した。

28日、京都着。その翌日、木戸は、「胸や背が痛み、夜に入ってますます激しくなった」と記す。

<30日、鹿児島私学校生が陸軍省火薬庫から弾薬を略奪>
木戸は、2月5日の日記でこの一件に触れ、維新以来の薩摩兵の驕りを嘆ずる。
鹿児島の不穏な状況は、その後もたびたび記される。

25日、西郷・桐野・篠原の官位剥奪、その日の日記には

「西郷隆盛とは十二年来の知人であった。同氏が国家に尽したところは少なくない。忠実、寡欲、果断な男ではあるが、欠点は大局を見ることが出来ない事で、そのため、その名を損じ、その身を亡ぼそうとしているのは誠に遺憾だ。第一次長州戦争の際、同氏は尾張藩を助けたが、彼に悪意が無かったことは、その後の交際において氷解した。薩長同盟は自分と同氏との誓いが始まりであったし、その結果、ついに維新の大業をとげることができた。それなのに、同氏の今日を思うと、忍に耐えざるものがある。」

3月4日、西郷軍に包囲された熊本城の危機を憂え、自分の主張する作戦を日記にしたためる。
熊本城に南下する山県有朋指揮の政府軍に呼応して、数大隊を熊本の南に送り込み、西郷軍の背後を衝かせるべきだと木戸は考える。
そして、主張が容れられないのを嘆く。

14日、田原坂の戦闘での、警視庁抜刀隊の活躍ぶりを「実に抜群の功なり。」と記す。

4月18日
「内務省は従来、他の諸県ばかりを厳格に取り締まってきた。その為、鹿児島県は一種独立国の趣を呈している・・・・内務省の官員鉄仮面だ・・・」
大久保内政に対する批判を記す。

19日
「胸痛、もっとも不快を覚ゆ。」

21日
「終日病臥。」

24日
警視庁大警視川路のスパイ中原尚雄の一件に触れ
「今度の戦争では、両軍二万に近い死傷者が出ている。民衆の家屋家財の焼失は幾千万円に及ぶか知らない。しかし、もとをただせば、大久保や川路が西郷暗殺を謀ったという一事にすぎないのだ。・・・自分が大久保に切に切に望むのは、彼が内務卿を引退し、これまでの政治の偏重を反省してくれることだ。」

5月3日
「今晩、気分甚だ不快を覚え、日々の疲労、ますます加われり。」

6日
「昨日来、寒気が病骨に突き刺してくるようだ。」
この日をもって、日記断絶。

以後、木戸は重態に陥り、意識混濁のまま大声で叫んだという。

「西郷、もう大抵にせんか!」



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