高杉の死生観
高杉が「丈夫死すべき所如何」と問うてきた時、松陰はこう答えている。

「死は好むべきにもあらず、亦憎むべきにもあらず。道尽き心安んずる、すなわち此れ死所」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

また、【留魂録】<第8章>にはこう書かれている。


【留魂録】<第8章>(意訳)

今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。

つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民達はその年の労働による収穫を喜び、酒を造って村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることが無く、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なのである。

なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季を巡って営まれるようなものではないのだ。しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずからの四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えて欲しい。


元治元年(1864)3月から6月まで野山獄に投じられた晋作は、今までよりさらに松陰を身近に感じた。

「先生を慕うてようやく野山獄」
「散り行きし花に色香は劣れども同じ心の散る桜花」

この時「晋作」26歳。「松陰」も25歳から26歳を野山獄で過ごす。

此の年の暮れ12月、晋作は下関で挙兵(功山寺決起)、防長回天の一歩を踏み出す。

この時「遺書」らしき手紙を書いている。

幾たびか死を回避してきた「男」が、ようやくそこを「死して不朽の見込み」

ある場所と決めたのであろう。




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