8.18の政変
世はかりこもと乱れつつ 茜さす日のいと暗く 瀬見の小川に霧立ちて へだての雲となりにけり
うら痛ましや、たまきはる 内裏に明暮れとのいせし 実美朝臣に季知卿、壬生、沢、四条、東久世
その他錦の小路殿、 いまうき草の定めなき 旅にしあれば駒さえも 進みかねてはいばえつつ
降りしく雨の絶間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山浅茅顔が原 露霜わきてあしがちる
難波の浦にたく塩の 辛き浮世はものかはと ゆかんとすれば東山 峰の秋風身にしみて
朝な夕なに聞き馴れし 妙法院の鐘の音も なんと今宵は哀れなる いつしか暗き雲霧を
払ひ尽くして百敷の 都の月をしめで給うらむ

これは、文久3年(1863)8月18日の政変で京都を追われた尊攘派の七卿が長州を目指して落ちていった際、久坂玄瑞が詠った今様である。

此の年の6月、尊攘派のリーダー的存在である「真木和泉」が入京して志士らに<攘夷親征と倒幕の決行>を説いた。

また長州藩も藩主の意見として<攘夷親征>を公卿たちに説いた。

関白鷹司は親征をなすべきかどうかを在京中の因幡・備前・阿波・米沢藩主らに相談したが、いずれも反対意見であった。
しかし、三条実美らの尽力で「今度、攘夷御祈願として大和国へ行幸、神武帝山陵・春日社参拝してしばらく御逗留、御親征軍議あらさせられ、その上伊勢神宮行幸の事」との詔が、8月13日に出された。

この時が尊攘過激派の絶頂の時であり、その中心が「長州藩」であった。


横道にそれますが・・・この文久3年(1863)は「維新史」の一つの「転機」となる年です。

1月 将軍後見職一橋慶喜、入京
2月 長井雅楽失脚、長州藩尊攘派が実権を握る
   清河八郎の浪士組、入京して壬生村に分宿
3月 孝明天皇、将軍家茂を伴い攘夷祈願(上賀茂・下鴨社)
   新撰組創設、京都守護職に属す
4月 清河八郎暗殺
   孝明天皇、石清水八幡宮に攘夷祈願
   幕府、攘夷期限を5月10日と上奉
5月 長州藩、米船ペムブローグ号砲撃(攘夷実行)
6月 米・仏、長州藩に対し報復攻撃
   【高杉晋作】、奇兵隊を編成
7月 薩英戦争
8月 朝廷、攘夷親征祈願のため神武陵行幸を宣布
   8月18日の政変
   天誅組挙兵
9月 芹沢鴨暗殺
10月 生野の変


本題に戻りますが・・・

孝明天皇は熱烈な攘夷論者ではあるが、それはあくまで幕府が中心で、公武合体で行おうとの考えであった。まして倒幕といった現実政治の変革までは望んでいない。
また一橋慶喜や松平容保の云うように攘夷開戦するのは、時期尚早だと考えていた。

天皇は、とりあえず期日の迫った親征の事はしばらく延期したいと思い、中川宮に意中を打ち明けた。

そこで、中川宮は前関白近衛忠ヒロ父子や右大臣二条斉敬ら公武合体派公卿と謀り、藩主松平容保が京都守護職にある会津藩と、寺田屋事件で急進派を排除した薩摩藩の武力に期待した。

8月18日の朝議では、大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内・外出・面会の禁止長州藩の堺町門警衛免除(薩摩藩がそれに代わる)などが決定された。

そうして中川宮から、天皇の言葉が伝えられた。

「このころ、国事担当の者たちは長州が主張する暴論に従って、天皇のお考えでもないことをそのように申立てた場合が少なくない。なかでも御親征行幸などのことでは、まだその機会ではないとお考えであるのに天皇の御意思であるかのように発表したため、ご立腹も大変である。攘夷のお気持ちは変わられないが、行幸はしばらく延期される。(略)長州の大変な計画に同意して天皇までを引き込もうとしたことは不忠の至りであり、三条中納言(実美)はじめおって取り調べるので、まずは禁足し、他人との面会はとりやめること」

特に取り締まるべしと指名された尊攘派の中心人物は、真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎・宮部鼎蔵・轟武兵衛などである。

こうして長州藩士、尊攘派公卿、尊攘派諸藩士をあわせて2600人程が妙法院に集まって協議し、一旦長州に退いて再挙を図ることなったのである。

尊攘派は此の政変は中川宮や会津・薩摩藩などに天皇がそそのかされた結果であると解釈し、やがては禁門の変に繋がっていくのである。

この中川宮は大政奉還の翌日に辞職。明治元年に新政府から親王などの位階を停止され、広島に流されている。

この政変をきっかけとして、京(朝廷)を牛耳る様になったのが「薩摩」である。

尊攘派の失脚に伴い、行き場を失った者たちが蜂起する。
天誅組の蜂起である。此の戦いで土佐の吉村寅太郎が戦死している。

生野でも蜂起した。

此の戦いでは平野国臣が捕らえられ翌年、斬殺されている。


さて、「高杉晋作」は8月18日に「何をしていたか?」

奇兵隊と先鋒隊が教法寺において衝突(教法寺事件)したのが、丁度この頃。
京での政変知る由も無し。

翌月に奇兵隊総督を免ぜられている。後任は、滝弥太郎・河上弥一。
しかし河上は生野の変に参加、敗死している。



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