吉田松陰【憂国】から【改革】へ
松陰の、西洋列強の侵略の手がアジアに迫っていると言う認識は、黒船来航をきっかけとして、彼の中に現実化し、もはや侵略の問題を認識の段階に終わらせておくことは出来なかった。
この黒船来航という一つの事件は、それほどまでに、彼に衝撃を与え、彼の全存在を巻き込んでいった。この様に松陰が全存在で受け止めたモノは、父百合之助から、感覚的に注入された「忠」の意識であり、それに連なる「愛国の至情」であり、日本民族への誇りであった。事に、中国の書物を通じて中華思想を学び取ってきた松陰には、日本は、すてきな国、守るに値するすばらしい国という観念が育っていたとも思われる。

しかも、黒船を前にして、これと言った定見もないまま慌てふためき、あまつさえ、「古聖賢の言葉、行為に名を借りて、自らを弁護しながら、向こうの云うままになっている。」(幽因録)幕府の姿を見たとき、兵学者松陰の中の、怒りと不安は膨らんでいく。こうして、松陰の思想と行動は急激な展開を見せていく。

松陰は、盛んに藩主に献言した。当時の松陰は藩主の眼を開明にし、藩主によって、この危機に取り組んでもらおうと考えた。

だが、この時既に、藩の兵学師範から日本の兵学師範に脱皮していた松陰には、日本の侵略を狙う西洋諸国の調査は急務であった。
長崎からロシア艦を通じて、また下田からアメリカ艦によって海外に出ようと云う計画は全て、兵学者松陰の視点から生まれたモノであった。そして、この命を懸けた行動に追いやったモノは松陰の中の「愛国心」であった。
事破れて獄中の人となった松陰の中の「愛国心」と「危機感」は、行動を断ち切られたとき、ますます熾烈になっていった。

獄中での松陰は、まず、その関心を「日本の発見」に向けた。
すなわち、大和朝廷の誇りと合理化の為に書かれた数々の書物の読破である。
その書物を信じ、それを自らのよりどころとしていった。批判など、松陰にとっては、とんでもないこと事であった。
そして、「この発見」が「忠」の思想に変革を興すきっかけとなっていった。

即ち、藩主・幕府・天朝へと貫かれた「忠」の意識が、藩主(幕府)・天朝への「忠」となり、幕府は藩主と同格に置かれたのである。と同時に、藩主や幕府への絶対的忠の観念を相対的なモノに転換させ、「絶対的忠」は「天朝」に対してのみ成立すると考え始めるのである。

かつては「忠臣は二君にまみえず、諫死あるのみで、他国に行くなんてとんでもない」といっていたのが、「藩主が諫めをきかず、道理を行わないばかりか、小人を助長するようなときは、官を辞し、身を退く」事を認め、「将軍は天朝の命ずるところで、もし足利氏のように、むなしくその職にあるときは、直ちに廃するも可」(講孟余話)と言い切るようになる。松陰は初めて、幕府批判、諸侯批判の拠点を掴んだのである。

早速、当時長州藩きっての学者とみなされた山県太華の批評を乞うた。
松陰としては、太華の賛同を予期してのものであったが、太華からは、あっさりと突き放されてしまった。

太華は松陰に答えた。「神武天皇が西国よりおこって、諸国を平定してから代々聖君がでたが、天子に人民を治める事が出来なくなったときは、これに代わって他の人が治めるのが、自然の道理というモノ。藤原氏が治めるようになったのも、徳川家がそれに代わったのも、天子が日本を治めることが出来なくなったためである。天下が天子の天下でなくて、天下の天下であるということははっきりしている。貴方が天下を天子の天下というのは、とんでもないことである。寸地一民といえども、天子が勝手に出来ないときは、天子のモノと云うことは出来ない。歴史的に見てもそうではないか。諸侯が持っている今の禄にしても、幕府から受けたモノである。貴方は、わが長州藩が代々天子に対して臣礼をつくしてきたように強調するが、参勤交代の時、京都に立ち寄ったことはあっても、天子に対して臣礼を尽くしたようなことは一度もなかった。全く路傍の人と変わらなかった。藩主に不忠になっても、天子に忠義になればよいというが、心得違いも甚しい。人はそれぞれ、王臣・幕臣・諸侯の臣・大夫の臣とあって、その主君に対して忠を尽くしてこそ、世の中は平和に治まる。君臣相対して、争乱を引き起こして、どうして、天子の御為になると言うことが出来よう。事実を見て、事実に従って考えるべきである」
(講孟余話評語)と。

それに対し松陰は「外国は人民がいて、しかる後に天子ができた。日本は天子があって人民が出来たのである。先生は神代巻を信じないから、こういう説をなすのである。論ずることは勿論、疑ってもいけない。ただ信奉すればよいのだ。特に疑わしいところは取り除けばよい。もし土地、人民が天子のモノでないとすれば、幕府のモノでもなくて人民のモノである。しかし、僕はこの立場をとりたくない」と反論する。

幕府批判の視点をつかんだ松陰は、それ自身は古いモノであったが、逆に、時代に対して変革的な姿勢をもつことになる。

そして、幕府批判の視点は松陰の現状認識でもあった。即ち、月性から「幕府を倒すべきである」と云ってきたとき、「西洋列強が日本を狙っている今、国内で相闘うときでなく、有志が諸侯と力を合わせて、幕府を戒めながら、この困難に立ち向かうときである」と答えた。それは、幕府について考えた結果、「衰えたと云っても、諸侯の賢否、武備の強弱を一々知っており、人材も到底、諸藩の及ぶところではない」(獄舎問答)それに「幕府に代わって、日本を指導して行くだけの人物はまだない」(兄への手紙)と言う結論に到達したためである。この様に幕府批判はありながら、幕府の否定にいっていない松陰だが、安政5年7月、幕府が天皇の許可なしに日米通商条約に調印したのをきっかけに、その立場は大きく変わっていく。

天子の意に叛くモノとして、許すことの出来ない幕府という認識であり、その否定である。
「将軍は天下の賊、今討たずんば、後世の人たちはなんといおう」(大義を議す)さらに、13歳の将軍をたて、22歳の慶喜を抑えた事は、松陰としては我慢が成らなかった。今こそ聡明の将軍が必要なときに、その反対をゆく老中たちはなんとしても許せなかった。とはいっても、その時は、まだ幕府そのものの否定でなく、幕府の政治家達の否定である。

松陰は水野土佐守の暗殺、老中間部の要撃と、はっきり幕府権力に対決していく。しかも、これが、藩政府の妨害で失敗に追い込まれたとき、長いこと疑うこともなかった藩政府への否定へと踏み出すのである。
「これまで、藩政府を相手にしてきた誤り」(野村和作あての手紙)

安政6年4月に、野村和作にあてた松陰の手紙は、彼の立場をもう一つはっきりさせている。「今日の日本の状況は古今の歴史にもないほどに悪い。なぜかといえば、アメリカが幕府の自由を抑え、幕府は天朝と諸侯の自由を抑え、諸侯は、国中の志士の自由を抑えてしまっている。その為に、心ならずも天朝に不忠をしている。それというのも、アメリカの大統領の方が将軍よりも智があるし、その使者は、老中の堀田や間部より才があるからである。人物が及ばなければどうにも成らない。このままでは、乱世も無しに直ちに亡国になるしかない。今大切なのは日本を乱世にすることである。乱世に成れば何とか打つ手も出てくる。だめになったわが藩を、外から蹶起して変革する方法もある」
(4月4日)
「今後はこれまでの方法を変えて草莽蹶起という方法でやってみよう。その為には少しでも早く獄を出るように考えることである。」
(4月14日)

北山安世への手紙には、「幕府にも結局人物はいなかった。小さな事は分かっているようだが世界の動きを見通して大略をたてられるような人物はいない。
外国との交渉は、向こうの云うなりになって、次々と制せられている。黒船以来数年にもなるのに、航海の策一つない。ワシントンがどこにあり、ロンドンがどんなところか分からない連中に何かができるわけもない。たとえ、一、二の人物があったからといって、ああ下らぬ連中が多すぎては、どうすることもできまい。公卿たちの陋習となると幕府よりももっとひどい。ただ外国を近づけては、神国の汚れというだけでどうにもならない。これでは旨く行かないのも無理はない。ナポレオンのいう自由でも唱えないとだめかもしれない。今となっては草莽蹶起の人を望むしかない」(4月7日)と幕府に絶縁状を叩き付けると共に天朝への批判が始まる。

松陰が終始、第一に考えたのは、日本を外国の侵略から守るという事である。
そして、その責任者として、初めは藩主が意識されたが、次第に、日本的規模における統率者として、天朝が浮かびあがった。天子が深く外国の侵略を心にかけていることを知って、国を思う同志の中心として、中心になりうる人間としてうけとめられていったのである。しかし、天子をとりまく公卿たちもやがて幕府や諸侯と同じく、失格者としてうけとめられるのである。

松陰がその後、西洋の列強に対抗できる日本として、どういう構想をもっていたかは定かでないが、同じ北山安世への手紙のなかで、「アメリカはその建国の方法がいい。国も新しく最強国である」と書いている。ナポレオソの自由を唱えたいといっている点からみても、最低、自由と独立を求めて建国されたアメリカを認めていたことだけはたしかであろう。
しかも、松陰はすでに魏源の「海国図志」を読んでいた。この本の中で、魏源は、世界各国の政体を君主政体の中国、トルコ、君民同権の英、仏、共和制で主権在民のアメリカの三つにわけて説明している。世襲制の場合、必ずしもつねに明君を仰ぐことができないことを知悉していた松陰としては、アメリカに相当共鳴していたのでほあるまいか。選挙で選ばれた米大統領の知恵を評価していたのではあるまいか。
「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。只六尺の我が身体が必要」(野村和作への手紙)という立場に到達したのは、これらの考えが、無意識のうちに影響したとはいえよう。獄中で死をみつめて生きる松陰にとって、たのむべきものが自分しかないことを知ったのも当然であった。
「忠」についても、これまで天子とか藩主とか、つねに何かへの忠であったのが、「我が心に生きる、我が心の限りをつくす」(前原一誠への手紙)というふうに変わってきている。

この頃から、松陰は弟子たちに対しても、さかんに亡命をすすめはじめている。
自覚した一個の志士として自分を確立するように求めはじめる。松陰は絶望と不信のなかから、個としての人間を発見し、個としての人間の確立に向かって、大きく一歩ふみだしたのである。
しかし、ここまで達した松陰が、安政二年当時の彼の「所謂世人のいう尊爵は其の尊爵ではない。真の尊爵は人々の固有するところのもの、何をくるしんで、人の役となることがあろう」「人はすべて、徳を心にそなえている。尊重といわねばならない」「天は民心を以て心とし、民の視聴を以て、視聴とする」(講孟余話)考え方と重なりあったとき、彼の思想がどう発展していったかは容易に想像できる。

松陰の思考はこれから本格的にはじまろうとしていたということがいえる。
日本の未来へのビジョソをいよいよ構想しようとする。まさにその地点で、彼の思考は断ち切られてしまったのである。



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