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肥後人
隣の鹿児島県と県民性を比べる時によく引き合いに出される言葉が、

「薩摩の大提灯、肥後の鍬形」

薩摩では先頭に立つ者が、大提灯をかかげて先導するが、肥後では一人一人が鍬形の兜をかぶって大将気取りという意味。

連帯意識が薄くてしかも議論好きなので、まとまらず、立ち遅れる。

「肥後の議論倒れ」

さらに頑固 「肥後モッコス」

この「肥後人」の性格を踏まえて幕末を見てみると・・・

藩政は、ほとんど藩校時習館の出身者が牛耳っていた。
時習館の学風は朱子学をモットーとして「古註を主とすれども真註を捨てず」といった立場であったが、次第に字句の意義の解釈に終始する傾向が強まり、詩文をもてあそぶことを学問とする、道学者の養成所となっていた。

藩の主流派は、こういう時習館の方針に一本化されるべきとする「学校党」で佐幕であり、中心人物は筆頭家老松井佐渡であった。

それに対抗するのが米田是容(長岡監物)や横井小楠を中心とする「実学党」で、学問は古典の字句の詮索を目的とせず、経世の為にあってそれを現実社会に適用すべきであるとした。

実学の名は、学校党が「横井平八郎(小楠)は実学めさる。学に虚実のあるものか」と辛かったところからつけられたものであった。

小楠ももちろん時習館に学ぶが、29歳の時に居寮長となる。
天保10年(1839)、31歳の時に江戸遊学を命ぜられ、藤田東湖ら一流の人物と交わって見聞を広めた。しかし、酒の上での些細なことから帰国させられてしまった。彼は酒癖もよくなかったが、「横井の舌剣」と言われるように人をバカ扱いにして言いたい放題の所もあった。 (・・;)

この小楠を中心として集まったのが、米田(長岡)の他、荻昌国・下津休也・元田永サネらである。米田は三家老の一人、荻・下津・元田は、時習館で小楠から教えを受けた者たちであった。

また小楠は家塾も開いたが、そこでの第一番目の入門者は、徳富一敬で、蘇峰・蘆花の父であった。

小楠の説くところは、藩上層部の贅沢を禁じて下の者を潤すとか、特権商人ばかりを太らせる貨殖政策を廃止するとかであったから、当然藩体制への批判であり、激しい政争の中で学校党に抑えられてしまった。

結果、米田(長岡)は家老職を退き、元田は実学党と手を切るように父から言われた。(この元田は、維新後、熊本県知事を経て明治天皇の侍読となっている。)

ともかく小楠の藩政改革の夢は消え、その抱負は松平春獄に招かれた越前で実現されることになった。

当時京都では、肥後藩は親幕藩とみなされて、肥後人は幕府側のスパイ扱いされるしまつである。
薩摩の者たちが肥後領を通る時には、見向きもせずに一気に走り抜けるようにしたとさえ言われた。

そんな中で肥後勤王党があったが、純粋な精神論に傾き、攘夷主義を固守して中央政局の動きに暗く、偏狭で非政治的な色彩が強かった。

文久元年(1861)前後に、京都の田中河内介(大納言中山忠能の家臣)・庄内藩の清河八郎・長州藩の来原良蔵らが来て倒幕のための連携を説くが、議論に熱中するだけで重い腰を上げようとはしなかった。

清河は、「肥後人は議論倒れで、役に立たない」と憤激して帰っている。

この肥後勤王党の思想的源流とも言うべき存在なのが、林桜園である。
林は、小楠とは、思想的には対極に位置する人物である。

その門下には、宮部鼎蔵・松村大成・永島三平・轟武兵衛・河上彦斎・太田黒伴雄・魚住源次兵衛・山田信道らがいた。

宮部は、吉田松陰の無二の親友で池田屋事件で自刃。

池田屋事件では、宮部に師事していた松田重助も巻き込まれている。
(ちなみに、沖田総司に首をはねられている。)

禁門の変では、高木元右衛門・内田弥三郎が戦死。
(高木は、池田屋では近藤勇に一太刀浴びせて重囲を脱出して、長州屋敷に変を急報したとされている。)

天王山で真木和泉らと自刃した者の中に、6人の肥後人がおり、鼎蔵の弟宮部春蔵もいた。

河上彦斎は薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵とならんで「幕末の三人斬り」と言われた人物。(佐久間象山を暗殺したのもこの人)
轟武兵衛に儒学・宮部鼎蔵に兵学・林桜園に国学を学んだれっきとした藩士である。
(この男、「あの」高杉晋作を罵倒しているのです。)
禁門の変の後、長州へ逃れるが、下関戦争で敗れて和睦した高杉に対し、「区々たる勝敗でもって和議を行うとは何事か」と。

明治4年10月、38歳の時、逮捕のち斬罪。
(生かしておけばどんな陰謀を企てるか分からない、という木戸公の主張によるものだったとか・・・)

勤王党は、明治になって二派に分裂。
山田信道ら政府協力派と太田黒伴雄らいわゆる熊本敬神党(神風連)である。

河上彦斎と太田黒伴雄は同じ天保5年(1834)の生まれで、林桜園の後継者。

のち、太田黒は明治9年(1876)10月24日の深夜、県庁と城内の歩兵・砲兵の兵営を襲撃し、鎮台司令官と県令に重傷を負わせ(二人とも、あとで死亡)4人の県庁役人を殺害した。
鎮台側の戦死者約60名・負傷者約200名。
太田黒側は約170名の参加者のうち、戦死者28名・自刃86名・捕縛46名。
(神風連の乱)

(余談)
熊本鎮台司令長官陸軍少将種田政明(薩摩出身)が襲撃されたとき、同衾していた妾の小勝が東京の父に宛てた電文「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」はすぐ東京の新聞に載り、当時評判になった。

熊本鎮台兵はこの当時、城下で子供からも「クソチン」と軽侮された徴兵による兵隊であった。
しかしこの弱い兵隊だったために1年後の「西南戦争」への影響が出てくる。
すなわち、西郷軍は、熊本鎮台兵を侮り、逆に、政府は、この乱の後、谷干城を司令長官に任命し鎮台兵の強化を図ったのである。

この時、熊本鎮台を救ったのが、当時24歳の児玉源太郎である。

こうやってみてみると、「肥後」は「幕末史」の表舞台には全く出てこない。(ーー;)



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続・肥後人
熊本では、「横井小楠」でさえマイナーな存在、宮部鼎蔵に至ってはよほど維新に興味がある人でなければ、知りません。 (ーー;)

ただ、「西南戦争」については地元が主戦場だっただけに「異常に」詳しい方がかなりいらっしゃいます。
「おるだけが知っとる話ば聞かせちやるけん」というたぐいの方達ばかり (ーー;)

マッ!お国柄でしょうか、「聞かせて上げる」ですからネ。

熊本には「かんなし」という言葉があります。
「あやつは、かんなしだけん」とか使います。
「限度(手加減)を知らない」の意。

この「かんなし」人間は、戦争になると強かった。

また、熊本では「細川」より「加藤清正」の方がより慕われています。
「清正公」の事を「せいしょこさん」と呼び、熊本城近くに「加藤神社」があります。
このお殿様は「城造り」の名人、大阪城もこの方の「作品」
熊本城の「武者返し」と呼ばれる城郭の曲線は見事。
この「武者返し」から「むしゃんよか」(かっこいい)という言葉が生まれています。

(余談)
熊本には
横井小楠記念館
西南戦争跡地(田原坂ーたばるざかー等)
神風連記念館

後、宮本武蔵関係(五輪の書を書いた所等)

ぐらいしか「歴史」に関わる「見るべき所」はないです。

ただ、「酒」は旨いのがあります。(^o^)



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高杉信者が読みたくない晋作本
ここに、「高杉晋作信者」(無論私も入ります)が思わず「破り捨てたく」なる一冊の本をご紹介いたします。

我らの「高杉晋作」を徹底的に(これでもかこれでもかと)ネガティブに描いた作品です。

さて、この作品はなんでしょう。)^o^(

「奇兵隊の叛乱」早乙女貢です。特に、「世に棲む日々」を読まれた後に読まれることをお薦めします。

(余計に怒りがこみ上げてきますので)(^o^)

ちなみに私は、一読した後、燃やしました.....(-_-;)



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肥後のお殿様と横井小楠
以前アップした「肥後人」と重複になりますが、まず、熊本の県民性について、

「肥後の鍬形」「肥後の議論倒れ」

肥後では一人一人が鍬形の兜をかぶって大将気取りという意味。連帯意識が薄くてしかも議論好きなので、まとまらず、立ち遅れる。

さらに頑固 「肥後モッコス」

即ち、「保守的」転じて「反革命的」・「出るくぎは打たれる」どころか「出る釘は抜かれる」

熊本の名君と云えば、何と言っても「加藤清正」しかしその後の「細川」にも名君は居ました。

六代藩主「細川重賢」
家老「掘平太左衛門」とのコンビで<宝暦の改革>を成功させています。
<此の改革は1752年7月27日にスタートしています。>
この時の改革は《大倹約》・《殖産興業》・《人材育成》の三つ。
《人材育成》の一環として藩校「時習館」が作られるわけです。

その後の藩主は「肥後モッコス」を発揮、名君「重賢公」の言いつけを守り通した。

幕末時の藩主十二代「斉護」・十三代「韶邦」とて同じ事。
<此の藩主の子孫が元首相の方>

さらに家臣達は「肥後の議論倒れ」其の結果、「藩政は、ほとんど藩校時習館の出身者が牛耳っていた。時習館の学風は朱子学をモットーとして「古註を主とすれども真註を捨てず」といった立場であったが、次第に字句の意義の解釈に終始する傾向が強まり、詩文をもてあそぶことを学問とする、道学者の養成所となっていた。
藩の主流派は、こういう時習館の方針に一本化されるべきとする「学校党」で佐幕であり、中心人物は筆頭家老松井佐渡であった。」という結果を招くようになるわけです。

それに対抗するのが、長岡監物や横井小楠を中心とする「実学党」で、学問は古典の字句の詮索を目的とせず、経世の為にあってそれを現実社会に適用すべきであるとした。

で、時の藩主「斉護公」は肥後版「そうせい侯」。
さらに、長岡に絶大なる信頼を寄せていた為に、「学校党」と「実学党」の対立が激化。
(この辺は、長州で云う「正義党」・「俗論党」の対立とよく似ています。)

その「学校党」の標的となったのが「横井小楠」。
「出る釘は抜かれる」とはどういう意味かその後の横井に対する仕打ちを考えられれば一目瞭然。
(横井小楠に関しては機会が在れば別途アップ致します。 m(__)m )

その横井の旧宅「四時軒」の跡に<横井小楠記念館>を作る際のエピソード。

前述した様に何と言っても熊本で人気があるのは加藤清正。
横井小楠に対しては、それ程市民の関心はない。また城下町の通弊で武士の子孫が多いから、学校党に対抗して、実学党を組んでいた小楠の評判は芳しくない。
特に、酒癖からの「士道忘却事件」は、未だに小楠に対する悪印象を保たせており、「そんな問題児の横井小楠を、何で我々が顕彰しなければならないのだ」と言う声が多く、小楠顕彰会の方々はかなり苦労されたとのことです。

つまり、肥後は重要な時期に藩内の権力争いに没頭し時勢に乗り遅れた・・・
重要な人物を自らの手で引っこ抜いてしまった・・・・

結果、維新に乗り遅れたと言うことです。


私の周りには「薩・長・土・肥」の「肥」は「肥後だ」と思っている輩が殆どです。(ーー;)



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功山寺決起
功山寺決起は、高杉晋作の生涯を賭けた決死の行動であった。
従ってそこには、晋作の人間性も余す所無く発露されている。

決起の直接的目的は、幕府に全面降伏しようとする俗論政府を倒して、正義派の手に長州の政権を奪取することにある。
その前途にあるのは、もちろん朝議回復でも攘夷決行でもなかった。防長割拠の実現、討幕、そして国家統一へと連なる道を目指したいたのだ。

ではなぜ12月15日が、決起ギリギリの期限として選ばれたのか。

幕府征長軍が長州に示した条件は3つあった。3家老の首を差しだし、山口の城を壊し、藩主父子の萩城外蟄居を受け入れた俗論政府は、5卿を九州へ移す約束だけが、実現できずにいた。

幕府が、長州藩を完全に制圧してしまえば、長州の正義回復は非常に難しくなる。もちろん俗論党の目の上のたんこぶである人民諸隊を、そのままにして置くはずはない。正義派の勢力は分断され、長州は幕府の傀儡にすぎなくなってしまうだろう。

正義派諸隊にとって、最後に残った防波堤は、5卿であった。諸隊は長府功山寺に5卿を擁している。5卿は朝議から追放されているとはいえ、天皇の直臣であるから、幕府も迂闊に手はだせない。まして長州藩政府にとってはやっかいな存在だった。逆に諸隊の方は、5卿の守衛という切り札を持っていることになる。

幕府も俗論政府も、5人の公卿を長州から追い出し、九州へ移す事に躍起となった。5卿という手中の玉を諸隊が手放してしまえば、後は一網打尽である。

九州行きを拒んでいた5卿も、周囲の猛烈な工作に動揺の色を見せた。
晋作がいよいよ決起の意を固めたのは、5卿が諸隊幹部と、九州渡海の日限について相談する会議を開いた時であった。

もう一つ差し迫った状況は、奇兵隊総督赤根武人が、俗論党と妥協工作を始めていることである。山県有朋や大田市之進など諸隊幹部も、赤根の交渉に一縷の望みをかけて、日和見主義を決め込んでいる。赤根が俗論党に籠絡されていることに気がつかないのだ。

しかし晋作は俗論党の本質を見抜いていた。妥協の余地はないのである。
そのことが呑み込めぬ諸隊幹部と大激論の末、とうとう彼等を怒鳴りつけたが、幹部は動こうとしなかった。このまま放っておけば、諸隊はずるずると俗論党の術中に陥ってしまう。

晋作は、決起に賛同した石川小五郎の率いる遊撃隊、伊藤博文と配下の力士隊の一部、前原一誠らと共に、わずか70数名をもって蜂起した。

それは一つの賭けだったという人もある。晋作の無鉄砲な激発が、結果として成功したにすぎぬとする見方もある。そうだろうか。

晋作の決起は、一つの確乎たる自信に支えられていた。いま一時的に日和見幹部の逡巡に押さえられていても、750人の隊員達は、自分が起てばきっと附いてくる。そしてその隊員の後ろに、防長30万の、正義を求める人民が繋がっているという信頼であった。諸隊も防長人民も、晋作のこの確信を裏切らなかったのである。

1865年(慶応元年)1月、小郡周辺の庄屋同盟を始め豪農商の物的、精神的援助、沿道の住民あげての支援を受けながら、諸隊は萩城へ向かって進撃した。ついに俗論党は政府から追放され、長州政権を掌握した正義派によって、防長割拠体制が実現したのである。

その割拠は、はたして、第一次征長の中で幕府に矛盾を感じ始めていた薩摩藩にも押し出された。それは、1年後の薩長連合という討幕勢力の大同団結に繋がったのであった。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

伊藤博文は後年、下関吉田の東行碑文にこう刻んだ。権力に阿る「肉食の人士」(門閥世襲の士族)よりも、社会の矛盾に真正面から取り組んで変革を目指す人民を信頼し、その力に依拠して、雷電風雨の如く、維新革命へ突破口を開いた功山寺決起。

それは130年の時を越えて、激しい矛盾の中で戦い続ける現代の人々の胸に、不屈の確信を与え、大きな炬火を燃え上がらせずにはおかないであろう。


>>そして国家統一へと連なる道を目指していたのだ。

>前から疑問のことでした。
>晋作は倒幕後の事について、なにか書き残しているんですか?

目先の討幕の事で討幕後の事など考える時間が無かった、(^^ゞ
のでしょうか?討幕後の具体的なモノは何も書き残してはいません。

それでは、面白くありませんので、「強引に」討幕後の考え、をこじつけてみました。(^^)

藩論統一なった慶応元年(1865)3月の「回復私議」と「前原一誠への手紙」の中にそのヒントを見いだしました。(^^ゞ

『回復私議』

「和戦決定、御歎願御成就の上は、大割拠の御廟算にて、富国強兵、日新の御政事これあるべし。」
「民政正しければ、すなわち民富む。民富めば、すなわち国富み、すなわち良器械も手に応じて求められるべし、」


『前原一誠への手紙』

「今後は国内の規律を正し、農民は農にかえり、商人は商をもっぱらにし、人材を用い、米銀の管理取り締まりを行うことが急務です。大組士の強壮の者をもって干城隊を振興するのは大幸の至りで、諸隊の指揮号令も干城隊総督が諸隊の総管に伝え、奇兵隊半分、遊撃隊半分を、赤間関と小瀬川口へ交代で出張させ、そのほかの諸隊も、馬関、小瀬川、石州口へ手分けし(中略)このように防衛態勢を整えた上で、京都へ使者を立て、防長の御大主と天下に仰がれるようにしなくては、勤王義兵の実効はあがりますまい」「私は反逆の大罪を犯した者ですが、切腹して詫びるのは愚かなことだと思います。そこで、伊藤俊輔と一緒にイギリスへ行ってみたい。馬関もいずれ開港されることでしょうし、その時は外から国のためにつくすこともできようと考えます。ともかくも、防長二国を五大洲中第一の強国にすれば、随分勤王もできようと考えます。けれども、それも天下の形勢を見なくては駄目です。双眼四足は防長にあって、しり目に天下の形勢をうかがうくらいで、丁度よろしいかと存じます。私はとかく割拠づいているため、この様な説を吐
 くのでしょうか。」

以下は東行の「戯れ言」

晋作は討幕の後は、諸外国と対決して、日本の独立を全うすることが目標だったのではなかろうか。長州藩を割拠させ、次は日本を割拠させる。

>>赤根が俗論党に籠絡されていることに気がつかないのだ。

>ここも、異議を唱えたい。
>資料に基づく訳ではないが、赤根はかなり現実的な性格をしていたのでは?
>当時の状況を考えると、俗論党だけでなく、権威は落ちたといっても幕府軍の圧倒的な兵力差は、奇兵隊のみならず諸隊に圧力としてひしひしと伝わっていたでしょう。奇兵隊をあずかる赤根は、総督として当たり前の行動を取ったのではないでしょうか。それを責めるのは、酷だと思いますが。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言う様に、「勝利者=正義」という評価をされてしまう。そう言った意味においては、赤根は「歴史の犠牲者」だと思います。しかし、私個人の「赤根の評価」の中に、一つだけ、決定的な汚点が在ります。すなわち、奇兵隊総督の責を放棄して逃亡し、(これは、諸事情を考慮した行動と、取れ無くもないですが・・・)よりによって新撰組の庇護を受けている点です。私は、こういう類の人物は「嫌い」です。(^^ゞ
そういう眼で見ているせいか、赤根の行動には「私心」が見え隠れする様に思えてなりません。

「長州藩」というモノを考えた場合「武備恭順」がよかったのか、はたまた、「謝罪恭順」がよかったのか、結論づける事は出来ないと思います。

ただ、俗論党は世禄の士を中心とした輩、藩の存亡=自己の保身との考えが強かったのではなかったか、「敬親・元徳」公の命よりも「御家大事」つまり、「自分がかわいい」(あくまでも極論です。(^^ゞ)

藩主は「武備恭順」という姿勢を打ち出していたにもかかわらず、その決定には従わなかった。幕府の傀儡に成り下がる「長州藩」それでも「藩が存続すればいいのか」、その状態で「明日」は来るのか、と思ったりもするわけです。

俗論党と赤根、「利害が一致」もしくは、俗論党が赤根を利用した、という風に考えてしまうのです。

>>晋作の決起は、一つの確乎たる自信に支えられていた。いま一時的に日和見幹部の逡巡に押さえられていても、750人の隊員達は、自分が起てばきっと附いてくる。そしてその隊員の後ろに、防長30万の、正義を求める人民が繋がっているという信頼であった。諸隊も防長人民も、晋作のこの確信を裏切らなかったのである。

>でも、やはり、賭には違いなかったと思います。
>こういう、「後から兵が集まってくる」というもくろみで決起した人は史上たくさんいますし、西郷もそうでした。こういう場合、みもふたもない言い方ですが、信頼だけでは兵は集まってきません。
>諸隊の多くは、足軽や農家町家の次男、三男だったと思いますが、赤根の交渉が成立したら、その多くが放りだされるのは目に見えており、その彼らも「いちかばちか」の賭をしたのでは?
>晋作としても、いくら計算し、確信していても、彼らが本当に追て来るかは賭だったでしょう。


「東行の戯れ言」

先の発言「結果論」と云われれば、そうでしょう。(^^ゞ

この時の晋作の立場とすれば「決起」しか方法はなかったというのが本音でしょう。

松陰処刑→池田屋事件→禁門の変→俗論党による弾圧、で残された「正義派」の内、リーダー格は「晋作」と「小五郎」。
小五郎は行方不明、となれば、自分しかいない。ここは、「男」として「筋を通さなければならない。」
そして、其れが出来るのは「今しかない」と。

それにしてもこの時の晋作の作戦は見事だったと思います。

容易に落とせる「奉行所」を襲撃し、「金と食料」を押収。
その後、軍艦3隻調達。この軍艦を手に入れたのが、決起の成功の鍵だと思います。
この頃長州海軍は、幕府の命令で活動を禁止されており、いずれ没収の運命になるものと目されていたモノ。そこで、晋作は乗組員を説得し、「海の男達の働き場」を与えるわけです。
さらに、三隻の軍艦が萩を襲撃する噂をばらまく。その噂を真に受けた俗論党は、正規軍二千人の内一千人を萩に残す羽目になった。
戦わずして、戦力を減少させた事になります。

この時、俗論党が、松島剛蔵を処刑せず、海軍力を聞き出していたら・・・
奇兵隊排除と受け取れる布告を発していなかったら・・・・・

決起は成功しなかったでしょう。仮に、最初から奇兵隊が決起に参加していたとしても、正規軍二千人と戦うとなると敗北したと思います。

俗論党の「小心」を見抜いての「挙兵」←少し買いかぶりすぎでしょうか。(^^ゞ

しかし、どうせ「博打」するならこの位の「大博打」してみたいもんです。

>一番不思議なのは、彼らがなぜ賛同したかですね。
>わずかの手勢で毛利の殿様に鉄砲向けるなんてちょっと常識では考えられません。何がそうさせたのでしょう?

一つには、大所帯の『奇兵隊』と違って、『遊撃隊』『力士隊』などは、身軽だったこと。
最大の理由は、高杉と赤根・山県を比較した場合に、高杉に賭けたという事でしょう。

>それから晋作は本当に西郷とどこかで会っていないのでしょうか?
>(平尾山荘や対帆楼で会ったという説もありますが・・・。)

私が知りうる処では、会っていません。

>晋作は西郷に会うような奴ではありませんが、だとしたら、なぜ西郷が踏み込んでこないと確信が持てたのでしょうか?

西郷の腹は長州は生かしておいて幕府と対抗させておいた方が薩摩にとって都合がいい、というものだったと思います。
(プロレスのバトルロイヤルでコーナーで様子を見ているレスラーの様なモノ。)

>賭けには違いないですが、その時晋作が何を見ていたかがどうしても知りりたい。(^^;

松陰を見ていたんではないでしょうか?
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。」




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