肥後のお殿様と横井小楠
以前アップした「肥後人」と重複になりますが、まず、熊本の県民性について、

「肥後の鍬形」「肥後の議論倒れ」

肥後では一人一人が鍬形の兜をかぶって大将気取りという意味。連帯意識が薄くてしかも議論好きなので、まとまらず、立ち遅れる。

さらに頑固 「肥後モッコス」

即ち、「保守的」転じて「反革命的」・「出るくぎは打たれる」どころか「出る釘は抜かれる」

熊本の名君と云えば、何と言っても「加藤清正」しかしその後の「細川」にも名君は居ました。

六代藩主「細川重賢」
家老「掘平太左衛門」とのコンビで<宝暦の改革>を成功させています。
<此の改革は1752年7月27日にスタートしています。>
この時の改革は《大倹約》・《殖産興業》・《人材育成》の三つ。
《人材育成》の一環として藩校「時習館」が作られるわけです。

その後の藩主は「肥後モッコス」を発揮、名君「重賢公」の言いつけを守り通した。

幕末時の藩主十二代「斉護」・十三代「韶邦」とて同じ事。
<此の藩主の子孫が元首相の方>

さらに家臣達は「肥後の議論倒れ」其の結果、「藩政は、ほとんど藩校時習館の出身者が牛耳っていた。時習館の学風は朱子学をモットーとして「古註を主とすれども真註を捨てず」といった立場であったが、次第に字句の意義の解釈に終始する傾向が強まり、詩文をもてあそぶことを学問とする、道学者の養成所となっていた。
藩の主流派は、こういう時習館の方針に一本化されるべきとする「学校党」で佐幕であり、中心人物は筆頭家老松井佐渡であった。」という結果を招くようになるわけです。

それに対抗するのが、長岡監物や横井小楠を中心とする「実学党」で、学問は古典の字句の詮索を目的とせず、経世の為にあってそれを現実社会に適用すべきであるとした。

で、時の藩主「斉護公」は肥後版「そうせい侯」。
さらに、長岡に絶大なる信頼を寄せていた為に、「学校党」と「実学党」の対立が激化。
(この辺は、長州で云う「正義党」・「俗論党」の対立とよく似ています。)

その「学校党」の標的となったのが「横井小楠」。
「出る釘は抜かれる」とはどういう意味かその後の横井に対する仕打ちを考えられれば一目瞭然。
(横井小楠に関しては機会が在れば別途アップ致します。 m(__)m )

その横井の旧宅「四時軒」の跡に<横井小楠記念館>を作る際のエピソード。

前述した様に何と言っても熊本で人気があるのは加藤清正。
横井小楠に対しては、それ程市民の関心はない。また城下町の通弊で武士の子孫が多いから、学校党に対抗して、実学党を組んでいた小楠の評判は芳しくない。
特に、酒癖からの「士道忘却事件」は、未だに小楠に対する悪印象を保たせており、「そんな問題児の横井小楠を、何で我々が顕彰しなければならないのだ」と言う声が多く、小楠顕彰会の方々はかなり苦労されたとのことです。

つまり、肥後は重要な時期に藩内の権力争いに没頭し時勢に乗り遅れた・・・
重要な人物を自らの手で引っこ抜いてしまった・・・・

結果、維新に乗り遅れたと言うことです。


私の周りには「薩・長・土・肥」の「肥」は「肥後だ」と思っている輩が殆どです。(ーー;)



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