> 実は、小倉戦争のことについて色々調べているところですが、「船」の資料が思うように手に入りません。誰か、ご存じ無いでしょうか。
この時の長州側は、丙寅、癸亥、丙辰と乙丑ですが、その中の丙辰について。
万延元年(1860)閏3月7日、晋作が海軍蒸気科修行の為江戸行きを命じられていますが、その時乗船したのがこの船です。
(長州藩建造第1号の洋式帆船)
総長24メートル強の君沢形木造帆船で、安政3年(1856)に萩の恵美須ケ鼻造船所において起工、進水。
この君沢形は、プチャーチンが、安政元年遭難し、ディアナ号を失った際、幕府が代船、ヘダ号の建造に着手。
このヘダ号の同型を伊豆の戸田(ヘタ)と石川島で10隻建造。
最初の建造地である戸田が属していた君沢郷の名にちなんで命名されたモノ。
後、「小倉戦争」に付きましては、戦術などは、よく紹介されていますので、関連史料を紹介致します。
(戦術もと言うことであれば別途UP致します。(^_^)b )
【6月17日】の戦況
「この役や賊兵たいがい小笠原家の兵と相見へ、その勢、実は千人余もこれあり候や。所々散乱、細に相分らざれど、その兵三分の一は槍隊を用ゆ。賊中、即死手負ひなどこれある節は槍手四、五人をもって担ひ去る。味方即死、海軍二人、陸軍三人(奇兵隊一、報国隊二)、手負ひ、海軍六、七人、陸軍六人・・・」
『奇兵隊日記』
【6月18日】山県有朋
「六月十八日 朝大草臥。五つ(午前八時)過ぎ山県狂介入来、高杉を尋ねて来たり候えども、高杉居申さず、直様帰り候」
『白石正一郎日記』
【7月3日】の戦況
「兼て高杉より申付けられ、昨(七月二日)夜半前、早船に乗組み、小瀬戸より小倉沖に迫り、幕の富士艦へ近寄り、蒸気釜の辺りを狙ひ、大砲三発を以て蒸気釜を打砕き、直ぐさま水練して各六人とも海を泳ぎ福浦へ帰り候なり」
『白石正一郎日記』
【7月27日】の戦況
「敵兵は我海路の兵をむかへて劇戦し、尤も防守を勉めたれぱ、銃声乍ち起りて、乍ち止み、暫時にして又大に起る。我兵死傷数十人に及びたれども、遂に進みて敵の三塁を抜き、赤阪口を占拠せり」
「(奇兵一小隊は)大鳥越より左に折れて、山間の樹木をはん援し、危がん飛流を跋渉し、凡て路なきのけん岨を冒し、遂に延命寺の険と相対する処に出で・・・劇戦する事数時に渉り・・・死者頗る多く、傷を蒙らざるものは、小隊中殆ど稀なり。実に非常の激戦なりき」
「・・・敵の軍艦は終日、大里と延命寺の通路を砲撃したるに由り、我兵大に苦み、輜重の運搬尤も困難を極め、随て小隊半隊司令官を初め、死傷頗る多かりし」
『山県有朋 懐旧記事』
この時の長州側は、丙寅、癸亥、丙辰と乙丑ですが、その中の丙辰について。
万延元年(1860)閏3月7日、晋作が海軍蒸気科修行の為江戸行きを命じられていますが、その時乗船したのがこの船です。
(長州藩建造第1号の洋式帆船)
総長24メートル強の君沢形木造帆船で、安政3年(1856)に萩の恵美須ケ鼻造船所において起工、進水。
この君沢形は、プチャーチンが、安政元年遭難し、ディアナ号を失った際、幕府が代船、ヘダ号の建造に着手。
このヘダ号の同型を伊豆の戸田(ヘタ)と石川島で10隻建造。
最初の建造地である戸田が属していた君沢郷の名にちなんで命名されたモノ。
後、「小倉戦争」に付きましては、戦術などは、よく紹介されていますので、関連史料を紹介致します。
(戦術もと言うことであれば別途UP致します。(^_^)b )
【6月17日】の戦況
「この役や賊兵たいがい小笠原家の兵と相見へ、その勢、実は千人余もこれあり候や。所々散乱、細に相分らざれど、その兵三分の一は槍隊を用ゆ。賊中、即死手負ひなどこれある節は槍手四、五人をもって担ひ去る。味方即死、海軍二人、陸軍三人(奇兵隊一、報国隊二)、手負ひ、海軍六、七人、陸軍六人・・・」
『奇兵隊日記』
【6月18日】山県有朋
「六月十八日 朝大草臥。五つ(午前八時)過ぎ山県狂介入来、高杉を尋ねて来たり候えども、高杉居申さず、直様帰り候」
『白石正一郎日記』
【7月3日】の戦況
「兼て高杉より申付けられ、昨(七月二日)夜半前、早船に乗組み、小瀬戸より小倉沖に迫り、幕の富士艦へ近寄り、蒸気釜の辺りを狙ひ、大砲三発を以て蒸気釜を打砕き、直ぐさま水練して各六人とも海を泳ぎ福浦へ帰り候なり」
『白石正一郎日記』
【7月27日】の戦況
「敵兵は我海路の兵をむかへて劇戦し、尤も防守を勉めたれぱ、銃声乍ち起りて、乍ち止み、暫時にして又大に起る。我兵死傷数十人に及びたれども、遂に進みて敵の三塁を抜き、赤阪口を占拠せり」
「(奇兵一小隊は)大鳥越より左に折れて、山間の樹木をはん援し、危がん飛流を跋渉し、凡て路なきのけん岨を冒し、遂に延命寺の険と相対する処に出で・・・劇戦する事数時に渉り・・・死者頗る多く、傷を蒙らざるものは、小隊中殆ど稀なり。実に非常の激戦なりき」
「・・・敵の軍艦は終日、大里と延命寺の通路を砲撃したるに由り、我兵大に苦み、輜重の運搬尤も困難を極め、随て小隊半隊司令官を初め、死傷頗る多かりし」
『山県有朋 懐旧記事』
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