熊本城天守炎上、三説
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明治10年2月19日は西南戦争の中でも(とりわけ熊本城と熊本鎮台)重大な日です。

午前8時15分西京局発の三条太政大臣より電報が着信。
「鹿児島暴徒 兵器を携へ其県下へ乱入 叛跡顕然につき本日征討仰せ出されたり 此旨相達す」着信より約4時間後の午前11時40分、熊本城から突然、火の手が上がる。
折からの烈風に煽られ、またたく間に火が広がった。
用意されていた30日間の粮米、食糧は灰燼。しかし、武器・弾薬は免れた。
火は折りからの西風に煽られ、町家にも飛び火が広がり、上林、坪井方面の民家およそ1000軒ほど焼失。午後3時頃、加藤清正が築城した熊本城の天守は消え去る。

さて、熊本城失火については私の知りうるところ3説あります。

1)党薩隊(熊本・人吉・大分・宮崎などの諸隊)の放火説
元鎮台参謀部・中岡黙少尉の証言(明治44年)
「池辺吉十郎、桜田惣四郎らが鎮台給仕・向井某に放火させたらしい」

2)薩人の放火説
当時元熊本鎮台会計部の岡本曹長(薩摩)が、開戦前、休暇を願い帰省、籠城準備の、どさくさに紛れ軍夫となって城中に人り込み放火。
彼はその場で捕らわれて銃殺された。

3)官軍自焼説
二天一流宗家・青木規矩雄氏の談。
第13連隊第1大隊第3中隊の軍曹、村上猪源太が鎖台司令長官谷干城の密命を受け放火した。これは明治40年頃、青木氏が村上本人から聞いたとのことである。
村上軍曹は射撃の名手であったので、谷司令長官の従卒を命ぜられた。
2月15日、谷司令長官はひそかに村上を呼び、大天守と小天守の床下に藁屑や薪を詰め、長官が命じたら躊躇することなく火をつけよと命令された。
19日未明に火をつけよと命令を受け、天守閣の床下に潜りこみ火をつけた。天守閣を焼くのは貴様も同罪だから、これは絶対口外してはならぬと、次のように話した。
「城中は食糧、弾薬、兵士も不足している。もしこの天下の名城が陥落し陸軍の勢いがあがり、九州の士族が薩軍に合流すれば、日本は東西二つに別れ大変な戦争となる。それで今、城を焼く」というのである。薩軍 では攻撃前に天守閣が焼けるのを見て、鎮台が本気で抗戦の気があることを知ったという。


私は、やはり官軍自焼説を選びます。

以下、根拠として・・・
2月20日午前4時35分、黒田参議から大久保参議宛に「熊本鎮台焼失の儀、谷よりの報知なし、如何の訳や、御問い合せありたし」と谷司令長官の報告を、督促する電報を発している。
熊本城天守閣が炎上するや、19日午前12時20分、福岡県令宛「城今焼ける最中何故か分からぬ」。
午後3時、芳川電信局長から熊本電信分局主員宛に「火事の原因を調べて報告せよ」。
午後8時30分熊本電信分局発伊藤参議宛「火事は炭俵よりおこりし怪し火に相違なし」と報告している。

しかるに、谷司令長官は20日になっても、まだ報告していない。何故太政官へ報告しないのか、村上軍曹の放火説とのかかわりがあって、報告をためらっていたのでないだろうか?

明治23年児玉源太郎の談話によれば、熊本城配備地図などの重要書類等を持ち出したことを明らかにした。
秘密書類持出しについては、出火当時砲兵第6大隊副官であった出石猷彦も、大正6年に事実であったと述べている。
事前に重要書類を持ち出していたことがうかがえる。
当時の新聞の現地記者はいずれもその直後から鎮台自焼説をとっている。
「東京日日」(福地源一郎)「郵便報知」(犬養毅)がそれである。
犬養の戦地直報は4月14日付で「是より先、熊本鎮台は軍議を定め、堅壁清野を以て籠城を決し、敵望を撤する為め、此日火を挿して天守閣を焼く」と書いた。
この火災で「籠城軍の士気は振起」し、失った食糧も火災前を上回わる程買収できたという(「征西戦記稿」)。

最後に、上記3)に登場した村上猪源太の証言をから・・・
明治44年5月、当時の鎮台司令長官・谷干城は死去した。その直後に書かれたと思われる青木規矩男の覚書が次のような事実を伝えている。
青木氏が教員をしていた姉を訪ねて飽田中部高等小学校に行った。小使室に行くと55才位の村上某という小使と西南の役当時の話が出た。
話が熊本城炎上に及ぶと村上某は、「それを知っていたのは谷司令長官と私、2人でした。谷将軍早く逝き、私一人となりました。私も55才となり、いつ死ぬか判らない。もしこのままにしていたら、永遠に疑問の火となり、谷干城英断のほどもわからずに終ってしまうだろう。それであなた一人に話しておきます。50年もたったら、天下に発表して下さい。初めて謎が解けましょう」

2月15日、西郷の手紙が谷干城に届いた後、谷は「一の天守閣と二の天守閣の床下に藁屑や薪をつめておけ」と命じた。村上は炎上する4・5日前の夜間、一人で準備をした。食糧や重要書類は事前に持ち出させて、外の倉庫に移してあった。
19日「村上、火をつけろ」と命じられ、村上は火縄と付木を持って床下にもぐり込み、火をつけた。焼けた後、「どうして城を焼いたのか」と村上が尋ねると司令長官は「肥薩の兵がこの城が落ちても立籠れない為」と答え、
「加藤清正が築いた天下の名城を、この谷千城が焼いた、すまぬ」と独白したという。

宇土櫓は類焼まちがいなしと谷も思い、村上も火をつけなかった。少し離れており、しかも西風が強く、火の粉は東へ飛んだ。またあの辺に城兵が多く、秘密に火を付けられなかった。それで宇土櫓は焼けなかった。

城兵は城の周辺から攻城に利用できる建物等すべての物を放火または徹去し、「清野」とする籠城準備を完了した。そしてその後、「敵望を撤す為」に天守閣を焼き、もし落ちても立籠れないようにしたのである。

天守閣炎上はまさに谷干城の捨身の英断であった。

熊本城にある谷の銅像には『谷 燃城』と書いてある。?(笑)



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