晋作と薩長同盟の関わりについて興味を引く文献があります。
昨今、【薩長同盟の真偽】についてNHKで取り上げていますし、はたまた、あの(笑)一坂氏もブラウン管に登場しますし・・・
ここでも論じあえる【話題】だと思います。
古松簡二『維新史料編纂会講演速記録』(大正3年)
【薩長連合の発端に就て】
慶応元年5月頃、久留米藩士古松簡二、水戸藩士斉藤佐次右衛門が晋作を訪ねています。
(この時期は、晋作が四国に潜伏中。)
訪問の用件は【薩長同盟】。
斉藤が西郷の命を受けた、というものです。
(以下要約)
その時、晋作は
「今日の状況は御覧の通り、薩は隆々として旭の昇るが如く、我が長は今や失意の地位に居る。彼れより来って和を請うならば格別。我れより膝を屈して、薩に和を請うことは、この高杉の眼の黒い内はいけませぬ」
と言って、斉藤の申し出を断わった。
それに対し斉藤は、何も言い返さず引き上げたが、古松は「日本の大局を見よ」と、晋作を責めた。
すると晋作は、「君、馬関という所はどういう所か知っておるか」 と、尋ねる。
不意の質問に古松が、「馬関は最も善き港だ」と答えると、晋作は笑いながら、それまで秘めていた胸の中を説明し始めた。「君の見る所はそれ位の事か。薩が中原に意のある以上、馬関の海峡を渡らずにその大志を達する事が出来るか。決して出来まい。しかるに今や、我が長は悲境にいる。この場合に我れより膝を屈して薩に和するということは、断じて出来ることでない。今帰った斎藤は真面目の有志ではあるが、未だその名は世に知られていない。西郷がわざと名なき者を遣わして来た意味を知らねばならぬ」
「君見ておれ。斎藤が西郷に復命した後は、天下に名のある者を使って、さらに双方の中に入れて和を図るだろう」
古松はこれを聞くと、「なるほど、君の見識は変わったものだ」と、納得せざるをえなかったという。
ほぼ同じ時期、坂本龍馬が、下関に桂小五郎を訪ねてきています。
(昨今の説だと、西郷の命を受けて、となりますが・・・)
其の後の、慶応元年11月上旬、晋作の予想通り同盟締結の使者として黒田了介が長州を訪れ、下関で桂と面談。
上京し西郷と会ってくれと言う、桂はなかなか承諾しない。
(一度すっぽかされていますので無理はないですが ^^;)
そこで、晋作は井上聞多と謀り、君命にて上京させています。
しかし奇兵隊はじめ諸隊の中には、薩摩藩に対する根深い憎悪の念があり、桂の上京には反対。
『田中光顕【維新風雲回顧録】』によれば、
晋作はこれらを制し、「西郷は、決して桂を殺しはしない。すみやかに行くがよい。もし西郷が、さほどな馬鹿をするなら、桂は国のため死ぬがよい。死は一である。躊躇するなかれ」と言った、とか。
しかし、桂の立場とすればイヤだったでしょう。(^^ゞ
また、晋作は山県狂介・福田侠平に対し、
「このたび木戸貫治上国行の儀、拙弟は異論なく、もっともに存じ奉り候。老兄方へも追って御面話申し上げ候間、御異議これなきよう頼み奉り候。」
という手紙を出しています。
上記の件に付、より詳細に知りたい方は、学研・歴史群像シリーズ(46)【高杉晋作】をご覧下さい。
一坂氏が『晋作が描いた倒幕へのシナリオ』と題し書かれています。
『維新史料編纂会講演速記録』NHKで取り上げなかったモノですから
今回ご紹介いたしました。
もしかしたら司馬氏も見落とされていたのかも知れません。
昨今、【薩長同盟の真偽】についてNHKで取り上げていますし、はたまた、あの(笑)一坂氏もブラウン管に登場しますし・・・
ここでも論じあえる【話題】だと思います。
古松簡二『維新史料編纂会講演速記録』(大正3年)
【薩長連合の発端に就て】
慶応元年5月頃、久留米藩士古松簡二、水戸藩士斉藤佐次右衛門が晋作を訪ねています。
(この時期は、晋作が四国に潜伏中。)
訪問の用件は【薩長同盟】。
斉藤が西郷の命を受けた、というものです。
(以下要約)
その時、晋作は
「今日の状況は御覧の通り、薩は隆々として旭の昇るが如く、我が長は今や失意の地位に居る。彼れより来って和を請うならば格別。我れより膝を屈して、薩に和を請うことは、この高杉の眼の黒い内はいけませぬ」
と言って、斉藤の申し出を断わった。
それに対し斉藤は、何も言い返さず引き上げたが、古松は「日本の大局を見よ」と、晋作を責めた。
すると晋作は、「君、馬関という所はどういう所か知っておるか」 と、尋ねる。
不意の質問に古松が、「馬関は最も善き港だ」と答えると、晋作は笑いながら、それまで秘めていた胸の中を説明し始めた。「君の見る所はそれ位の事か。薩が中原に意のある以上、馬関の海峡を渡らずにその大志を達する事が出来るか。決して出来まい。しかるに今や、我が長は悲境にいる。この場合に我れより膝を屈して薩に和するということは、断じて出来ることでない。今帰った斎藤は真面目の有志ではあるが、未だその名は世に知られていない。西郷がわざと名なき者を遣わして来た意味を知らねばならぬ」
「君見ておれ。斎藤が西郷に復命した後は、天下に名のある者を使って、さらに双方の中に入れて和を図るだろう」
古松はこれを聞くと、「なるほど、君の見識は変わったものだ」と、納得せざるをえなかったという。
ほぼ同じ時期、坂本龍馬が、下関に桂小五郎を訪ねてきています。
(昨今の説だと、西郷の命を受けて、となりますが・・・)
其の後の、慶応元年11月上旬、晋作の予想通り同盟締結の使者として黒田了介が長州を訪れ、下関で桂と面談。
上京し西郷と会ってくれと言う、桂はなかなか承諾しない。
(一度すっぽかされていますので無理はないですが ^^;)
そこで、晋作は井上聞多と謀り、君命にて上京させています。
しかし奇兵隊はじめ諸隊の中には、薩摩藩に対する根深い憎悪の念があり、桂の上京には反対。
『田中光顕【維新風雲回顧録】』によれば、
晋作はこれらを制し、「西郷は、決して桂を殺しはしない。すみやかに行くがよい。もし西郷が、さほどな馬鹿をするなら、桂は国のため死ぬがよい。死は一である。躊躇するなかれ」と言った、とか。
しかし、桂の立場とすればイヤだったでしょう。(^^ゞ
また、晋作は山県狂介・福田侠平に対し、
「このたび木戸貫治上国行の儀、拙弟は異論なく、もっともに存じ奉り候。老兄方へも追って御面話申し上げ候間、御異議これなきよう頼み奉り候。」
という手紙を出しています。
上記の件に付、より詳細に知りたい方は、学研・歴史群像シリーズ(46)【高杉晋作】をご覧下さい。
一坂氏が『晋作が描いた倒幕へのシナリオ』と題し書かれています。
『維新史料編纂会講演速記録』NHKで取り上げなかったモノですから
今回ご紹介いたしました。
もしかしたら司馬氏も見落とされていたのかも知れません。
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