黒幕=大久保説
<標的>龍馬(中岡は巻き添え)
<黒幕>大久保利通
<根拠>
暗殺命令を下したのが討幕派諸藩のいずれであったのか、諸説はあるが、やはり最も妥当なのは薩摩藩であろう。長州藩の場合は、藩そのものが朝敵となっていて、藩士の入京さえ許されていなかった。自然、京都における討幕派勢力の主導権は薩摩に譲る形になっている。他に土佐藩内の武力討幕派が怪しいと言う説もあるが、その武力討幕を強引に推し進めていた陸援隊隊長・中岡慎太郎が同時に暗殺されているのだ。
中岡殺害が人違いによる誤殺だったとでも考えない限り、この説も成り立たない。
やはり、討幕派の中心勢力である薩摩藩に大きな嫌疑がかけられるのである。
それを裏付けるように、事件直後の12月11日の記録にすでに薩摩が怪しいという風聞が記されている。

<坂本を害候も薩人なるべく候事。>(肥後藩国事史料)
同時代史料にこのように記されているからには、薩摩犯人説は当時から信憑性の高いものであったのだろう。

薩摩には西郷吉之助・大久保利通という二人の指導者がいた。
二人とも徹底した武力討幕論者だったが、実際に龍馬暗殺の司令を出したのはどちらであったのだろうか。

西郷と龍馬との関係は、決して浅くない。元治元年(1864)8月に初対面して以来二人は同志として交遊を重ねてきた。
慶応2年(1866)正月に締結された薩長同盟も、龍馬と西郷の信頼関係の上に成り立ったものであったし、同月、龍馬が寺田屋に幕吏の襲撃を受けた時には、怒った西郷が自らピストルに弾丸を込めて幕吏と一戦交えるといきり立ったと言うほどである。
続いて龍馬とお竜を薩摩に招待し、新婚旅行の世話まで焼いている。
また、西郷に心酔していた龍馬は一時期、「西郷伊三郎」と言う変名を用いていたこともある。
こうした二人の交遊の深さから考えて、たとえ政治情勢が変わったとはいえ、一方が他方を暗殺するなどとは考えられない。仮に意見が対立したとしても、話し合いによって妥協点を見出せない様な二人でもあるまい。それに西郷と言う人物は、涙もろい人情家であることがよく知られている。
とても同志を暗殺などということができるような人柄ではなかった。

とすれば、残るのは大久保である。

この大久保と龍馬の関係を調べてみると、不思議なほど両者の接点は少ない。
とくに大久保側の記録を見ると、「大久保利通日記」・「大久保利通文書」のいずれにも、龍馬の名は暗殺されるまでの間にただの1度も出てこない。
二人の間には付き合いがなかった事を感じさせる。

龍馬側の記録ではどうか。慶応2年12月4日付で、故郷に宛てた龍馬の書簡に

 一、当時天下之人物と云ハ、
 徳川家ニハ大久保一翁、勝安房守。
 越前にてハ三岡八郎、長谷部勘右衛門。
 肥後ニ  横井平八郎。
 薩にて  小松帯刀。是ハ家老にて海軍惣大将なり。
      西郷吉之助。是ハ国内軍事に懸る事国家之進退を預る。
 長州にて 桂小五郎。国家之進退を預る。
      当時木戸寛次郎。
      高松普作。此人ハ軍事ニ預る。此人下の関に出、小倉攻之惣大将
。当時谷潜蔵。
      (「たかすぎしんさく」を「たかまつふさく」とは (~_~メ) )


ここには龍馬の評価による「天下の人物」9人の名が連ねられているが、薩摩においては小松と西郷だけで、大久保の名がない。すでに同年7月27日の桂小五郎宛の龍馬の書簡に「小松、西郷などハ国ニ居申候。大坂の方ハ大久保、岩下がうけ持なり」と言う部分があるので、大久保の存在を龍馬が知らなかったわけではない。
すると、大久保が薩摩の中心人物と言うことを承知しておきながら、あえて「天下の人物」から除いたと言うことになる。これが二人の関係を表しているのではなかろうか。あるいは面識さえなかったのかもしれない。

そうではないとする史料もある「佐土原藩譜」(坂本龍馬全集所収)には、龍馬と大久保に面識があっただけでなく、共に薩長同盟に尽力する姿が描かれている。
しかし、「大久保利通日記」と日付が矛盾しており、信憑性が怪しい。
さらに、西郷隆盛と記してある点も気にかかる。西郷の諱が隆盛となるのは維新後であり、「佐土原藩譜」に「隆盛」と記されているとすれば、同時代の史料としての価値を失っている。

龍馬と大久保の間に交遊がなかったとすれば、邪魔者となった龍馬を排斥するにあたって、大久保には西郷の場合のような心情的な障害は全くないということになる。

大久保の偽装工作?
大久保は自らの書簡によって事件との関連を否定している。16日に岩倉具視から近江屋の凶変を知らされた大久保は、その日から4日間連続して岩倉に書簡を送っている。

(16日付)        
                クダサレ   イカンニタエヌ   ゾンジタテマツリ
坂本中岡異変之儀に付、早々御示諭被為下、実不堪遺憾次第 奉存   候。


(17日付)
        ワザト  オオセツケラレ 
新撰組云々之一条態与尊諭被仰付、委曲拝承仕候。


(18日付)
            モッテガイスベクオシムベキ
石川もなくなり候由、実ニ以可慨可惜   事ニ奉存候。


(19日付)
  ハジ          ソウイナキムネキカレ 
坂本首メ暴殺之事、新撰組ニ無相違向被聞申候。
                   サツセラレ
近日来益暴ヲ働候由、第一近藤勇カ所為ト被察申候。
          ゾンジラレ 
実ニ自滅ヲ招之表カト被存  申候。

龍馬に続いて中岡も死亡したこと、下手人は新撰組らしいと云うことなど、事件関連の情報を事細かに連日書き送っている。これが、偽りのないモノであったなら、もちろん大久保にかけられた嫌疑は晴れる。しかし、この細かさがかえって不自然ではないだろうか。

大久保ほどの冷静な男が、自分と殆ど交流のなかった土佐人の死に対して動揺しすぎているのではないか。何しろ、龍馬は、この時点まで大久保の日記や書簡に一度も出てこない人物なのだ。それがなぜ暗殺と同時に大騒ぎするのか?
とすれば、この四日連続の岩倉あての書簡の意味するモノは、犯行を同志に対してでも隠しておくための偽装工作であったとしか考えられないのである。

「大久保利通」自らの目的達成のためには手段を選ばぬ男。維新後、政敵江藤新平の首を晒し、大義名分の名のもとにには朋友西郷さえ葬り去った男。
武力討幕という自らの信念の前に立ちふさがる「坂本龍馬」という障壁を排除する事などは、彼にとっては当然の事であったのかもしれない。

黒幕は大久保か。

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