「維新の残夢」(第二回) 明治33年5月15日発行
忠勇隊

当時の勤王家に、最も悪まれて居たのは、会津肥後守でした、何がさて、末流濁つた徳川と気脈を通じて、頭には中川の宮を奉じ、京都市中を我物顔に、勤王臭い者と見れば、用捨なく引立てて、片ツ端から斬り尽す傍若無人、有志は密に悲憤の涙を払って、時節の来るのを、待構へて居りました。
処で彼の陸援隊の領袖、中岡光次(中岡慎太郎亦石川誠之助と称す)は未だ海陸の両援隊が組織されぬ以前、時は文久二年春三月、己が文武の師と頼む郡衛学館(土佐国安芸郡田野に在り)の奥座敷へ、島村寿之肋、田所惣次、平安佐輔等を招き、時勢を論じて、さて各々方は何と思はれるかは知らぬが、僕は断然国を脱走して、江戸へ行き、坂本等と共に、大に勤王の端緒を開かふと思ふ、君方御同意とあれば、翌日にも手を携へて、出立せう、甚○でムる各々と言はれては誰も異議を唱ふる者がありませむ、宜しい御同意でムる、早速に罷らうといふ、そこで愈、肉親の父母兄弟にさへ己が志を告げず、ほんの物見遊山といふ躰に作って、集って行っては露見の元と、或は二人、或は三人と、三々五々姿を変へ、身をやつして、落ちつく場所は讃州琴平の高知屋と定め、結ぶ草鞋の分れ道、菅の小笠に、人目を包むで、日ならず同処へ集まった時は、同勢凡五十余人と数へられました。(田所惣次は事情あって、国に留まりぬ) 其処で亦、須崎の人で山田三蔵、植村の人で植村運平の両人も加はりましたから、志気益昂なりで、四五日の後出発して亦も別れ別れに、江戸へ着し、直に築地の土州屋敷へ、這入りましたが、甚○も長屋が少なくて、五十余人の人数を入れて置く事が、出来ませむから、龍馬、中岡、平安、島村等相談の上、其頃日比谷の屋敷に居た岡崎哲馬、門田為之助の両人に頼み、それぞれ住居を定めました。
間も無く土佐藩で、汽船を買入れ、其航海術修業として、坂本、中岡、平安等、修業生申付けられましたから、丁度勝安房が軍艦奉行を命ぜられて、千屋虎之助、望月亀弥太、高松太郎等を引連れ、大坂市淡路町の善照寺に、航海術の塾を開いて、教授して居るを幸ひに之れに投じて、専心事業を励むで居りました。しかし同志は、絶えず京都の動静に注目して密に腕を撫でて居ましたが文久三年七月、神戸生田村に塾を新築して一同之に引移る間も無く、北副詰麿(詰麿といふは可笑しけれど、字義不明の為め仮に)等が、会津の暴逆に耐へ兼ね、いでや三尺の秋水を味はして、日頃の恨みを晴して呉れむと、密に同志と謀を回す由、報ずる者がありましたので、早速望月亀弥太、千屋虎之肋、平安佐輔の三名が、京都へ出て、三条上る柳の馬場へ、一軒の家屋を借り、表面は右三名の躰に造へてはありますが、実は既に志を通じて、北副初め能勢達太郎安岡勘馬なぞが出入して、長藩からは、野村和作(野村靖)等絶えず一室深く額を鳩めて、会津退治策を講じて居りました、がどうも会津方の用心厳しい為め容易に肥後守を討取る事が出来ませむ、却って此方を覗ふ様子に、亦も木屋町へ転宿して、日夜苦心しましたが、之といふ名案も出でず、其内に大和戦争の敗兵、池内蔵太が、遁れて来ましたので、暫く留置き、尚も敵情を探りましたが、事遂に成らず、三名は空しく神戸へ立帰りました。
元治元年と、年号が改つてからは、京都の動静益々急に、頃日勝氏の門下に浪士数多潜み居る由、速に討取るべしと、肥後守が命じたといふ事を、早くも聞知つた同志は、我々の身躰は兎も角、先生に御迷惑をかけてはと覚悟を極めて、塾を辞し、或は兵庫に、或は神戸に、各々隠れ潜むで、天下の潮流をうかがって居りました。
処が恰も好し、兼て二派に分れて居た長藩の俗論が、愈一決して、魁の血祭りに、会津肥後守の曲り首を、槍の切尖に晒して遣らうと剣を磨き槍を絞り、大龍呑雲の勢を以て、先隊には日下真端初め、佐々木男也、寺島忠三郎、之れに将として、浪士組は真木和泉守総大将となり、七月九日長州屋敷で点呼しました十日の払暁、轟然打出す出発の号砲、さらさらと面を撫でる朝風に、飄然ひるがへる幾流の旗には、墨黒々と記された忠勇隊の文字!やがて同勢は、淀船で山崎迄来ました、平安石田高松は、測量隊を受持ちましたが、之と思ふ程の器具がありませむから、兼て勝の塾に備付けてあった(土州藩買受物品)セキスタント並に図引道具を貰ひ受けて来ようと、平安は単身、姿を変へて、神戸に下り、勝に面会して、京都の情態、忠勇隊の決心等包まず打明けた上、右の器具を依頼すると、勝は暫く目を眠って、考へて居られましたがやがて、白地無紋の筒袖を取り出して、之れは私の引出物ぢや、甚○か之を着て、討死して呉れよと、横を向いて、ホロリト涙一滴、平安も感に打たれて、男泣きに泣いて居りましたが、勝は亦口を開き、平安お前が天王山(忠勇隊の逗地)へ帰へつたらのう、日下、真木等に、伝言して呉れ、事の善悪勝敗は天に任せ、一日も早く事を成せよと、能いか、言ふ事は、それだけぢや、早く帰ったら好からうと、物品を渡して呉れましたから、平安は後ろ髪を引かるる思ひで、漸く天王山へ立帰りまして、此事を両人に告げますと、両人は唯天を仰いで、嘆息するのみでした。
物品も出来ましたから、平安等は日々測量の傍ら、野戦砲を兼ねて居ます、砲は十二ポンドのボードホーイッスル式で、散弾は用ひるのです、指揮役は池内蔵太、照準役は平安佐輔、引き役は黒岩直方、玉薬持は楠本文吉、小川粂三郎等で、元治元年七月十九日、天龍寺出張所からは来島又兵衛、天王寺からは日下寺島等、八幡に会して、愈々今夜京都へ討入りと、手筈を充分に定めて、各々用意をして居ました。
十時を打つ時計の響、それツと同勢は隊を組むで、暫くは剣を収め旗を巻き武田街道を桂川に出でて、京都六条に這入りました頃は、東天既に桂紅を呈して、敵味方を識別し得る時です、早や気の早い来島の一手は、敵を砲撃して居る様子それ後れなツと、後隊は疾足して、丸太町へ差しかかりました時に、越前の兵が隊を立てて通行するに逢ひましたが当の敵では無し、無礼あつてはと腰を屈めて御免なされと、礼を施し、静に前を通り過ぎて、鷹司殿の裏門から今や中へ這入らうとすると、越前並に其他の兵から、不意に背後を襲ふ急激の砲撃、さては汝ッと、盛り返して、応戦暫く宇宙を煙に包むで居ましたが、果しなしと、門を閉ぢて、跡は御勝手にお攻めなされと、背後の敵には見向きもやらず、本門の方へ大砲二門を廻し、砲ロを境町の方へ向けて、待居るとは知らぬ、会津方は剣をそろへて、今しも前を通る隙を窺ひ、一度にドッと打出す大小砲、不意の狙撃に遁場を失って、斃るる者、十七名と記されました、此時に一の大砲指揮役伊藤芳蔵は、大砲の弾丸に命中つて、即坐に落命。
それからは唯、門外門内の小ぜりあひで、暫時戦って居ましたが、敵には思はぬ加勢があり殊に新手を引更へて来るので、到底勝の見込はないと、日下真瑞、寺島忠三郎は、君公に申訳けなし、我々は此処で割腹すべければ各々心置なく、落ちのび玉へと、殿の奥に香を焚いて、静かに往生して了ひました、頭立つ者が之れですから、最早や戦った処が、徒らに人員を傷くる斗りと、一先づ切抜け策に論が定つて、槍の柄の長いのは、悉く切捨て刀は鞘を捨てて、用意を整へ、再び門外へ斬て出まして、縦横無尽に斬立て薙立て、合言葉をかけながら、丸太町迄遁げて来ますと、亦茲で出会つた井伊の常備兵、最う死物狂ひですから、無茶苦茶に斬立て打ち出し、二条河原を六条から、武田街道へ来ますと、福原越後の会津兵に、横合から、砲撃せられ、亦々桂川の方へ遁出しました、此時に入江九一、柳井健二等数名討死、其死骸を肩にかけて、桂村から天王山に引篭り、更に亦山崎街道を西の宮の方へ落ちゆきました。
やがて追々残兵が集まりましたが、多くは行方知れず、僅かに三十名余りで船で神戸から長州へ落ち延び、家人佐瀬八十郎の案内で一先づ招賢閣へ落つきました。

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