「反魂香」(第六回) 明治32年8月15日
将作夫婦の戒名

奈良崎将作の先祖は、長州の武士で将作の祖父の代になってから、少しの事で領主の怒に触れて、諸国浪々の末、京都へ足を留めて、剣道の指南を仕て居ましたが、将作の代になって長袖となり、青蓮院宮の侍医に選ばれ、近江八日市重野庄兵衛の娘お貞を娶つて、五人の子をまうけました。(長女お良、次女光枝、三女君江、長男健吉、次男大一郎、)将作は諸君も御承知の通り、夙に勤王の志厚く、諸国の浪士と交を結むで居りましたが、文久二年戌六月廿日京都三条下る柳の馬場の寓居で病死仕ました戒名は『桐仙院本学将還豊賜居士』享年は五十歳、墓は寺田の西林寺にあります。お貞は所天に死別れて、色々苦労を仕ましたが、お良が龍馬の妻となつてからも、自分や子供の事は心配せずと、女ながらも所天に力を添へて、御国の為めに奔走せよと娘を励まし、自分は大阪へ行ったり、杉阪へ帰ったりして居りましたが、後にお良に養はれて、明治二十四年一月三十一日、当三浦郡豊島村字深田で病死仕ました。戒名は『孝室妙照大姉位』享年は七十三歳、墓は同郡大津村の信楽寺にあります。


龍馬の和歌

慶応二年四月、龍馬が下の関の、伊藤助太夫の家で、森現堂、因藤登、なぞと共に、酒宴を開きました時に、龍馬が、 行く春も心やすげに見ゆる哉 花なき里の夕ぐれのそら 玉月山松の葉もりの春の月 秋はあはれとなど思ひけむと詠みました、お良も負けぬ気で うすずみの雲と見る間に筆の山 門司のうら葉にそそぐ夕立と詠むで一座は興に入り、明方迄飲みあかしたそうです。


同志の復讐及おくびやうたれ

龍馬、中岡が殺されたと聞き、同志の人々は大に激昂して、油の小路の新撰組の屋敷へ暴れ込みました、行く時に同志のー人、陸奥宗光が、何故か厭と首を振ったそうですが、遂に勧められて行く事となりました。元来陸奥は隊中で『おくびやうたれ』と綽名されて居るので、それを言はれて笑はれるロ惜さと一つは何か外に訳があるのか、出掛けたものの、外の者は勢ひよく斬り込むで縦横に薙立てて居るのに、陸奥は裏の切戸に短銃を持つたまま、立って居たそうです。


恋の恨

龍馬が筑前から伏見へ帰って来る途中、京都四条の沢屋と云ふ旅宿へ迫込みました、此沢屋の主婦、お熊といふ奴が、天下無類の慾張婆で、お国といふ娘を陸奥の兄の伊達(紀州藩の家老)の妾にして、金を吸ひ取って居ましたが、事情があって娘を自宅へ引き取り、伊達が折々来ては情交を温めて居りました。
所が龍馬が迫込むだ時に、お国が懸想したか龍馬が誘つたかは知りませむが、何しろ水の出花の若い同志、一夜を千代と契りました、彼の龍馬を殺害した、三村久太郎と云ふ奴が紀州と会津を往来して居た奴で、伊達の手先に使はれて居たのですから、龍馬とお国の仲をうすうす覚ったと見えて、伊達に密告したものですから、伊達も心中ちんちんを起してそれに龍馬とは敵同志で、いろは丸と明光丸と衝突した時も手を焼かれたロ惜しさと、恋の恨みと公の恨みを何時かー時に晴してやらうと、考へて居たのです。龍馬を殺さした者は、紀州と会津の内に居るので、中には、七重八童の奥深く鎮座ましまして、余がなぞと殿様風を吹かす奴もあるさうです。


陸奥の豪遊

龍馬が死ぬると間もなく、陸奥が京都の芸者を大勢連れて来て、中の島へ船を浮べ、菊の御紋着いた縮緬の幕を張廻し、呑めや唄への大騒ぎ、その中には新撰組の奴も居たそうです、之れを聞いた寺田屋のお登勢は、足ずりしてロ惜しがり、篭馬さんが生きて居たら、頭も上がらない隣奥さんも、目の上の瘤が取れて見ると、勝手な真似をしやあがる、龍馬さんや中岡さんを殺した奴等に陸奥さんは、かかりやつては居ないか知らと、怪しむで人を頼むで探らしたそうですが、分らなかつたそうです、鴫呼、女の義侠、男の変節、世の中は様々です。


僕の決心

第一回の反魂香に、龍馬等を殺害さした人の名を、云はないつもりでしたが烏水氏の詳言『縦横忌憚なく隠微を訐け』といふに、はげまされて、ええ何うなるものか、突込むなら勝手に突込むで来い、尻を持って来たら亦その時は何うかならうと、決心して此稿へ、あからさまに書き立てました、誰が殺さしたか、誰が関係して居るか位は分るでせう、飼犬に手を噛まれたのも全く之れが為めです。


告別

反魂香の材料も既に尽きて、原稿箱の底には、書き散した紙くづばかりですから、残念ながらー先づ筆を置く事としました、末だお良の話や、お登勢の事跡、亦は維新時分の出来事も沢山あるでせうが、調べて置きませむでしたから事実を再探の上、更に投稿するつもりです、諸君も『報知新聞』で御承知でせうが、お良は今は『相模国三浦郡豊島村深田二二二番地』に住居して、西村つると名乗って居ります、昔話を聞きたい人は『同郡同村中里百二十一番地安岡重雄』と御来訪あれば、僕がお良の家へ案内を仕て上げます。
(但『文庫』誌友諸君に限る)

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