<反魂香>(第三回) 明治32年5月15日発行
‘薩摩下り’

寺田屋騒動の折に、お良が浪人へ内通したばかりに、四人を取逃したので新撰組の奴等は口惜しがり、お春(お良)を目附次第、斬つて仕舞へと血眼になつて、探して居るものですから、お良も今は寺田屋へ帰る事もならず、暫く坂本等と共に薩摩屋敷に潜むで居ましたが、しかしいつ迄も同邸に居る訳にもゆきませむから、一まづ鹿児島へ下つては如何かと西郷のすすめに、それではと同意して、慶応二年二月二十八日、龍馬は騒動の折に右手の指へ負傷してまだその傷が平癒ませむから、病人の事なればとて駕籠にのり、お良は人目を避ける為め男装して行列に加はり、西郷小松等と共に、大阪迄下りました、で淀川へ小松帯刀の持船三国丸を廻し、便船の用意をして同年三月四日の夕方、一同はのり込み、五日の早朝一抹の煙を跡に残して、淀川を出帆しました。

瀬戸の内海は諸君も御承知の通り、風景の佳絶なる処ですから、お良は我知らず甲板に出でて彼方此方と眺めて居ります所へ、龍馬が来て、良如何だ中々風景の好い海じやろ、お前は船が好きじやから、天下が鎮静して、王政回復の暁には、汽船を一隻造へて日本の沿岸を廻つて見やうかと、笑ひながらお良の肩を軽くをさへました、お良もぬからぬ顔で、はい妾は家なぞは入りませむからただ丈夫な船があれば沢山、それで日本はおろか、外国の隅々迄残らず廻つて見度う御座いますと云ひましたので、龍馬は思はず笑ひ出し、突飛な女だと此事を西郷に話しますと、西郷がなかなか面白い奴じや、突飛な女じやからこそ寺田屋でも君達の危うかつたのを助けたのじや、あれが温和しい者であつたら君達の命が如何なつたか分らないと果ては大笑ひに、笑つたさうです。

三月七日下之関へ着いて、龍馬は三好を長州屋敷へ送り届け、その日は同港へ一泊して翌八日の早朝出帆しまして海上事無く十日の夕方長崎へ入港しました。

そこに又一泊して翌十一日同港を出て、十二日の正午、鹿児島へ着し上陸して茶会と云ふ処で休息しましたが、そのままそこの奥座敷を借りて暫く暮して居りました。

或る日同家へ泊込むだ、大藤太郎と云ふ奴が龍馬に面会して、近藤長次が切腹の是非を論じ、伊藤井上は卑怯なり不徳なりと大気焔を、吐いて居りましたが、夜に入つてお良はふと、目をさますと、隣座敷に人の居る様子ですから、不審に思つて、そつとふすまの隙から、窺ふと、彼の大藤が刀を抜いて、燈火に照し寐刃を合して居る様ですから、吃驚して龍馬をゆり起し此事を話すと、龍馬も油断せず、刀を引き寄せて鯉口くつろげ、来らば斬らむと身がまへて居りましたが、敵も覚つたと見えて、そつと座敷を抜け出しましたので、龍馬も少しく安心し、翌日、陸奥が尋ねてきましたから此事を物語ると、陸奥も容易ならぬ事と早速、西郷に話しましたから、西郷も龍馬お良を、茶会処へ置いては宜しく無いと考へ、鹿児島上町へ一軒家を持たせ、日々部下の者に、警戒さして居りました。

(小松帯刀が霧島山に入湯中を幸に、龍馬はお良を伴れて同じく、霧島山へ上りし折り、お良がさかほこを抜き取りたるなれど、他の書に詳しければ略す)

‘西郷の憤怒’

龍馬、中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄じく、後藤を捕へて、ヌイ後藤貴様が苦情を云はずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こむな事にはならないのだ、・・・全躰土佐の奴等は薄情でいかんと、怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし、イヤ苦情を云つた訳ではない、実はそこにその色々、・・・。何が色々だ、面白くも無い、如何だ貴様も片腕を無くして落胆したらう、土佐薩摩を尋ねても外にあの位の人物は無いわ、・・・ええ惜しい事をした、と流石の西郷も口惜泣きに泣いたさうです。

|| ||