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犯人=渡辺篤説
標的:龍馬、中岡は巻き添え
実行犯:見廻組(今井によると7名・渡辺によると7名もしくは6名)
動機:幕府側にとって龍馬は幕府転覆を謀る暴徒と同じ
根拠:
今井信郎の供述(明治3年)
「前年(慶応2年)1月23日の深夜、龍馬は、伏見の寺田屋階上で幕吏に踏み込まれたときに、ピストルで捕り手数名を殺傷した。
そこで、近江屋に潜伏中の龍馬を捕縛するために出動した。そして万一手に余るときは、討ち取ってよろしいということであった。」
   
渡辺篤の履歴書原本(明治13年6月付) <原文は当て字が多いため現代文で書きます。>
「同年11月、土藩坂本龍馬なる者、密かに、徳川将軍を覆さんと謀る者にて<中略>頭佐々木唯三郎並びに拙者始め他5名申し合わせ、.....」

これを見る限り、ターゲットは龍馬一人、がしかし....(゚.゚)

渡辺篤の摘書(明治44年8月)
「同年11月15日、土州藩士坂本龍馬、中岡慎太郎なる者、密かに、徳川将軍を覆さんと謀り、<中略>見廻組頭取佐々木唯三郎の命により、自分の組の者今井信郎以下3名申し合わせ、....」
と、中岡の名前がでてくるとともに、内容も変化してくる。(-_-;)
<通説>渡辺自身がこの間知り得た情報を補足した。

甲斐新聞(年次未詳) <龍馬殺しの話が世に出た第一号>
 「新撰組にいたという結城無二三の所へ友人であった今井信郎が訪れ、一晩話をして帰っていった。その時無二三の子である禮一郎(甲斐新聞の主筆をしていた)が、龍馬殺しをつぶさに聞き、記事にした。」

近畿評論<第17号>(明治33年5月)
 「甲斐新聞の記事載せる」

谷干城(西南戦争において熊本城を死守した)の演説(明治39年)
 「近畿評論を批判。今井を偽物扱いとする。」
 
 <参考>谷は新撰組が犯人だとしているが、この演説においては真犯人の件には触れていない。
     
渡辺篤の遺言(大正4年)
 「臨終間近の時に、弟・弟子に龍馬襲撃に参加したことを打ち明け、「適書(前述)を公表してくれるように」と、遺言した。

坂本龍馬関係文書(大正15年)
 「岩崎鏡川書 今井の供述を初めて一般に紹介する。」


すなわち渡辺篤は今井信郎の供述書が世にでる前に龍馬暗殺から18年目と44年目の2度にわたって龍馬襲撃の有様を記述し、事件当事者としての秘録を綴り、ついに死に臨んでそのことの公表を弟と弟子に依頼したことになる。

見廻組=犯人か?
鳥羽・伏見の戦いで先陣となった見廻組士、生き残ったのは、ただ2人!

「今井信郎」「渡辺篤」 ^_^; 

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犯人=佐々木唯三郎説
標的:龍馬、中岡は巻き添え
実行犯:見廻組
動機:薩長同盟のフィクサーとしての、あわせて大政奉還建策者としての龍馬への憤り
根拠:
 元新撰組隊士「大石鍬次郎」の供述(明治3年)<現代文にて簡略>
「近藤勇の話によると龍馬襲撃は見廻組の今井信郎・高橋某等少人数がやった」
   <この供述により今井が容疑者として浮上>
 
京都見廻組は元治元年結成。主に旗本の次男・三男から構成された幕府の組織。
新撰組とは出自やプライドも遥かに異なるいわばエリート集団。
しかし、存在感は新撰組に比べると希薄であった。
その見廻組の事実上の「顔」は佐々木唯三郎である。

(佐々木唯三郎)
  会津出身、「清河八郎」を暗殺した男
  神道精武流の剣豪、幕命により自らの「正義」を発動させる男
  (志士曰く<幕付のいぬ>)

清河暗殺の翌年見廻組の一員として、派手に活躍する新撰組を眺めながら、常に描いていたものはさらなる「正義」の発動ではなかったろうか。

 そんな佐々木の前に現れた人物が「坂本龍馬」である。

「幕付捕方射殺犯を追え」
 幕付目付「小林甚太郎」の探索記録<寺田屋事件前後を詳細に記す>
 「小林」の手記には龍馬とお龍が薩摩藩邸へ逃走し、それを目撃したものまで示唆している。 

すなわち、幕府密偵は薩長両藩を結託させるフィクサーとしての龍馬を危険人物としてマークしていたと考えられる。

幕府警察機構は龍馬一人を「薩長内応々周旋者」と目し、執念で狙っていた。

結果的に同盟は成立し征長戦はついえ、幕府は一敗地にまみれることとなる。

幕府至上の、それゆえ清河八郎をも斬った佐々木にとって龍馬は断じて容認できないはずである。

寺田屋脱出後、龍馬は薩長同盟のまさに「確信犯」となった。
さらに「幕府捕方射殺犯」という重い肩書きが加わり、エリート警察官を自負する佐々木の「正義」に火をつけた。

事件の根源にあったのは、佐々木の、幕府至上の想いから成る「私怨」であったのではなかろうか......

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犯人=高台寺党説
<標的>龍馬(中岡は巻き添え)
<実行犯>伊東甲子太郎の配下、富山弥兵衛ほか4、5人
<動機>桂・大久保らにとってはあくまで武力倒幕のためであり、伊東らにとっては勤王派としての独立資金獲得の手段および革命成就後の地位確保のため。
<根拠>
まず標的について。龍馬か、慎太郎か、双方か。
徳川慶喜による大政奉還の政局は、12月初旬に行われるだろう事は明らかでいわゆる小御所会議に向けてそれぞれの立場で激しい暗闘が繰り広げられていた時期であり、慶喜派はもとより、同じ勤王派でも、「討幕派」と「倒幕派」に分かれて競い合っていた。
(「討幕」ー武力革命路線・「倒幕」ー平和革命路線)
慶喜は自己中心の合議政体を模索していた。
薩長は「討幕」の立場をとり、土佐は「倒幕」が大勢を占めていた。
土佐藩「倒幕派」の理論的な裏付けの主が、「坂本龍馬」である。
しかし、龍馬と個人的には親しい(もしくは近い)同志であっても、板垣退助・中岡慎太郎・谷干城などは「討幕派」の強硬論者であった。
大政奉還後の政治体制を龍馬は列侯ならびに各藩士による合議政体と考えていた。
(参考:船中八策)その中心に誰を置こうとしていたのか?
西郷宛の手紙を見ると、徳川慶喜を置こうとしていたことが、読みとれる。
つまり、この時点で龍馬は幕府体制は否定するが、徳川家擁護論者と見なされる。
その龍馬の暗殺を指令するなどと言うことは幕府幹部はもちろん、会津など親徳川諸侯にはあり得ないのではなかろうか。
ただ土佐藩論を穏健派一本に絞らせるため、強硬派の旗頭で中岡の暗殺を企る事はあったかもしれない。
すなわち、中岡が標的ならば、指令者は幕府方であり、同じ動機を逆に言うと、犯人が見廻組や新撰組ならば標的は中岡である。

長州の桂、薩摩の大久保・西郷などは、慶喜主体の合議体制では生ぬるいどころか近代国家への道が遠のく、断固武力討幕革命として討徳川革命にもってゆくべし、とかんがえていた。
この場合、敵(慶喜)の味方(龍馬)は敵だとまでは断じないにしても、目障りであったろう。
いわんや、小御所会議で容堂や象二郎などの論破は容易だが後ろに龍馬が控えていては厄介だ。
ここに「邪魔者は消せ」の論理が働いても不思議ではない。
黒幕が薩長なら標的は龍馬であり、言い換えれば、龍馬が暗殺目標なら、指令者は革命路線側である。

では、2人がともに標的だったら?
今までの論から矛盾するが、体制反逆者を誅する単純な思想犯・確信犯の行為であろうか。
しかし、現代に例えて言う過激右翼や赤軍派(ちょっと古いですが(^。^))と同じ系列であれば犯行声明があるはずだが、それはない。
となると、上からの指令なしでの有志連中の行為とは思えない。
特に統制力の強い新撰組などの有志輩とは考えがたい。
やはりどちらかが真の標的で他が巻き添えを食ったと考えるのが妥当である。

新撰組はシロ
あれだけの百戦錬磨の新撰組が、これはと思われる物証(原田左之助の鞘・料亭の下駄)などを忘れ残すわけがない。
むしろ他の者が細工したと考えた方が素直ではないか。
先述のように会津侯が指令するはずがなく、近藤勇も大目付の永井尚志を通じて後藤象二郎に何度か会い、その人柄や主張に惚れ込んでいる。
その理論的支柱である龍馬を殺るわけがない。のちに官軍に降伏した時、永井に対しはっきり否定している。
近藤の人間性から見て信じてよいのではないか。にもかかわらず、谷干城が終生新撰組説に固執したのはなぜか。この点が気にかかる。

見廻組説
見廻組の今井信郎の自白によるモノ。官による正式な取り調べとして唯一のモノ。
そのため、見廻組説がほぼ定説として今日に及んでいる。しかし、この自白調書には矛盾点が多々ある。
上部機関が暗殺命令を出すわけがないのは新撰組の場合と同様。
組頭佐々木唯三郎の単独意思での警察行為であるならば、抵抗もないのに抜き打ちするわけもなく、かりにやむなく斬ったとしても、堂々とその旨発表してもおかしくない。
今井の自白によると佐々木の指揮で、全部で7名、実行犯は渡辺吉太郎はか2名で、自身は階下で見張り役だったと述べている。
しかも後年「甲斐新聞」「近畿評論」に自分が斬ったとの主役の如き記事に現れ、谷干城の怒りを買っている。
また、同じ見廻組だったと言う渡辺篤なる人物が、犯行を「遺言」として残している。
今井と渡辺双方の言い分を見ると登場人物の数や姓名が異なっている上、今井の自白には肝心の渡辺篤の名がない。
その他、今井は「松代藩士」の名刺を使用したとも証言しているが、藩士名は伝わっていない。
(中岡の証言は十津川郷士)さらに、今井は「才谷先生お久しぶり」と声をかけて龍馬を確認して斬ったなどとものちに述べている。
見張り役だったはずがどうしてそんなことがわかるのか。

別の角度からの検証
大政奉還がなされた同時点に討幕の密勅が薩長に下っている。これで薩長連合の武力革命路線にも弾みがついたのである。
ところが、薩摩は平和革命路線が主流の土佐とも盟約を結んでいる。(土佐を敵に回したくなかったのではないか。)
これに対し長州(特に桂)は薩摩の二股膏薬的行為と思ったのではなかろうか。
「王政復古の大号令」までの両路線の主導権争いは熾烈を極める。
双方の注目の的は「坂本龍馬」の存在である。一方は有力な援軍、一方にとっては大変な邪魔者である。
当の龍馬はそんなことにはお構いなく、将来の日本を夢みて飛び回っていた......
桂は西郷へ龍馬の処置を相談し、岩倉は中岡を使って説得を試みようとかんがえる。
西郷は処理にあぐね、結局は大久保に相談し一任する。

大久保と伊東甲子太郎
大久保は中村半次郎(後の桐野利秋)を通じて伊東を知っていた。
伊東はその頃新撰組から分かれて、孝明天皇御陵の衛士を拝命、同志十数人と高台寺党を名乗っており、いずれは勤王派の旗頭を望んでいた。
一党一派を率いるには資金が必要である。
伊東派の中に薩摩出身の富山弥兵衛なる者がいて、この仲介で薩摩との接触、縁が出来ていた。
大久保は伊東を伊東は薩摩を相互利用せんとの合意は自ずと出来上がる。
大久保は伊東に「龍馬を革命側に説得すること。説得できないまでも、12月上旬には京に居ないよう仕向けること。成功の暁には政治資金を与える。」と述べている。
「不可能な場合は」との伊東の問いかけに対しての答えはわかっていないが、こう答えたのではないか。
「貴殿は弁も立つが腕も利く。配下には強者がそろっているとか。」と。

伊東の行動
事件の2日前、伊東は龍馬を訪問し説得を試みたが失敗、そこで新撰組に狙われているから京を離れることを勧告したが、これも一笑に付されている。
(田中光顕の記述)

高台寺党の犯行
新撰組に容疑を着せる刀の鞘・料亭の下駄を残しきたうえ、新撰組のモノと自ら買ってでる。
こんな仕掛けが出来るのは伊東一派以外ありえない。このことが、近藤たちの怒りを買うことになる。
2日後新撰組により伊東一派の多くが殺された。残った者たちは薩摩屋敷に逃げ、のちに官軍として戦っている。
なぜか、後に伊東はどんな理由からか従五位に叙されている。

事件直後(12月5日付)、西郷は蓑田伝兵衛宛次の手紙を送っている。
「今回のこと土佐にとっては不幸中の大幸なり」

筋書きは桂小五郎、黒幕は大久保利通、下手人は伊東甲子太郎一派か?

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犯人=見廻組説
<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>見廻組(佐々木唯三郎・桂早之助・渡辺篤・世良敏郎・渡辺吉太郎・今井信郎・高橋安次郎・桜井大三郎・土肥仲蔵)
<動機>徳川幕府存続の命運を龍馬によって掻き回され、西南雄藩の思うように押し切られることを危惧したため
<根拠>
徳川家存亡の危機感
龍馬は何人のために暗殺されなければならなかったのか、その政治的意図とは何か。
また、どのように刺客に襲われたのか。
暗殺される前年の慶応2年1月22日、龍馬は中岡慎太郎との周旋により薩長同盟を成立させた。その2日後の24日、伏見奉行配下の者が、龍馬が投宿の伏見寺田屋を急襲、龍馬は長州の高杉晋作から贈られた米国製のピストル、スミス・アンド・ウエッソンを発砲して幕吏数名を射殺、虎口を脱した。
龍馬は寺田屋で幕吏数名を射殺したのだから、幕府方にすれば殺人犯である。
当然ながら手向かいすれば討ち取るべしの命が下されていたはずで、龍馬は追われる身となる。
遭難時の慶応3年は多難だった。4月に起きた、いろは丸と紀州藩船明光丸との海難事故の賠償金問題は暗礁に乗り上げたまま未解決。
後藤象二郎を通じ藩主・山内容堂に献策して将軍慶喜に大政奉還させたものの、薩長に政治指針はなく、かえって討幕の目的を失う結果を招き龍馬は逆恨みを買う羽目となる。
「討つ」と「倒す」では本質的に違う。龍馬にすれば大政奉還の倒幕は、無益な流血をさける最良の策であったはずである。
だが薩長にはおもしろくない。
薩長同盟まで締結させておいてふたをあければ肩すかし、その心労も龍馬にあった。
王政復古令が発せられたのは、龍馬が、暗殺された翌月の12月9日のこと。
当然ながら、薩長の陰謀が囁かれるのも無理はない。
しかし、徳川幕府という大きな潮流があったことを無視できないのである。
孝明天皇や徳川幕府から全幅の信頼を受け、就任した京都守護職松平容保、その実弟の京都所司代松平定敬には使命感と立場がある。
土佐の一介の浪士龍馬にいいように掻き回され、西南雄藩に押し切られれば徳川家の存亡にかかわると危惧、幕府直属の見廻組を動かし暗殺という手段を選んだ。
したがって裏づける文献も、見廻組説は薩摩説をはるかにこえる信憑性の高いものがある。

京都見廻組とは
幕府は元治元年4月26日、見廻組結成の通達を発し、同日、蒔田相模守広孝と松平出雲守康正を京都見廻役に任じた。(見廻組の総括指揮官)
見廻組は、京都守護職松平容保の支配下にあり、京都市中巡邏ならびに将軍警固を任務とした。
一方、京都守護職預かりの新撰組が、浪士隊残留組の近藤勇・芹沢鴨らによって見廻組結成前年の文久3年3月、結成されている。
見廻組は純然たる幕臣集団であったのに対し、新撰組は、農民・浪士・町人あがりとさまざまであった。
任務は市中巡邏と大差はなかったが幕閣では、直参の見廻組と守護職預かり浪士の新撰組では信頼性に格段の違いがあるはずだと信じ、幕府としては混乱する政情に対処するため幕府に絶対的忠誠心を有す直参部隊を京都に駐屯させる必要を認めていた。
当初3百数十名であったが、龍馬暗殺時は総員5百名を超えていた。

「永岡清治・旧夢会津百虎隊」(概略)
慶応3年春、勇は会津藩の山本覚馬に会津の刀工である三善長道の刀を二振打ち下ろしてはくれないかと依頼した。
早速、覚馬は親交のある永岡権之助という藩士に、近藤先生の特別注文と言うことで頼む。
そして、二振の刀が出来上がったのが、龍馬が襲われた11月15日だった。
その日覚馬・権之助・清治(権之助の子・白虎隊一番隊に所属)が連れだって、勇宅を訪ねる。
勇は、非常に喜び、早速酒宴になり、その頃、龍馬は暗殺されていた。
深夜になり覚馬ら3人は勇宅をでて覚馬の家に戻る途中の油小路三条に至ったとき、会津藩士遠山仲次・柳田虎雄が駆けつけてきた。
2人曰く「只今河原町通り三条上る旅舎に於て、土佐人なる坂本龍馬直柔、中岡慎太郎道正殺害せられ慎太郎は息なお絶えず、なかなかの騒動にて、総体に人気穏かならず、其の下手人は佐々木唯三郎とも、近藤勇とも取沙汰すれども、確と言う所はわからず」

すなわち、近藤にはアリバイがある。

犯人は、見廻組か?

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犯人=土薩連合説
<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>宮川助五郎ほか陸援隊士5名、佐土原脱藩士3名から成る「土佐・薩摩人連合刺客団」もしくは、宮川の代わりに中村半次郎が参加。
<動機>反坂本派の機運を背景として、親徳川的行動をとった龍馬を裏切り者として抹殺した。
<根拠>
宮川助五郎に疑惑
「神山左多衛雑記」
宮川は前年の9月12日、三条制札事件で新撰組に捕らえられ、以後、京の六角獄舎に呻吟の身となっていたが、当慶応3年11月15日(龍馬殉難の日)に釈放され、直ちに土佐藩邸の牢屋に収容せられていたからである。

この記述を読めば、宮川は無関係となる。がしかし...

「鳥取藩慶応丁卯筆記」(口語訳にて記載)
8・9人の乱入は確かに誰ともわからない、しかしながら、土佐藩邸に収容していた宮川金之助という者、先年三条大橋の制札を夜中外し、新撰組に捕らえられた者で、恐らくは右殺害人(龍馬殺害人)は宮川らが行ったとも伝え聞く、(このことは)絶対口外しては成らない。  11月23日挙記

この宮川金之助とは「宮川助五郎」のことか。
また、宮川ら(原文は宮川の徒)とは三条制札事件に行動を共にした「本川・豊永・松嶋・岡山・前嶋」らを指すのか。
ともあれ、宮川にも疑惑がもたれる。

宮川助五郎「墓碑銘の謎」ー墓は2つあるー
京都霊山墓地「源朝臣宮川長春霊」(「写真事始め」 宇高随生著)四条河原町上がる東側、土佐藩出入りの書店「菊屋」の倅峰吉が明治初年、東京へ出てきた時顔馴染みの宮川の死に遇い、彼が酒乱から同志にも見捨てられその遺骨の引取人がなかったので峰吉自らが京へ持ち帰り、霊山の志士墓地に埋骨し墓石も建てた...
(背面)
明治3年3月、東京で病死

はたして宮川はそのような惨めな最期だったのだろうか。
戊辰戦争では軍監として活躍した志士が.....

東京泉岳寺「宮川助五郎君之墓」(碑文ー大意ー)
宮川助五郎長春君は高知藩士で、かつて新撰組と死闘したが、これも国事尽力のためである。明治元年6月、俵十口を賜り官軍の軍曹に任じられて越後に出陣、戦功により禄五十石を賜り軍監に昇進した。次いで同2年3月、函館へ出陣する日に急病にて死亡した。享年26歳。泉岳寺の赤穂浪士の眠る同じ墓地に葬られる。

死亡年に「ずれ」が。.....
「通説」
明治2年夏、北海道五稜郭の戦いに参加して戦功を立てながら、酒癖が悪く、友人からも見放されて翌3年3月に病死した。

中村半次郎に疑惑 「京在日記 利秋」と「佐々木多門の密書」
「京在日記 利秋」(慶応3年10月6日)
土藩士、松嶋和介、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山禎六、前嶋吉平、此者共儀昨年9月13日ヨリ故有テ御屋敷エ召入被置候へ共、此度亦故有御暇被下候事。今日ヨリ十津川ノ方エ超シ候事

すなわち、慶応2年9月13日に藩邸へ召し入れ置かれた、と記述してある。
慶応2年9月12日夜には「三条大橋制札事件」が起きている。あの時新撰組と戦い脱出した宮川一派5名が1年余りも薩摩藩邸にて保護されている事がわかる。

「海援隊士・佐々木多門の密書ー幕府の大旗本・松平主税の家臣岡又蔵あて」
右ノ外、才谷殺害人、姓名迄相分リ、是ニ付キ薩摩ノ所置等、種々愉快ノ義コレアリ、何レ後便書取申上グベキト存ジ奉リ候。

ここで、「薩摩藩説」が浮上する。誰が黒幕か?

<西郷吉之助> 
当時は本国にあり、三千の精鋭を統率して鹿児島を出発したのは11月13日、事件当日には船の中。
<大久保利通>
西郷より一足早く出国、11月13日には高知入りし後藤らと密談、14日には大坂藩邸に到着、15日夕に入京。事件当夜は在京していたとしても、性急に「龍馬暗殺を当夜に」と指令できえたかは微妙。
<吉井幸輔・小松帯刀>
早くから龍馬の援護者であり、思想的にも共鳴している人物であるから、龍馬暗殺に関与するはずはない。

ここで必然的に浮上するのは「人斬り半次郎」こと桐野利秋である。
薩摩の兵学師範たる信州上田藩出身の赤松小三郎を、大西郷の忠告に逆らってまで殺してしまうほどの型破りな人物である半次郎なら、たとえ薩長連合の功労者たる龍馬でもその親徳川的行動を取り上げ、裏切り者として抹殺しかねまい。
しかし、この場合も半次郎に事を決断させた背景には、国の内外に陰々たる反坂本派の龍馬排除の気運が高まっていたことを見逃しては成らない。
「いずれは誰かが殺る!」と機を見るに敏な半次郎はまさに素早くこの時流に乗じたものと推察される。

土佐・薩摩人連合刺客団
宮川助五郎は幕府の手から救出されたとはいえ、事件当日は土佐藩邸内の牢屋に入れられ、近日、脱藩罪により本国へ送還と決定していた。

<山内家史料>
「宮川助五郎義、京都ヨリ勤事差控ヲ以テ大坂ニ差下ダサルニ出奔ヲ致シ家督断絶」とあるが、脱走の月日は不詳である。

もし仮に宮川の脱走が11月15日夜だったとしたら....、もっと突っ込んで薩・土両藩合意のもとに、わざとその脱獄を黙認したというのなら、ここにおいて「土佐・薩摩人連合刺客団」が誕生する。 
ちなみに当時の土佐藩は「藩士ニ気相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論ノ徒ノミ論ヲ建テ、今一途ノ後藤象二郎用意周旋ノ徒ハ右暴論ノ徒ヲ鎮メ居候由 (中略)右梅太郎(龍馬)ト尚又今一手トハ忽チ不和ヲ生ジ、殆ド殺伐ノ次第ニ及バン」との危機にあることを<鳥取藩記録>は語っている。

下手人は半次郎か、助五郎か
「京在日記 利秋」によれば、本川ら5名は慶応3年10月6日、薩邸を出て十津川へ翌11月初めに帰京、全員白川邸の陸援隊に加盟している。
武力討幕を旗印にして、「龍馬打倒」を叫ぶ、あの陸援隊にである。
ここで彼らを説得させて刺客団に加えるためにはもうひとつ詰め手が必要である。
それは彼らが首領と仰ぐ宮川助五郎を助け出して合体させ、恩を売ることである。

中村半次郎は藩の諜報担当者として特に土佐藩の小目付谷守部や毛利恭助らと親密であった。
このことは「京在日記利秋」にしばしば両名と中村屋や噲噲堂へ遊興に出掛けていたことを記述している。

さらに「鳥取藩慶応丁卯筆記」に龍馬暗殺現場の遺留品の焼印入り下駄が「先斗町の瓢亭」(定説)でなく、祇園の「中村屋」と「カイカイ堂」のものであり、かつ、両者とも土佐藩ひいきの料亭であるため、「同藩士の趣も計り難き様子に相聞え吟味中の由」と記述されている。

(推論)
11月15日、土佐藩邸吏に引き渡された宮川は護送されて河原町の藩邸内牢屋に入れられたのだが、そこに待ち受けていたのが、薩摩藩中村半次郎と本川ら5名の陸援隊士であった。

かくて土州人宮川以下6名、他に、佐土原脱藩士を含む薩州人3名、(「尾張藩雑記」に登場)合計9名の刺客団は結成された。この場合宮川は獄舎生活で体力が消耗しているため、中村自身が加わった可能性もある。

宮川急死の謎
泉岳寺の碑文へもどる。出陣の当日に急死した原因をたんに「病ヲ以テ」では、いささか疑惑が残る。
「龍馬暗殺は味方の尊攘派である」という噂が拡大することをおそれた討幕派では、その根拠の一つが土佐の宮川助五郎であるらしいことを察知し、彼の抹殺を図った、とは考えられないだろうか。
すなわち、武力討幕派が宮川の抹殺を図ったとすれば「明治2年3月、函館へ出陣の日に急死」では後世に毒殺死の疑惑をもたれるため、「明治3年3月、同志からも見放され大酒におぼれて健康を害し、ついに病死した」と記録に書き留めたのであろうと推定する。

暗殺犯は土・薩連合か?

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