犯人=見廻組説
<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>見廻組(佐々木唯三郎・桂早之助・渡辺篤・世良敏郎・渡辺吉太郎・今井信郎・高橋安次郎・桜井大三郎・土肥仲蔵)
<動機>徳川幕府存続の命運を龍馬によって掻き回され、西南雄藩の思うように押し切られることを危惧したため
<根拠>
徳川家存亡の危機感
龍馬は何人のために暗殺されなければならなかったのか、その政治的意図とは何か。
また、どのように刺客に襲われたのか。
暗殺される前年の慶応2年1月22日、龍馬は中岡慎太郎との周旋により薩長同盟を成立させた。その2日後の24日、伏見奉行配下の者が、龍馬が投宿の伏見寺田屋を急襲、龍馬は長州の高杉晋作から贈られた米国製のピストル、スミス・アンド・ウエッソンを発砲して幕吏数名を射殺、虎口を脱した。
龍馬は寺田屋で幕吏数名を射殺したのだから、幕府方にすれば殺人犯である。
当然ながら手向かいすれば討ち取るべしの命が下されていたはずで、龍馬は追われる身となる。
遭難時の慶応3年は多難だった。4月に起きた、いろは丸と紀州藩船明光丸との海難事故の賠償金問題は暗礁に乗り上げたまま未解決。
後藤象二郎を通じ藩主・山内容堂に献策して将軍慶喜に大政奉還させたものの、薩長に政治指針はなく、かえって討幕の目的を失う結果を招き龍馬は逆恨みを買う羽目となる。
「討つ」と「倒す」では本質的に違う。龍馬にすれば大政奉還の倒幕は、無益な流血をさける最良の策であったはずである。
だが薩長にはおもしろくない。
薩長同盟まで締結させておいてふたをあければ肩すかし、その心労も龍馬にあった。
王政復古令が発せられたのは、龍馬が、暗殺された翌月の12月9日のこと。
当然ながら、薩長の陰謀が囁かれるのも無理はない。
しかし、徳川幕府という大きな潮流があったことを無視できないのである。
孝明天皇や徳川幕府から全幅の信頼を受け、就任した京都守護職松平容保、その実弟の京都所司代松平定敬には使命感と立場がある。
土佐の一介の浪士龍馬にいいように掻き回され、西南雄藩に押し切られれば徳川家の存亡にかかわると危惧、幕府直属の見廻組を動かし暗殺という手段を選んだ。
したがって裏づける文献も、見廻組説は薩摩説をはるかにこえる信憑性の高いものがある。

京都見廻組とは
幕府は元治元年4月26日、見廻組結成の通達を発し、同日、蒔田相模守広孝と松平出雲守康正を京都見廻役に任じた。(見廻組の総括指揮官)
見廻組は、京都守護職松平容保の支配下にあり、京都市中巡邏ならびに将軍警固を任務とした。
一方、京都守護職預かりの新撰組が、浪士隊残留組の近藤勇・芹沢鴨らによって見廻組結成前年の文久3年3月、結成されている。
見廻組は純然たる幕臣集団であったのに対し、新撰組は、農民・浪士・町人あがりとさまざまであった。
任務は市中巡邏と大差はなかったが幕閣では、直参の見廻組と守護職預かり浪士の新撰組では信頼性に格段の違いがあるはずだと信じ、幕府としては混乱する政情に対処するため幕府に絶対的忠誠心を有す直参部隊を京都に駐屯させる必要を認めていた。
当初3百数十名であったが、龍馬暗殺時は総員5百名を超えていた。

「永岡清治・旧夢会津百虎隊」(概略)
慶応3年春、勇は会津藩の山本覚馬に会津の刀工である三善長道の刀を二振打ち下ろしてはくれないかと依頼した。
早速、覚馬は親交のある永岡権之助という藩士に、近藤先生の特別注文と言うことで頼む。
そして、二振の刀が出来上がったのが、龍馬が襲われた11月15日だった。
その日覚馬・権之助・清治(権之助の子・白虎隊一番隊に所属)が連れだって、勇宅を訪ねる。
勇は、非常に喜び、早速酒宴になり、その頃、龍馬は暗殺されていた。
深夜になり覚馬ら3人は勇宅をでて覚馬の家に戻る途中の油小路三条に至ったとき、会津藩士遠山仲次・柳田虎雄が駆けつけてきた。
2人曰く「只今河原町通り三条上る旅舎に於て、土佐人なる坂本龍馬直柔、中岡慎太郎道正殺害せられ慎太郎は息なお絶えず、なかなかの騒動にて、総体に人気穏かならず、其の下手人は佐々木唯三郎とも、近藤勇とも取沙汰すれども、確と言う所はわからず」

すなわち、近藤にはアリバイがある。

犯人は、見廻組か?

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