坂本龍馬の手紙大発見

NHK「突撃!アッとホーム」は、全国の家族を取材し、笑えたりするエピソードを紹介する番組で、龍馬の手紙は2014年3月にスタートした家族の思い出がつまった宝物を見せてもらう新コーナー「ファミリー トレジャー ハンティング」で発見された。
新コーナー初のロケは、2月に東京・谷中で行われ、バイきんぐが東京都国立市の主婦に街頭インタビューを行い、「父が古美術商から“坂本龍馬直筆の手紙”を買った」と聞き出した。

手紙は、約30年前に主婦の父が古物商から1000円程度で購入したもので、主婦宅のちゃぶ台の下に置きっぱなしになっていた。スタッフは半信半疑だったが、高知県立坂本龍馬記念館、下関市立長府博物館、京都国立博物館の鑑定によって本物であることが分かったという。

龍馬直筆の手紙は2010年以来、約4年ぶりの発見で、文書は739字にもおよぶ。大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容で、龍馬が暗殺される近江屋事件直前の慶応3年11月5~15日(1867年11月30日~12月10日)に書かれたという。三岡は新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画し、財政政策に携わった人物。龍馬が大政奉還後、福井藩を訪れ、三岡と面会したことは三岡の回顧録で明らかになっていたが、龍馬が会談について記した資料が見つかったのは初めて。

原文

越行の記
十月廿八日福井ニ達ス奏者役伴圭三郎来ル御書を相渡ス直柔が役名を問ふ、海援隊惣官を以てことふ
同夜三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々を言上仕り其うへ御論拝承仕度
およそ明白なる国論を海外迠も不聞を恐るゝことニ御座候。扨此度こそ私共も御国論拝承仕り度心願在之候。
村巳曰ク老主人出京も来月二日ニ取定めたり、事多端なれバ御目にかゝり不申。
然ニ前條御尋の如きハ拙者より申上候。
されバ老主人出京後彼是手順もあるべけれども将軍家政権を御帰しとなれバ将軍職も共に御帰し不被成てはとても御反正と申ても天下の人心折合不申と国論こゝに同廿九日在之候云々、此夜奏者伴圭三郎来り御答書を受取ル

■丗日
朔日朝、三岡八郎及松平源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕村巳に頼置しニ三八儀は先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会かたくさしとめられたり。
故ニ政府の論儀ニより君側中老役松平源をさしそへたり。
其故にや三八が来りし時、松平源を目して、私しハ悪党故君側より番人が参りました、といへバ松平源も共に笑ふ 夫より近時京師の勢前後不残談論ス此談至り尽シタリ深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信反ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て天下に示さゝる近年来幕府失策のミ其末言葉を以する事ハ天下の人皆不信さるなり云々是より金銭国用の事を論ズ曽而春嶽侯惣裁職たりし時三八自ラ幕府勘定局の帳面をしらべしに幕の金の内つらハ唯銀座局斗りなりとて気の毒がり居候御聞置可被成候惣じて金銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人なかるべし
十一月五日京師ニ帰ル福岡参政に越老侯の御答書を渡ス右大よふ申上候謹言
直柔
後藤先生

近日中根雪江は越老侯の御供村田巳三郎ハ国本のこる家老ハ可なりのもの出るとのこと
再拝再拝

現代語訳
越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

三十日朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生

近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝

解説
慶応三年(一八六七)一〇月一五日に土佐藩の建白を基に、大政奉還が成立した。仕掛け人である龍馬と後藤象二郎は、その後の新政府のあり方を検討しており、その中で、越前福井藩の前藩主である松平春嶽の上京は必須と考えていた。本来土佐藩参政(実質、政治を司っている重役)である後藤本人が越前へ行くべきところだが、後藤は前土佐藩主・山内容堂に報告する必要があり、土佐へ帰るため、越前へは龍馬を代わりに派遣する。容堂と春嶽は親友で、幕府や日本の今後の展望に共通する考えを持っていた。また、薩摩・長州の武力倒幕論を押さえるためにも、容堂と春嶽の足並みを揃えた力が必要であった。そのため、龍馬と後藤はそれぞれに現状を説明しに行ったのだ。さらに、龍馬は以前から福井藩士三岡八郎(のちの由利公正)が財務に明るいことを知っており、新政府の財政担当として引き出すことを考えていた。
龍馬の越前行きは、同行する岡本健三郎という土佐藩役人に出した同年一〇月二四日付け龍馬書簡(現存)で確認できる。同日、後藤から預かった書簡を持って、越前へ岡本と共に出発する。龍馬が預かった書簡は、容堂が春嶽に宛てた書簡で、八月二五日に書かれたもの。大政奉還前、上京する後藤に、いずれ春嶽への面会が必要になると思って持たせていたもので、それを龍馬が持って行ったことになる。(『山内家史料 幕末維新 第七編』)
龍馬と岡本は、二八日に越前へ到着。越前での行動は、これまで龍馬や土佐藩側の記録が無く、福井藩の資料や、三岡の回顧録でのみ知ることができていた。しかし、最も詳しかった三岡の回顧録は、維新後時間を置いて語ったものだったので、正確かどうかは分からなかった。この文書は、三岡の談話を裏付けるもので、龍馬のリアルタイムの記述なので、大変価値が高い。
龍馬と岡本は、一一月三日に越前を離れ、五日に帰京したことは、土佐藩重役の神山郡廉の日記で確認できる。後藤は龍馬の帰京を待たず、一一月三日に京を離れ、六日に土佐へ帰り着いていた。
龍馬の越前行きは、後藤からの依頼であるため、後藤に対して復命の義務がある。また、春嶽と容堂の足並みを揃える意味からも報告の必要があった。そのため、本書簡は、後藤への復命書のようなもので、見え消しがあることや日付がないことから、草稿と考えられる。おそらく清書したものを土佐へ郵送したのだろうが、その文書は現在確認されていない。

原文、現代語訳、解説
『高知県立 坂本龍馬記念館』三浦夏樹主任学芸員



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