続「反魂香」(第一回) 明治32年天長節臨時発行
将作の悔悟

誰しも一ペンは女色に迷ふもので、石部金吉の本家本元と噂をされた奈良崎将作も、京都祇園町の歌子と云ふ芸者に現を抜かして、少なからぬ財を費した事がありました。
未だ将作の母が生きて居る時で、将作がニ十五の歳でした、お定まりの悪友に誘はれて一夜祇園で大散財を仕て、遂には今でいふ待合のやうな所へ酔ひ倒れて、前後も知らず寐て居りましたが、フト目か覚めて枕元を見ますと、知らぬ家に寐て居る斗かりか、宵に侍した歌子といふ円ぼちやが、寐巻姿のしどけなく坐つて、羞かしそうに顔赤らめながら、貴郎お冷水でも上げませうかと云ふ顔の、憎き程色白く、ほんのりとさした桜色の、えも云はれぬ匂ひですからそこは木石ならぬ人間の将作も、つい可愛くなつて、読者は華涎十丈といふ仲になったものですから、さあ其後は雨が降っても、風が吹ひても烏鳴のない日はあつても、将の通はない日は無いと云ふ位ゐで、尤も少しは財産もあるので金に困らない処から、せつせと通ひ詰めて居ましたが、矢張り野に置け蓮華草とは云ふが、彼の商売では、時によれば、仇な人の眺めにならぬとも限らず、こりあ宜しく手折って床の眺めに、己れ一人楽まんと、変な処へ気を廻して、遂には落籍させて、お定まりの猫一疋に婆一人、磯で曲り松港で雌松、中の祝町が男松を、朝寝の床から見越しながら、いそ節唄はせる身分に仕て、相かはらず妾宅通ひ、嬉し涙と涎とを盃の中へ、垂し込むで、其侭ぐつと呑みほし、此酒は馬鹿に水っぽい、もっと宜い酒を買つておいで、そのついでに魚屋へ寄って刺身に洗ひに塩焼きにそれから牛肉も買つて来なと、散々馬鹿を尽して居りました。
処が人間は悟る時は、意見を仕なくても悟るもので、或日例に寄って歌子の顔を見ながら、一杯呑まうと家を出て妾宅へ来て見ますと、歌子は火鉢に倚りかかつて、草紙を見て居ましたが、婆が御新造さん、ハ百屋にニ百文遣るのですがと云ひますとそうかへと云ひながら、箪笥から青銭を取り出しニ百文抜いて婆に渡して、あとの金をぶんと投げ込むで、足でひきだしを閉めました。之れを見た将作は、ああ俺が悪かつた、成程、芸娼妓は卑しい者だ、いくら姿が美しいからと云つて、今の行為は何事だ、殆ど女としてなすまじき事だ、ああこんな者にかかり合つて居たら、末始終が思ひ遣られると始めて、茲に将作は全く迷ひの夢が醒めて、其場で直に手を切つて、後に近江八日市の重野重兵衛の娘をめとって、夫婦仲好く暮しました、それが即ちお良の母お貞です。


怪しの切腹

之れはお良に聞いたのでなくて、僕が十二歳の折り、亡父が兄に話したのを、今思ひ出して書くのですが、海援隊の近藤長次郎と今の伊藤博文と井上馨の三人が、密に上海へ渡らうと相談仕ました。其頃は鎖国の論が盛むで、海援隊なぞは無論尊王攘夷ですから、若し知れては大変と、秘密の上に秘密を守つて居ましたが、遂に露見れて伊藤井上は素早く長崎へ逃げ行き、近藤は不運にも人もあらうに隊中に乱暴者、無鉄砲の菅野角兵衛に、捉へられました。
さあ角さん怒るまい事か、顔から火を出して、二三の同士と或夜京都四条河原へ連れ行き、此野郎、太い奴だ、何故我々の目を忍むで、上海行を企てた、我隊の主意を知らむ事はあるまい、貴様のやうな奴は同士の面汚しだ、其様な奴は斬捨ても苦うないが、様別を以て切腹で我慢仕てやる、さあ切れ腹を切れと迫られて近藤も切腹位ゐは安い事ですが、今死むではあたら、犬死と思ひましたから、再三詫入つたが、角さんなかなか聞かない、遂には是非なく詰腹を切つたそうですが、一説には菅野がお手伝ひを仕たとやら、何しろ怪しい切腹だそうです。


火の玉

これは大阪の話で、僕の母も知って居るそうですが、お良が同地に居た時分(維新)或夜の事でー同が寐静まって往来も淋しくなった頃、家の内に居て眼を眠つて居ますと、パット明るく映るものがありますから、ハテナと起き上つて表へ出ると、人が騒いで居ますから、何事かと聞きますと、丁度道を歩ひて居た人が、今東から西へかけて、それはそれは大きな、丁度四斗樽程の火の玉が飛むで行ったので、私は思はず地へ俯伏しましたと、まだ顔の色を変へて居るので、皆不思議に思って居ましたが、翌日大阪城の濠にー間計りの、昔から住むで居るぬしと云はれて居た、山椒魚が、死んで居たそうですが、間も無く長州征伐で徳川が敗れ将軍が死亡したそうです。まるで狸にでもばかされたやうな話ですけれど、聞くがまま書き入れました。


秘密の艶書

会津又は新撰組の詮議が厳しいので、同士の人々或は、勝安房、西郷、木戸なぞと手紙の往復するにも、若し敵方の手に入つては、秘密を知られる恐れがあると、云ふので、一計を案じ出して総ての手紙を女の艶書のやうに書き送る事と定めました、中を明けて見ても『お前様に恋ひこがれて、一目御めもじをいたしたけれど、人目の関のきびしく、ことにさく夜はあまりのなつかしさに忍び出てんと思ひ候ひしに、憎くや父様に見いだされ心ならずも押し篭められなきの涙に、日を送らねばならぬ身となり申し候、なにとぞなにとぞせめての思ひやりに、今宵ひそかに御忍び下されたく、つもる話もいろいろこれあり打解けてたのしみたく、心ばかりはせき候へども、なみだに筆さへまはりかねてをしくもあらあらざっと申送候かしこ』と、胸の悪くなるやうな事が書いてありますが、之れを解いて見ると、昨夜お話申す事があって貴君を訪ふと思つたが、何うも道で怪しい奴に出蓬ひ(父様に見いだされ)遂に其意を得ず帰宅仕たが(心ならずも押し込められ)急に江戸へゆく用が出来たので(なきの涙に日を送る身となり申候)それに就ては是非共貴君にお話し申さねばならぬ用あれば(せめての思ひやりに)今夜敵の目を掠めて(今宵ひそかに)拙宅迄御光来願ひ度(御忍び下されたく)御話申上けた上、今後の打合せも仕て(つもる話もいろいろこれあり)御別れに一杯呑みませう(打ち解けてたのしみたく)急ぎの用故明後日は是非とも出立するが(心ばかりはせき候へども)お待ち申して居る(涙に筆も廻りかねて)先は御案内迄(をしくもあらあらざっと申送候かしこ)、といふやうなもので、之れを始めは、お良も知らないものですから、或時袂から拾ひ出して、大焼きに焼いた所が、訳が知れて返って羞ぢたそうです。

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続「反魂香」(第二回) 明治32年11月15日発行
寺田屋騒動

今更寺田屋騒動をかつぎ出したとて、諸君は既に幾多の書籍雑誌等で御承知ですから、無駄なやうではありますが、しかし他の書にあるのは唯大躰を記したばかりですから僕は之を詳しく書かうと思ひまして、さてこそ引摺出した次第です。
坂本龍馬、三好真三、新宮次郎、池倉太、の四人が寺田屋へ泊込むだ事を、長吉が睨むて置きましたが、しかし其晩直に出立したものやら滞在するものやら、そこは分らないものですから、わざと寺田屋へ来て様子を探って見ると、四人は急には出立し無いやうす。其上に可笑しく自分を引留めて、何時に無い芸者なぞ呼び寄せ、頼みもしない酒肴を取り寄せてちやほやと優待す処を見ると、此奴俺の廻し者といふ事を知って居るな、こりあぐづぐずして居て取り逃しては大変と、長吉とても馬鹿ではありませぬから、早くも考へて、大坂へ行くと偽り、直に密告しましたが、此方では油断はし無いのですけれど、まさか今日すぐ押寄せては来まいと思つたので、いくらか安心して、当夜(騒動のありし夜)は四人が六畳の一間に集って酒宴を開いて居りました、お春(お良はお春と偽名して居たり)は下の張場の隣座敷で龍馬の綿入れを縫つて居ますと一人の女中が湯が開いたと報知に来たものですから、ではー風呂這入りませうと、縫ひかけて傍に置いたまま、湯に入つて暖まって居りました、其時は今で云へぱ四時頃で此夜もいそがしいものですからー同は徹夜をして居たのです、お登勢は添乳をしながら自分の部屋でうとうととして居る、大勢の女中は少しひまになったので大抵女中部屋で眠るもあれば話をして居るものもある、家内は静かに時々二階で話声が聞える位ゐで、ひつそりとして居るものですから、お良はゆるゆると身躰を洗って居りますと、突然閃りと槍の穂先が光ったのでハット思って顔を上げますと、自分の肩先きへ槍を突きつけた黒装束の大の男が、静かにしろ声を立てると突き殺すぞ、やいお春貴様は坂本等の居る部屋を知って居るだらう、隠すと突殺すぞ、さあ案内しろと、怒鳴り付けました、見ると真黒な奴が凡そ十四五人も、槍刀を持つて立って居るものですから、流石のお良もギヨツトしましたが、根が大胆な女ですから、わざと平気で、貴郎こそ静かになさいよ、そんな大きな声を出して、若し坂本に知れて御覧なさい、用心をするじやありませんか、と悠々と衣服をつけて、あのねえ妾が案内をしても宜いのですけれど若し亦後でお神さん(お登勢を云ふ)に叱られると不可ませむから、座敷だけ教へてあげませう、表の階子を上つて突当ると左へ三間越して四ツ目の左側の六畳に四人共居ますから、静かにして居らつしやいと、嘘を教へたとも知らず曲者は、いや有難う、それ各々と合図をして、バラバラと、馳せ行きました、お良は今はー所懸命彼奴等が行かぬ其内に早く知らせやうと、帯引き締むる間も遅しと、兼て造へて置いた秘密の階子から、二階へ飛び上るが早いか、四人の居る居間へ転げ込むで、ただ大変でムいます、今夜来ました、いえ今下へと云はせも果てずさてはと四人は合点して、立上るや否や利物を執つて身構へをして居ます、龍馬は木戸から貰ひ受けた短銃、三好は手槍、二人は刀を振りかぶって、斬つて斬つて斬り捲らむづ勢ひ、お良はフト気が付いて、行燈に衣服を手早くかぶせ、明るい方を向ふへむけて、自分は襖の蔭に隠れて居りました、すると果して外の座敷ヘどやどやと暴れ込むだ様ですが、やがて二の階子を登って来るやうすすはや来たかとお良は逃げもせず眤と見て居ますと、真先に登りきた一人の男が、此方は暗いものですから、四方をきよろきよろ見廻して居る奴を、一発ズドント打ち放つと、あツと叫むで後へ撞と倒れる、二番目に登って来た奴が吃驚してハット後へ退る途端、三番目の奴に突当ると、此奴も不意を喰って二人共転び落ちると、登り掛けた奴等は将基倒しに、折り重つてどかどかと総崩れ、中には呑気な奴もあってげらげらと笑ひ出す、お良も可笑しく、腹を抱へながら見て居ますと、亦もや盛り返して来て、白刃を押し並べ、大事を執つて急には進みませむ、龍馬は三発迄打ち放して、それ今の内だ逃げ給へと、目で知らせて、段々と後へ下るので、敵もじりじりつめ寄せます、すると下できやツと女の悲鳴する声が聞えたので、敵も味方も吃驚して居る隙を窺ひ、龍馬はそれツト云ふが早いか、飛鳥の如くに身を躍らして、窓から屋根へ飛び上りますと三人も続いて跡を慕ふ、それ屋根へ上った、油断すな、飛道具を持つて居るぞと訓め合つて、同じく屋根へ進むで来る奴を、或は突き落し、斬倒し、蹴散らし薙伏せて四人は、屋根伝ひに首尾能く逃げ失せた様子に、お良もほつと太息を吐いて、胸撫で下して居りますとお春を逃すな召補れと云ふ声がしますので、ハット耳を立てて様子を窺ふと、彼奴は坂本の同類に違ひ無い、坂本を逃したは残念だが、せめて彼奴でも縛り上げろと、ロ々に罵り騒ぐので、こりあ斯うしては居られないと、お良は着のみ着の侭で、元の階子から下へ降りて、口を開けやうとすると、垣根の傍に一人の大男が立って居て、お良の姿を見るが否や、物をも言はず抱き付きましたから、あれツと振り放して戸を蹴破り逃げむとする帯際を取って、ぐいと後へ引き戻す、お良も必死の力を篭めて、畜生ツと、男に武者振りついて、思ひ切り耳へ噛みつきますと、流石に痛たかつたと見えてアツト身を引くを幸ひに、夢中で表へ飛び出して見ますと、追々遅れ馳せに、多人数の来るやうですから見付けられては大変と、後をも見ずに、薩摩屋敷へ逃げ込みました。
(右は恰も小説のやうなれど、お良の直話を筆記したるなれば、一寸断り置く)


霧島山

つまらない事ですが、お良が霧島山へ登つて逆鋒を抜いたのを、帰って龍馬に話をするとひどく叱られて、女の癖に突飛な事はつつしみなさい、と、たしなめられて流石のお良も、後悔して以後は力業をしなかったと、他書に書いてありますが、実は龍馬もー所に山へ登って、面白半分手伝つて抜いたのです。


高松太郎の不徳

お良が国を飛び出して東京へ辿りつき、西郷に面会して、身の振方を頼みましたが、折りあしく国へ帰る矢先きであるから、再び出京した時に、屹度御世話をしませうと、云はれて少しは望みを失ひましたが、或日高松の門前を通りましたので、一寸立寄らうと案内を乞ひますと、妻のお留が出てきて、お良を一目見ると、面を膨らしながら、何の用で御来臨なさったと、上へあがれとも言はず、剣もほろろの挨拶に、お良も内心不平を抱きながら、何うか坂本さん(高松は龍馬の甥にて今は龍馬の跡をつぎ坂本順と名乗り居しなり、後に小野順助と改名す)に逢はして下さいと云ひますと、奥から高松が出て来まして、お良さん、お前さんは最早我々坂本家に関係の無い人ぢやありませんか、何御用かは知らないが、何うかお帰りなさって下さい、此後尋ねて来ても逢ひませむぞと、不人情極まる言葉にお良も呆れ果てて、ええ能うムいます、お前さんのやうな、人で無しとは最早ロも利きませぬ、顔も合しませぬ、左様ならと言ひ捨てて、帰って来たそうですが、彼の時ほど口惜しかった事はなかったと、何時も僕に話して居ます。


心細き時

お良は随分勝気な女ですが、何が一番心細かつたかと聞きましたら、西郷に別れて、霞が関を出た時が一番心細かつたと言ひました、何が今では家も無し金は有るとは云へたったニ十円、頼る人もなければ、これと思ふ親切な人もなし、親や妹弟は引取つて養はなければならず、此先き何うしやうかと思ひ出すと、悲しくなって、人通りの少ない町へ来ると、木蔭へ忍むで、幾度か袖を絞つたそうです、が助ける神もあればと、気を励まして高輪迄来ますと、ひよつくり、橋本久太夫(海援隊の一人)に蓬ひましたが、まあまあ当分私の家へ来て居なさいと、親切に世話して呉れて、女房ともども何くれと無く、面倒を見て呉れますので、お良は一息つきました、嗚呼地獄で仏とは此事でせうと先日も笑ひながら話しました。


おことはり

お良は内部の事は詳しいのですが、外部はあまり詳しくないので、残念ながら従って僕も書く事は出来ませむ、続反魂香は、多くお良の事跡に関して居りますが、中にはお良の父、亦はお登勢に関する事実もあります、現在の人の事跡も、故人の事跡も、ごちや交ぜにして、書き記しますから、念の為め、一寸おことはり申して置きます。


正誤

前号の『続反魂香』に近藤長次が京都四条河原で切腹したやうに書きましたが、彼は僕の聞誤りで、実は長崎の、小曽根の奥座敷で切つたのです、鳥渡正誤。

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続「反魂香」(第三回) 明治32年12月15日発行
お良の祖父

お良の祖父は、奈良崎大造といふ人です、此大造の父は、元長州の藩士でしたが、落度が有って永の暇となり、諸国浪々の末、京都へ流れついて、少し斗りの親類をたよりに、三条の裏街へ借家して、売卜者と姿をやつし、朝夕の煙も、心細く送つて居りました。其内にフト妻が、懐妊しましたので、辛い中にも心嬉しく、臨月を指折り数へて、如何か安産して呉れれば宜いがと、心に神仏を念じながら待って居りますと、案じるより生むがやすく、玉の様な男の児が生れましたので、夫婦は今更のやうに喜びまして、大造と名づけ、寵愛して居りましたが、悪い時には悪いもので、丁度大造が三歳の時に、父はフト風の心地と打臥しましたが、それからはぶらぶらと寝たり起きたり、しかし重病といふ程ではありませむが、何しろ売買の方が、暇になるので、妻は他人のすすぎ洗濯から夜は遅く迄乳呑児を抱いて、行燈の下に裁縫してどうかかうか、粥でも啜って居りましたが、何をいふにも貧乏世帯の上に、三界の首枷といふ足手纒があるものですから、気計りはあせつても、思ふやうには動けませむ、夫とても気分の宜い時には、往来へ出て、些少の金は掴むで来ますが、それとても出ぬ方が多いので、遂には親子が餓死する程に成ったものですから、或時夫婦が鼻をつき合して、とても此侭で遣って居ては、死を待つやうなものであるから、可哀想ではあるが、一時大造を里子に遣って、少し都合が宜くなれば、亦取り戻すやうにして、一時は辛いが思ひ切って、遣らうぢやないか、それなら遣りませうと、此処で相談が決ったものですから、人に頼むでロを探して居りますと、此処に、酒屋を営て居る老夫婦が、(惜哉名を逸す]一人子供が欲しいと云ふので、探して居ると聞き、早速耻を忍むで面会し、事情を打明して、何うか暫くの間御預り下さいと、頼みましたので老夫婦も気の毒に思ひ、それに子の欲しい矢先ですから、一もニも無く、承知して、大造を引取り、我子のやうに、可愛がって居りました。
其後四年程経って、不意に本国から、使者が来まして、帰参が、かなったといふ、夫婦は夢では無いかと、呆れる計りに喜びまして早速殿より下賜った支度金で、衣服を調へて着用し、これ計りは餓ゑても、肌身を放さぬ魂二本を差した男振りは、流石は元が武士だけに、つづれに埋つた玉を磨き上げたやうな出世、国へ帰れば槍一筋の身分、大造も多くの下女下男に坊様と侍かせたら、さぞ嬉しい事であらうと、早速人を以て大造取戻しを申込みましたが、大造はまた七歳の頑是の無い子供ですから、老夫婦を真実の親と思って、これがお前の真実の親だと言聞かしても、聞訳ませむ、厭だ厭だ、坊は知らない伯父さんと他のお国へ行くは厭だと、果ては老夫婦に縋りついて泣き出す始末、で老夫婦も子は無し、大造を我子のやうに、可愛がつて居るものですから、内々は手放したく無いのです、そこで大造が厭だといふを幸ひに、渡りに舟と膝を進めて、お前さん方は年は若し、また此先き子の出来る楽みはあるが、私達は御覧の通りの年寄りで、子の出釆る事は無し、唯此子を楽しみにして居たが今此子を取られては、何のやうに心細い事か、第一此子も私達を真実の親と思って居るから、何うか思ひ切って此子を私達に下さらぬか、御承知の通り、少し計りの財産もあり、決して此子に不自由はさせませむ、此家は屹度此子に譲って、立派な商人に仕上げますからと泣くやうに頼まれて、たってとも云へずそれでは此子を捨たと思って、貴老に上げませう、が何うか真実の親がある事は、言って下さるなと云ふ、宜しいと相談が決って、大造の父母は、心ならずも可愛い子を、京都に残して、長州へ帰りました。


松山の修業

さあ老夫婦の喜びは一方ならずです、今迄は預り子であったが、これからは自分の子に成ったので、何うか此子を養育して、ゆくゆくは、此家を譲り、自分達は隠居して、左団扇で暮さうと思うので、言ふが侭の書籍なども買ふてやり、亦店の小僧と共に、御用聞にも廻らせて、ひたすら成長するのを、待って居りました。
所が此大造、元が武士の子だけに、非常に剣術が好きで、共頃京都に、江良某といふ剣客が道場を開いて居ましたが、御用聞きの帰りには必ず、道場へ這入り込んで、見て居りました。
で急ぎの御用があっても、そむな事には、搆ひなく、しかと竹刀の変化を見定めて置いて家へ帰ると、燈火の下に医書を繙いて夜の更けるのを待って居ります、やがて店も仕舞ひ女中や小僧は早や白河夜船の高枕といふ時分を窺ひ、書斎を出て、雨戸を音せぬやうに明け、庭下駄をはいて、物置から取り出した竹刀を、ニ三度振つて、そつと裏から、凡一丁計りもある松山へ来て、松の木を相手に見て置いた竹刀の変化を実地に自修して居りました、かういふ風にして十四の春迄、家の者に悟られず、密かに、修業した甲斐があって、今は殆ど目録位迄、叩き上げましたが、慎み深い人ですから、決して人には剣術を知って居ると、夢にも言はず、黙々と仕て居るので、誰一人それを知る者もありませんでした。
後十五の年に、江良の道場で、フトした言葉の行き違ひから、遂に門人と立会ひましたが美事大の男を三人迄、打ち負した手腕を見た江良が、行末頼もしい奴と、大造を呼び入れて、師弟の盃をしましたが、此時に、更めて江良が大造の実の父母の親族なる事を明し、身を入れて、教へた甲斐があって、遂には免許皆伝して暫く代稽古をさして居りました、間も無く、老夫婦が死亡しましたが、元来大造は、商売が嫌ひですから、老夫婦の遠縁の者を以て跡をつがせ自分は、医者となつて妻を迎へ、不自由なく暮して居りました。
やがて男の子が生れましたから、将作と名づけ寵愛して居りました、処へ一人弟子になりたいと、申込むできた坊さんがありますから誰であらうと、立出て見ると、西林寺の住職で今弁慶といふ人です、(本名は知らず、此坊主力強く、腕力家なりしかば、人呼むで今弁慶といふ)大造も今は長袖の身で、竹刀は当分執らむつもりですが、此坊主を教へたら面白からうと、早速承知して、三年間教へましたが、遂には五分々々の腕前になって、師弟の情交日に日に密でした。
和漢の書に通じ、剣道は達人、且つ医者が専門の大造ですから、諸大名から召し抱へたいと申込むできても、決して五斗米には腰を折らぬと辞退して、一生町医で送りました、六十五で死亡して、墓は西林寺にあります、施主は彼の今弁慶で碑に『奈良崎大先生の墓』と記してあるさうです。


お良の姓名に就て

今迄の篇中に、お良の妹名を『奈良崎お良』と書きましたが、『楢崎お篭』でも宜いのです、否むしろ後の方が正確ですが、それでは一般読者に分りにくいのです、他の書や逸話なぞにも、『奈良崎』や『お良』と書いてあるのが多いので、それを見慣れた読者には、矢張『奈良崎お良』の方が宜いかと思って、僕はわざとかう書きました、これは早くお断りして置けば宜いのに、つい忘れて居ましたが、今此稿へ書き入れました。

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続「反魂香」(第四回) 明治33年1月15日発行
強盗お良の草庵を襲ふ

明治の御代になったとは云へ、未だ人心がおだやかでなく、殊に徳川方の敗兵が夜京都市中を横行して、其害を被る者が、沢山ありました、夜に入っては誰一人往来する者も無く、婦女子はいふに及ばず、日頃から、向鉢巻の勇み肌の巻舌の江戸の大哥も、長屋深く潜み込むで、二合の酒に酔は発しても、大口開いて唄はぬといふ有様、昼は紅塵万丈の巷も、夜に入っては、村落よりも淋しい位ゐです。
お良は国を飛び出して、東山(龍馬の墓)の片畔に、いささかの草庵を結び、念仏三昧に日を送って居りましたが、或夜の事でした、夜風が颯と杉の木立を掠めて、梟の声哀れに四更を告ぐる寺の鐘の、長く尾を曳いて消えゆく頃、背戸の方に人の来る気配が、仕ますからはてなと耳聳立て、気を静めて居りますと、突然がらりと戸を排して、這入って来たニ人の強盗、矢庭にお良の胴先きへ白刃を突きつけて、やい静かに仕ろ、衣服は勿論有金残らず出して仕舞へ、吼え立てると叩き斬るぞと、脅しつけますと、お良は平気な者で今迄、随分白刃の下や、死地へも赴いた身ですから、ビクとも仕ませむ、襟かき合して強盗を見上げ、何です、金が欲しい、ほほほほ静かになさい、近所の人が目を醒すと面倒ですよ、さあ妾とー緒にお出でなさい、沢山はありませむが、百両位ゐはありますからと、元より無いは承知の前で、先きに立って納戸へ這入ましたから、強盗も相手が怖れるとか縮み上るとかすれば、張合があるが、案外に平気で出られたので、少し狼狽へながら後からついてゆきますと、お良は納戸を明けて取り出した包物一個、強盗は受取つて中を改めて居る隙を伺ひ、手早く取り出した短銃を不意に轟然一発、打ち放ちましたから、いや強盗奴、驚くまい事か、ウワッと叫むで次の間へ転げ出し、白刃も鞘も投げ捨てて、命からがら元来た道を、雲を霞と逃げ去りました。


闇夜の山路

お良は東山の草庵を出て、江戸をさして登つて来ましたが『旅館寒燈独不眠、客心何事転凄然』男でさへ独旅の長の道中は、淋しいのに、ましてや女の身の頼む人もなく、管の小笠に半身を隠して、暁起きに道を急いでは、夕に泊りの数を重ねて、漸く伊豆の三島へ辿りついた頃は、今で云へぱ午後の三時頃でした。
未だ日は高し、足もさほど疲れませむから、いつその事、合の宿迄行つて泊らうと、亦も足を早めて、玉くしげ箱根の山路にかかりましたが、女の足の運びも遅く、休み休み登りますので、刻の経つのは早いもの、いつしか霧のやうな暮靄は、見渡す山亦山の頂を包み初めました、漸く山腹迄来た頃で、日が暮れては心配だ、こむな事なら三島へ泊れぱ宜かつたにと、今更悔むでも詮なくええ如何なる者か、行つて見やうと、追々暗くなる足元に気をつけながら、登つてゆきます程に、日は全く暮れて、闇の夜ですから、一寸先きも見えぬといふ位ゐです、道は険しく、提燈はなし、人は通らず、唯聞えるものは、松にあたる夜嵐の響と、岩に激する谷川の音ばかりで、流石のお良も、少しは心細くなって来ましたが、我と我心を励まして、猶も手探りに殆ど這ふやうに仕て、登つてゆきました、すると何か手に触れるものがありますから、はて何であらうと、思ひながら、二足斗りはなれましたが、何となく気にかかつて、今一度探って見たいやうな気が仕ますから、亦さぐり寄つて、触って見ますと、衣服の袖のやうですから、たぐりながら近寄ってなで廻すと、人が立って居るやうです、をやつとー時は驚きましたが、はてなと亦、大胆にもさぐり奇つて撫で廻すと、首に縄がついて居て、足は浮いて居るやうす、をやっとニ度吃驚、思はずニ三歩退く途端に、足辷らして五六間坂下へ転げ落ちました。
白昼でさへ縊首者に出逢ふのは、あまり気味の好い事ではないのに、殊に闇の夜の、人通りのない山路で、探り当てたのですから、お良は立ちすくむだまま、行く事もならず暫くは如何しやうかと、考へて居りましたが、何時迄此処に立って居たとて、仕やうが無しどのみち、行くものなら、一時も早く合の宿へ着くが得策と、却って勇気が出て、今度は他の物に気ををかず、一所懸命に歩みだしてやうやく合の宿へ辿りつき、早速宿をもとめて、一先づ吻と息をつきました。


お良の憤怒

話は前に戻りますが、未だお良と母と妹二人が、父親に死別れて、一家は落魄し、京都の木屋町に居た頃でしたが、お良が用あつて他処へ行った留守に、或日の事、下河原の芸者屋の玉家といふ家の女将で、お吉といふ狼婆が訪て来てお貞に面会し、先づ将作の死亡した悔みをのべて、以前種々世話になった事や生前の逸話なぞを、かつぎ出した末に、妾もいろいろお世話になりましたから何うかして御恩報じを仕たいと思ひますがついては、大坂の去る大家に、小間使いが欲しいと、探して居るを幸ひに、何うでムいます御宅も失礼ながらお困りのやうですから、光枝さんをお遣りになつては、なあに貴婦、向ふは御大家の事ですから、決して御心配には及びませむ、そうすれば貴婦もお楽になり、第一光枝さんも、先きへいって、出世をするやうなものですから、総ては妾が取計って、宜いやうに仕て上げます、お遣りなさい、お遣りなさい、かういふ宜いロは亦とありませむよほほほほほと、爪をかくした猫撫声に、お貞はうかと乗せられて、それでは如何か宜しくお願ひ申しますと、承知仕ましたので、狼婆奴、〆たと腹の中で笑ひながら、愛嬌の有るだけ、振り蒔いて、光枝を拉れて、ゆきました。
そむな事とは知らぬお良は、帰って見ると、妹の光枝が居ませむから、如何したのかと母に聞くと、これこれと訳を話しましたので、そりや大変です、彼の婆が一通りやニ通りの悪婆ぢやありませむよ、彼女の手へ渡したら最後、満足では帰ってきませむと、聞いて母もふさぎ出し、お良如何仕たら宜いだらうと早や涙ぐむで、をろをろ仕て居ますから、お良は、宜しいお母さん、御心配なさいますな妾しが行つて取り返して来ますからと、金子を調へて、先づお吉の家へゆき、此処で亭主と言ひ争った末に、愈大坂の居処が知れて、お良は大坂へ渡り、ドブ池といふ処に、お吉と他に男が三人無頼漢風の奴が、光枝を取りかこむで、何か言って居ります処へ、突然坐り込むで白眼み廻すと、流石の四人も、不意にお良が来たので、唯呆然と仕て居りました、お良はやがてロを開き、おいお前さん方は何たって妹をこんな処へ連れてきたんです、母に聞けば大家へ小間便ひにやるとか、いふそうですが、妾の眼の黒い内は、めったに妹を他処へは遣りませんよ、さあ、妾が妹を連れて帰りますから、其積りで居て下さいと、立上つて妹の手を執ると、一人の男が、失庭にお良の腕を捉らへて、やい阿魔、何でい、此女を如何するといふんでいと、眼を怒らせて今にも飛かからむ勢ひ、お良は平気で、何だとい、此女を如何する、フン自分の妹を自分が遅れてゆくに、何が如何したとお言ひだい、ふざけた事を言ひなさむな手前達は何だい気の毒だが、真白昼往来を両手振つて歩ける身分ぢやあるまいいけづうづしい畜生だつと、最早怒り心頭に発して居るものですから、思ひ切つて男の横面を、火の出る程撲りました、をやっと外のニ人が立上らうとする奴を、傍にあつた火鉢を執つて、投げつけますと、ぱっと上る灰神楽、即意即妙の目つぶしに、三人とも、目をやられて、言ひ合したやうに台所へ馳せゆく隙を窺ひ、光枝の手を執って表へ出ますと、お吉婆が背後から、帯を捉へて引戻そうとするやつを、エイツと蹴飛ばして、逃げ出し、ハ軒屋の京屋といふ船宿に飛び込むで、三十石船に乗り、京都へ帰つて我家へ着きました。
すると今度は少妹の君江が居ませむから、亦如何したかと聞くと、母は昨日中根のおつぎさんが来て、今度舞の会があるから、君江さんを貸して呉れといふて来たから、かしてやったが、まだ帰って来ないと、眉をひそめて居ますので、お良はニ度吃驚、虫戯ぢや無いお母さん、彼の人に君江を渡しちや、ろくな事は仕ませむよ、ありや他の家の娘を欺して連れて行つては、芸娼妓に売り飛ばして、金にする悪い奴ですよ、お待ちなさい、亦妾が行って連れて来ますからと、急いで中根の家へ行って、種々談判の末、遂に連れ帰つて、一先づ安堵しましたが、此侭此家に居ては亦どんな事が持上るやも知れずと、人を頼むで光枝を公卿伏原家に奉公させ、君江を大仏の加藤といふ本陣へ預けて仕舞いました。

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続「反魂香」(第五回) 明治33年2月15日発行
徳利の狙撃

寺田屋騒動から、お良は薩摩屋敷へ逃込むで龍馬、三好、西郷等と、淀川から船で、下の関に着き、龍馬は三好を長州へ送り届けて、出帆しましたが、丁度玄界灘へ船がさしかかつた時の事です、此夜は一天晴れ渡つて、波間に大魚の躍ると見る蓬島、中島、三五の月の薄青く、浪に砕ける面白さに、三人は甲板へ出て、酒盛を初めましたが、やがて龍馬が唯酒ばかり呑むで居ても面白くない、何が肴しやうではないかと言ひ出しましたので、一同は賛成して、偖何をやらうと、首傾けた末、いよいよ徳利を狙撃して、負た者が、大盃を引受る事と、決った処へ、新宮が声高らかに
お前玄界わしや中の島
年にー度は逢の島
…………ヨイトサ
と、船謡を唄ひながら、右手に、凡五合もはいらうかと思ふ程の、大盃を持つて、やア俺も仲間入りをするぞと、坐り込みました、やツ宜い処へきた、さあ始めやうと、支度に取かかつて居る処へ、船頭がきて、どうか短銃だけは止めて下さい、元来此奴が、短銃の音が嫌ひと見えて、泣くやうに頼みましたが、龍馬は一言の下に叱りつけ、さあ始めやうと、一つの徳利を、海の中へ投げ込みました、徳利は浪のまにまに、浮いたり沈むだりするを、籖で相手を定めて先づ最初に龍馬が、狙を定めて一発轟然、打ち放しますと、美事徳利はニつに破れて、其侭沈むでゆく様子、さあ今度は新宮の番だ、負けるな、確固りやれと、例の大声で、西郷がはやし立てる、一同が手を打って喜ぶ内に、新宮は、及腰になつて、左手で徳利を投込み、狙を定めて、引金を引くと、弾丸は外れて、水深く、沈むでゆきました、やツ如何だ新宮、自分の刀で、自分の寐首を掻くのかと、西郷も意地の悪い、新宮が持ってきた盃へ、波々と酌いで、さあ約束だ呑め、と突きつけられ流石の新宮も少し弱つた風で、今一度やり直しときたが、ゆるさない、とうとう呑まされて、躍起となり、さあ来い、誰でも来いと、相手えらばす、競争しましたが、立つづけに三度迄、お良に敗られて、流石に盃を執りかね、ほうほうの躰で下へ逃降りました。
これは唯つまらぬ事と、僕も始の内は聞いて居りましたが、実はかうやって遊びにかこつけ、短銃の練習をしたのださうです。


名刺と短銃

既に以前同志の復に、陸奥が短銃を持つたまま、裏の垣根の処に立つて居たと、書きましたが、今更に他の者から、聞く処に依れば、其日は同志が無理に連れて行った処、不思誠に元気づいて、どっと鯨声をあげた時にいの一番に切り込みました、……は宜いが屋敷へ飛込むが否や、名刺と短銃を投出したまま亦いの一番に遁出したとやら、いづれにしても、臭い話ながら、これは其時に切り込むだ同志の古老で、今現に、神奈川在に、情ない哉、浮世を忍ぶ按摩と身をやつした人が直接に、僕の親父と兄に、話した事実で、後に此人が、陸奥に蓬ひに行った処、言を左右に托して、逢はなかつたとやら、咄。


土佐の読者に檄す

僕は横須賀の在に居るので、三百里もある、土佐へ、古跡亦は事実を調べに行かれませむが、高知に住居せらるる諸君は、読書の余暇、維新時代勤王家の歴史、亦は其子孫縁者に就いて、人の知らぬ事実を調べたら、面白い有益な話があるであらうと、思ふのです、で僕がどうかして、調べ上げて綴りたいと思ふのは、彼の屋根山で死んだニ十三士の事跡で、既に一冊となって世に新しい事が出たものがあるとは云へ、未だ調べたら、沢山あらうと思ふのです、それは只に僕一人の満足では無く、一般歴史家の好材料となるのですから、余計な事ながら、紙面を汚して、土佐の読者諸君に檄する所以です。


遺物

真正なお良夫人ならば、何か遺物があるであらうと、横槍を入れる人もありますが、実の処、何もありませむ、といふのは、彼の寺田屋騒動及大仏騒動の折に、大半はうぱはれて仕舞って、後に親子が落魄した時に、或る曲者が、お人よしのお貞を胡麻化して、巻上げて仕舞ました、後に残ったといふは、ほんの龍馬の短冊か、刺客に殺された時に、防いだ刀のつばか、写真位ゐなものでそれも今は事情あって、手元にはありませむ、で亦諸方から、何か紀念の為めに、書いて呉れと、由込むできますが、可成的、断って居りますから、後から申込む諸君へ一寸御断り申して置きます、(曲者とは今現に、名古屋の某銀行の頭取にて、名も知れど、云はず、いづれ痛棒を喰はす所存なり)


ひとまづ

第二回の稿も、此稿で結を告げましたから、ひとまづ筆を措く事としました、がまだまだ材料は、充分ある見込みで、今現に執筆中のもありますから、更に改題して、写真を加へ(現今のお良夫人は、今回を以て初めて、写真したるなれば是おそらく、天下の絶品ならむ)諸君に御紹介しませう。

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