<反魂香>(第四回) 明治32年6月15日発行
龍馬死後のお良

之れは反魂香に編入するものでは無いのですけれど(お良は今尚存生せる故) 別に題を設けて書き記すのも面倒ですから此稿へ入れました。
慶応三年十一月十五日、龍馬が河原町近江屋新助の下宿で、刺客の為めに、 最後を遂げた時は、お良は下の関の傍東肋太夫(海機隊の一人)の家に妹の君 江を連れて同居して居りました。同月十六日の夜、お艮は龍馬が、全身紅に 染み、血刀をさげて、しよむぼりと、枕元に座つて居た夢を見て、不思議に 思ひ、もしや所天の身に変でもありはせぬかと、人に語らす、独心を苦しめ て居りました、すると十七ロの夕方、佐柳高次(海援隊)が早馬で下の関へ馳 せつけ、お良の前へ平伏したまま物も言はずに、太息をついて居ますから、 お良は、偖はと心に覚悟して、色にも出さず、佐柳お前草臥たろうから、次 の間で休息なさい、用向は後で聞くからと、言ひながら用箪笥から縮緬の襦袢を一枚、取り出して、佐柳の前に置き、道中を急いで汗も出たろうから之れと着かえなさいと辞退するを無理に手に取らせ、佐柳の顔をジット見つめて、お前之れが形見になるかも知れないよと、胸迄こみ上げて来る涙を堪へて、きっぱりと、言ひ放つと、佐柳は思はず畳へ顔をすりつけて姉さん(海援隊の人々はお良を呼ぶに姉さんを以てす)と言ったぎり、咽むで居りますと、之れも早打で、報知したと見へて、吉井玄蕃は太宰府から、三好真三は長府から共に伊東の家へ到着して、佐柳を別室へ連れて、ゆきました。
時々、残念だ残念だと言ふ声がするので、愈龍馬は殺されたに違ひないとお良は君江と共にその夜、こつそりと、心ばかりの法事をしました。
それから七日ばかりの間は、龍馬の死をお良に知らさず、只酒ばかり呑まして、力をつけて居りましたが、お良は既に承知をして居ますから、身躰は生きて居ても、心は死むだも同様です、漸く八日目に三好がお良に龍馬の死を語りました、元より覚悟をして居ますから、少しも騒がす、九日目に、同家の奥座敷で更に法事を営みました、その時お良は、肋太天の女房を呼むで、髪結を呼びにやり、緑の黒髪を、すっかり洗ひ清めさして、仏の前に、しとやかに坐り、暫く合掌して居ましたが、大鋏を手に持つが否や、房々と水の滴る様な黒髪を、根からふツつり切り取って、白紙に包み、仏前に供へて、ワツト泣き伏しました、一坐は水を打った様に静まり返って、首を垂れたまま、涙ぐむで居ました。
今迄我慢に我慢をして、泣いては女々しいと堪へて居たものが、流石は女性現在所天の仏前に合掌して、黒髪を切った時は、龍馬存生中の、色々が胸に浮むで来て、我慢が仕切れなくなって、思はず泣き倒れたまま、正躰もなく泣き崩れて居るものですから、三好は色々にすかして、元の坐へつかせ、一同は玉串を捧げて、法事をすませました。
そこで三好は伊東の家に、居るも気の毒だと言うので、お良と君江を、自分の家へ引き取りました、此時にあけぼのと言ふ茶屋で、中島信行、伊藤俊肋(今の牡丹侯)、お良の三人が、橙の実を短銃で、狙撃して終日遊び暮し、その夜は同家で、呑みあかしました、お良が戯れに、
  武士のかばねはここに桜山
 花は散れども名こそ止むれ
と詠むで、中島にしめし、歌でしやうかぬたでしやうかと言つて大笑ひをしたそうです。(但長府の桜山に、その頃戦死せし人の招魂社を建てし故なり)亦此あけぼのと云ふ茶屋は、桂小五郎の妾と伊藤俊助の妾梅子(下の関の青楼大坂屋の内芸者にて、主人の安なる者が手を付けしを伊藤に押し付けしなりと、此梅子こそ今の伊藤博文令夫人なれ)とが京都あけぼのの出店として(桂の妾は同家の娘故)招魂社の為めに建てたそうです。
それから亦都合があってお良は、下の関奥小路福田屋仙助といふ質屋のニ階を借りて、居りましたが、まだ長崎の新町には、海援隊の屋敷もあり、且つ管野高松等も居るのですからいつ迄も人の世話になって居ても、気の毒といふので中島信行、石田英吉、山本幸堂の三人が、長崎から迎ひにきました、が、お良は、長崎へ帰るのは厭だから、東山へ家を建てて墓守を仕度いと言ひましたが一先づ、長崎へ行ってから、京都へ出ればいいではありませむかとの、皆のすすめに、無理にとも言はれず、それに君江も年頃で、既に管野とは許嫁の仲ですから、それでは長崎で婚礼を済して後に、京都へ出やうと、相談一決して、一同は汽船へ乗り込むで、長崎へ向け出帆しました、その時に石田英吉が、
   筑紫がた波も静けき君ケ代の
    玉浦かけて出づる人かも
長崎へきて見ると高松と管野とが、青木屋(海援隊の船宿)の娘某(逸名)を、二人して孕まし、父親の詮議最中といふので、流石のお良も呆れましたが、娘へは金で話をつけて手を切らせ、管野と君江とは、渡辺剛八(海援隊)が仲人となって、目出度く婚礼をさせました。
そこでお良も、足手まとひが無くなつたものですから、一日も早く京都へ行きたく、此事を管野等に相談して、用意を調へ、明治元年五月二十日、夕顔丸といふ汽船に乗込むで、直行、二十四日大阪へ着し、土佐堀の薩摩屋おりせ(此りせもお登勢に劣らぬ勤王家にて今尚大阪に老を養ひつつあり)方へ泊込みました、所へ白峯がきて一先づ土佐へ帰れと云ふ、お良は如何しても京都へゆくといふ、いろいろごたごたがありましたが、結局墓参だけして国へ帰る事に決し、お良は同家を出でて、近江屋新助方へ泊込み、墓参をして居ますと、中島信行が遥来倭肋(此者は元清国人にて龍馬が長崎滞在の折、拾ひ上げて都下にせしが遂に帰化して今現に北海道にて開懇に従事し居れりと)を連れて近江屋へ立ち寄り、お良に面会して、時に姉さん、海援隊には、千両の積立金が、残って居ますが、貴姉はそれを貰はないのですかと、言ひますからいいえ何も貰やしないと言ふと、それなら私しが取り計ひましやうと中島は倭肋を連れて北海道へゆきました、後に此千両の金を持つて(お良に渡さず)管野角兵衛、白峰俊馬、中島信行の三人が米国へ洋行したのです。
 お良は勝次、幸之助といふ二人の僕を従へて大阪迄下り、七月十三日和船で土佐へ向け、出帆しましたが、土佐の貞山沖で難船し、九死の内を漸く逃れて浦戸へ着くべき船が貞山港へ着し、陸上を歩行して漸く高知の坂本の家へつきました。
 所が義兄及嫂との仲が悪いのです、なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのです、が龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身特をする様に仕向て居たのです、既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしづめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお艮は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へぱ赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです、之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる妾あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へぱ山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊ロに苦む様になりました。
なぜかといふに此時分には前にも言った通り海援隊は瓦解して散々ばらばらで誰もお良に米や金を送ってくれるものが無かつたのです、すると五条の公卿が気の毒に思つたか、月々米を送って呉ますので、お良も漸く安心して暫く居りますと、五条家で毎月米を送るも、面倒故、いつそ当家へ来ては如何かと言ふ、亦内々で知らせてくれる人があって、五条の殿様はお良の容色に迷って居られるから、うつかり行くと操を破られると言ふ、お良は馬鹿殿様が何を言ふか、貧乏公卿へゆく位なら舌をかむで死むで仕舞ふわと、無談で東京へ志しました、その時は供も無く只一人、女のか弱い足で海道百五十里を、野に伏し山に寝て、漸く東京へ辿りつき、霞が関の吉井友美の家を訪ひました、折りよく西郷が来合せて、共に二階で、お良は今迄の有様を落もなく物語り、妾一人の身ならば亦如何にもなりますが、大阪に居る母や、妹の光江や大一郎の三人を養はなければ、なりませむから、如何か身の振方をお頼み申ますとの事に、西郷も同情を表して、金子二十円をお良にやり、私も此度征韓論の事で大久保と論が合はず、依って一先づ薩摩へ帰つて百姓をするから、再び上京した時にはきつと腕にかけても、御世話は仕ますからそれ迄、待ちなさい、之れは当分の小使、ああお前さんも、いかい苦労をしましたのうと、涙を流して帰られましたが、後に城山で、討死したと聞き、お良は泣き倒れたそうです。

 ああ龍馬の朋友や、同輩も沢山居たが、腹の底から深切であつたのは、西郷さんと、勝さんと、それから寺田屋のお登勢の三人でしたと、老の目に涙を浮べて、昨夜秀峰に語りました
(五月十五日夜お良の寓居に於て筆記す)

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