佐那とりょう
佐那の墓りょうの墓

坂本龍馬には、二人の妻がいた。
佐那とりょうである。

二人の墓碑には、『坂本龍馬室』『贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓』と、刻まれている。

この二人のドラマを書き述べてゆきたい。

佐那は、北辰一刀流の道場主・千葉定吉の娘。
龍馬は、江戸遊学の際、この道場へ入門。
やがて二人は恋に落ちる。
この当時、姉乙女に宛てた龍馬の手紙によれば、
「此はしハまづまづ人にゆハれんぞよ。すこしわけがある。長刀は順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江、御申付ニて書たるなり。此人ハおさなというなり。本ハ乙女といいしなり。今 年廿六歳ニなり候。馬によくのり釼も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみなみの男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり御ぎんという女の、力料斗も御座候べし。かほかたち平井より少しよし。十三弦のことよくひき、十四歳の時皆傳いたし申候よし。そして、えもかき申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず。夫ニいたりてしづかなる人なり。ものかずいはず、まあまあ今の平井平井。」
佐那は、元は偶然ながら姉乙女と同名であり、彼女は乗馬・剣術・長刀も出来て、昔坂本家に奉公していた力持ちのぎんを思い浮かべる、と紹介。
初恋の女性と言われる平井加尾を引き合いに出し、容姿が良いのみか、体力・心映え・教養まで秀でている様に褒めている。龍馬の当時の心境を姉に正直にうち明けている手紙である。

入門から5年後、龍馬は北辰一刀流の免許皆伝。この時、定吉は龍馬と佐那の結婚を許す。
しかし、当時は動乱の世。夫婦になるのは世の中が落ち着いてからということになり、婚約の証として定吉は龍馬に短刀を、龍馬からは紋付の袷衣が贈られた。

この後、龍馬は江戸に戻ることはなく、(この間、龍馬はりょうと結婚)婚約から9年後に龍馬の訃報に接する。

明治になり、佐那は学習院女子部の舎監を経て家伝の灸で細々と生計をたてていた。
55歳の時、清水小十郎の息勇太郎(25歳)を養子にする。

そんなある日『千住の灸・千葉灸治院』に一人の男がやってくる。
時の自由党総裁・板垣退助である。板垣は、効目が顕著だったので、同じ党の小田切謙明に佐那を紹介する。
当時、謙明は血圧が高く、頭痛・肩こりに悩まされていた。
謙明は妻豊次を伴い通院し、佐那母子の貧困生活をみかねて、治療費を余分に置いていくようになる。

謙明は、佐那の治療の甲斐もなく他界する。だが、豊次と佐那の交流は続いた。
謙明他界の2年後、養子勇太郎が28歳の若さで他界。
生きる張りを失った佐那は、病の床につき、翌年59年の生涯を閉じる。

訃報に接した豊次は、分骨してもらい小田切家の墓所に埋葬。
墓碑に『坂本龍馬室』と刻んだ。

佐那は、龍馬の形見となった袷衣の家紋の部分を切り取り、自分の宝として持っており、豊次に涙と共に見せていたという。

豊次は、佐那の自分の夫は龍馬ただ一人と操を守り続けた心情に心打たれたに違いない。

佐那の墓は、甲府市・清運寺にある。

りょうりょう

りょうは、京都町医者楢崎将作の娘。
龍馬との出会いは、りょうの聞文『反魂香』によれば、
「大仏騒動は、元治元年六月五日の朝方に、起つたのです。その始を尋ねますと彼の大和の戦争に敗れました義兵が、京都大仏南の門今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて、表札に『水口加藤の家人住所』と記して、暫く世の有様を窺つて居りました、その隠居処へ出入する人の名をあげますと、才谷梅太郎(坂本龍馬)、(中略)等で、此時分には、未だ海援隊を編成しなかつたのです。会津の奴等は絶へず眼を八方に配つて、浪人の詮議がきびしいものですから、右の人々は安閑と、大仏に居る訳には、ゆきませむ。で一寸来てはすぐ処をかへて仕舞ふので隠居処は、山本甚馬が年寄りですから台所を受持つて居りましたが、何うも男世帯は思ふ様にゆかず、且つ山本とても安楽な身ではありませむから、時々家を明けるのでそれでは誠に不都合だから、年寄りで誰か一人気の利いた女を、留守居に頼みたいと、一同が思つて居りました。ここに、彼のお良の母お貞は、所天に死別れましたので、少しばかりの家財をまとめ、四条の、うら通りに借家してわびしく暮して居りました。此お貞の知人で、その以前非常に世話をしてやつた、米一のお菊と云ふ後家がありました此女は中々の腕達者で、所天の死後も矢張り大勢の奉公人を使つて、盛んに米商を営んで居ります、でお菊が大仏へ出入して居るものですから、浪人の人人が、留守居の女を一人世話してくれぬかと、頼みましたので、お菊は此事をお貞に相談したのです。お貞も奈良崎将作が妻、勤王の女丈夫ですから、早速承知はしましたが、さて三人の子の仕末をつけねはならぬので、長女のお良はお菊の世話で、七条新地の扇岩と云ふ旅宿へ手伝方々預け、次男の大一郎は粟田の金蔵寺(親戚)へ預け、末女の君江を自分が連れて大仏へ引き移りました。」
「お貞が大仏へ引き移つて坂本に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しを、したものですから坂本も、気の毒に思つて、それにお良には、一二度会つて、少しは心も動いたものですから、お前の娘を私にくれんか、さすれば、及ばずながら力にもなつてやろうとの言葉に、お貞も娘には遅かれ早かれ所天を持たす故、同じ所天を持たす位なら、坂本の様な人をとお貞も喜びまして、お良に此事を話しますと、厭にはあらぬ稲舟のと云ふ、お定まりの文句で、遂にお良は坂本の妻と定まりましたが、しかし、大仏に置く訳にはゆきませんから、矢張り扇岩へ預けて置ました。」

有名な寺田屋事件は、この2年後に起きる。
りょうの機転で、命拾いした龍馬は、「この龍女おればこそ、龍馬の命は助かりたり」「今は妻なり」と家信にしたためている。

この時の刀傷治療を兼ね、西郷隆盛の勧めで鹿児島へ出かける。
これが、日本人初の新婚旅行といわれている。
龍馬32歳、りょう26歳。りょうにとって、生涯の中で最も幸福な3ヶ月を過ごす。

翌年、龍馬横死。
りょうは、事変当夜、全身朱に染んで血刀をさげた龍馬の夢を見たという。

龍馬の遺志により土佐の坂本家に送られるが、坂本家は、りょうを嫁とは認めず離別を申し渡され、京に戻る。

龍馬の墓守をして暮らしたいと願うが、母・弟・妹の世話をしなければならないりょうは、西郷隆盛・海援隊の人々を頼って上京する。
だが、援助の手をさしのべてくれたのは、西郷のみ。その西郷も征韓論に敗れ下野する。

そこで、妹君枝のいる横須賀へ行ったりょうは、神奈川宿で西村松兵衛と知り合う。

当時、松兵衛は横須賀鎮守府の雑役夫をしており、同郷の君枝の夫に眼をかけられていた。
2年前に妻に先立たれ子供はなく不自由な暮らしをしていたという。

この頃、りょうは『ツル』と名乗っていた。
坂本龍馬の妻だったことは内緒にしておく様にと、りょうに、君枝夫婦は固く口止めしてあったという。

君枝夫婦の勧めにより、松兵衛とツルは所帯を持つ。

結婚して、3年ほどした後、松兵衛は鎮守府をやめ担ぎ商いを始める。
が、商売は、うまく行かず貧困生活が続く。

当時の様子が松兵衛の手記により垣間見ることができる。
「私がそんなふうになっても、お鶴は厭な顔ひとつ見せたことはありませんでした。それどころか、下働きの口がないときは、私にかわって荷箱を背負って商いに出てもくれます。すると、それがかえって気持ちのすさんだ私には面当てがましく感じられて、疲れ切って戻ってくるお鶴に当たり散らすのも毎度のことでした。『お前という女は心が凍っているのか。いったい、腹の底でなにを考えているんだ。愛想が尽きたのなら尽きたと、はっきり言ったらどうなんだ』などと怒鳴りちらし、悪態をつき、挙げ句の果てには自分で自分の感情に煽られて、手当たり次第に物を叩きつけたりする始末でした。それでもお鶴は抗弁ひとつしたことがありませんでした。(中略)『あなたの気持ちがすさむのは、私のせいなんです。すまないと思っています。』お鶴はそう言うだけでした。皮肉ではなく、心の底から詫びているのでした。」

そんなある日、ツルは『一生の頼み』を松兵衛へ嘆願する。
京都に行かせてくれというのである。
丁度その時、龍馬暗殺から30年に当たるため墓前祭を行う様になっていた。
ツルの初めての嘆願に松兵衛は、京都行きを許可する。が、その夜、君枝よりツルの身の上を初めて証される。

ツルは、出かけるときとは打って変わった萎えしぼんだ様子で京都から帰ってきたという。

前述の松兵衛の手記より
「おそらくお鶴は、自分の中の坂本さんを汚したくなかったんでしょう。(中略)人々がお鶴を見、落ちぶれはてた彼女を通して坂本さんを思い出すとき、それは生きていた時のその人とは微妙に歪み、時にはまるで異質の印象を生じもするでしょう。それはお鶴にとって堪えられる事ではありません。十年の余も私と夫婦になって暮らしていながら、一言も坂本さんの事を漏らさなかったのも、そのためだったのでしょう。」

明治39年1月15日、りょうは66歳で没する。
佐那の死去より10年後、龍馬亡き後40年後であった。

臨終の際の様子を松兵衛はこう記している。
「艶の消えた細い指を動かして、枕元に付き添っていた私の手を捜す様な事をしますので、私がその手を握ってやりますと、『松兵衛さん。長い・・・・長い間、本当にお世話さまになりました。私は抜け殻で、何一つ、あなたにあげられなくて、あなたにばかり・・・・許して下さいね』と、ほとんど聴きとれない声で、喘ぎながら囁きました。『俺はな、お鶴。お前が好きだったよ。だからこの二十年、お前と暮せて、ほんとにしあわせだったよ』私はお鶴の手を握った手に力をこめてそう言いながら、ああもう直ぐだ、と胸が慄えました。俺もじきに後から往くからな、待っていてくれ、と言ってやりたい思いで一杯でした。ですが、お鶴にはいまこそ行くところがあるのです。一目散に駆けてゆくところがー。『いいな、お鶴・・・・。迷わずに、坂本先生の所へ行くんだぞ』お鶴の耳元に顔を寄せてそう言った私の声が、彼女のすでに濁りだした意識に届いたかどうか、私にはわかりませんでしたが、しばらくして、『いけない女でした・・・・わたしは・・・・』と、かすかに呟くと、ほとんど力の消えた洞ろな眼から、小さな露の粒がゆっくり目尻を伝い落ちました。私はその時、お鶴に石の墓を建ててやろうと思いました。(中略)たとえ何年かかっても、坂本龍馬の妻龍の墓と彫った、小さなつつましい石の墓をつくろう。もう口のきけなくなったお鶴のいまわの顔を見守りながら私は心の中でそう約束したのです。」

りょうが永眠してから8年後の大正3年に松兵衛・君枝らの合力で墓が建てられた。
建立者の名は中沢光枝(君枝)となっており、松兵衛の名はない。
おそらくそれが松兵衛の意志だったのであろう。

りょうの墓は、横須賀市大津町・信楽寺にある。


【参考文献】
『葉蔭の露・船山 馨』『反魂香・安岡 重雄』『龍馬の手紙・宮地 佐一郎』
『幕末維新の美女紅涙録・楠戸 義昭、岩尾 光代』



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