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<反魂香>(第一回) 明治32年2月11日発行
慶応から維新にかけて、勤王の士が随分出ました、其時に土州藩の浪人が、国を脱走して遂に二つの隊を作り、之を海援隊陸援隊と名を付たのは諸君御承知でしやう。其二つの隊長と云ふは海援隊に坂本龍馬、陸援隊に石川誠之助の両人で、専心海軍の創立に心を注いで居りました、此龍馬の伝に就ては既に『汗血千里駒』『坂本龍馬』などの題の下に詳細に述てありますから、今僕が乳臭い身で、禿筆を振り廻して喋々するのは烏滸の限りですが、少し耳新しい話を当時の事情に悉しいある人から聞いたのと、『汗血千里駒』の伝中で、不審の所、早く云へは先づ嘘の処を、二つ三つほんの走り書きに書いたのですから文章は何うでも、只其事実を見ると思つて、諸君が他日維新の青史をひもとく時の、参考として読んでもらいたいのです。

坂本龍馬は、天保六年十月十五日(ママ)、土佐国高知市本町一丁目で生れました。父の名は聞き洩しましたが、『汗血千里駒』には長兵衛とあります。母はおさじといつて、同書にはお幸とありますが、著者の間違ひでしやう。或る夜の事で、父は馬、母は龍の夢を見て奇異の思ひをして居ましたが、其月から母は懐孕して生れたのが龍馬です、龍馬の名も其夢に基いたので其時に母が、<家の風吹き起すべき武士の 名は雲井にも龍の夢とや>と詠れて、此子は必ず家の名を揚るに違ひ無いと云はれたそうですが、果して後世屈指の勤王家と呼ばれて、京都東山の墳墓に、今も吊客の絶へ無いそうです。此龍馬には生れた時から、脊に生毛が生へて居たそうで、『千里駒』にもありますが、それは嘘で無いです、現に僕の知り人で見た人があるのですもの。

彼の有名な伏見騒動は、慶応二年正月二十三日の七ツ時に起つたのです、船宿は寺田屋といつて、同書(千里駒)には瀬戸屋とありますが、あれも著者の聞き違ひで、僕は何う云ふ所から瀬戸屋と聞いたのか不思議でならないのです。
お良と云ふのは初めからの名で無いので、お春と名乗つて居たのです、寺田屋騒動後、改めて、お良と呼びました。それからお良は、龍馬が寺田屋に宿込んだ時、見染めて夫婦に成つたとありますが、あれも何かの間違ひて、お良は大仏騒動のあつた時、龍馬にもらはれて、龍馬がお良を寺田屋へ預けたのです。
(此妻となるに就ては、面白き話あれど、充分に聞き置かざりし故、再調の上詳記すべし。)

龍馬、三好(ママ)、大里の三人が寺田屋へ、正月十九日の夕方宿込んだ事を新撰組の奴等が聞き込んで、押し寄せてきたと、訳も無く同書には書いてありますか、寺田屋の女将お登勢と云ふのが、男優の勤皇家で、海援隊の為めに秘密の階子、秘密の坐敷なぞを造てあつて、中々家内の者にすら知られる様なブマな事は仕無いのです。なぜ、知られ無い様にするかと云ふと、此寺田屋へは、新撰組の奴等が絶えず出入りして、居るからです。彼の剛勇の聞へある近藤勇も、お良が姿色には心を動したと見えて、櫛を買つてきたり、簪を調つてやつたりして、専ら歓心を買ふとして居たのですが、後で坂本の妻と聞いた時に、成程道理で強情な奴だと思つたと、言つたそうです。

同書に。
当夜お良は、所天の身に怪我過ちのあらざる様にと、神に念じ仏に祈り、独り心を痛めしが、やがて龍馬は一方を切り抜け、遁去りしと、新撰組の者等が噂するを聴き、わずかは安心したれども、今宵の内に一目逢ひて、久後の事など聞き置かんと、原来女丈夫の精悍しく、提灯照し、甲処乙処と尋廻りし裏河岸伝ひ、思ひがけ無き材木の木陰に鼾の声聞ゆるは、不審の事と、灯をさしつけよくよく見れは龍馬なるにぞお良は喜び。と書いてありますが、それも著者の聞き違ひか、又は面白く読ません為の作事か、何にしろ新撰組の者どもは、お良を坂本の思ひ者と知つて居ますから、欺かれて表二階から蹈込んだ時は、既にお良は坂本に刺客の押し寄せた事を知らせて其傍に居たのです。いくら、どさくさの場合でも、敵は既に支度をして居たのですから、お良も傍に居るし、無論内通したと気付かぬ者があるものですか。それに三人が逃けたのですから、お良を捕へるは当然です、自分の身も険呑ですから、いくら所天を思ふとは云へ、又一目逢つて聞き度いとは云え、提灯を照して探しに行かれるものですか。当夜お良は幸に少しの隙をうかがひ、裏の切り戸から横町へ飛び出して、薩摩屋敷へ逃げ込んだのです。其時はもう夜がほんのりと明けて、二番鶏が声哀れに鳴き渡つたそうです。

同書には、夕方とありますが、度々ながらあれも聞違ひの様で、前にも云つた通り、七ッ時でしたか、しかし七ッ時に、湯に這入る者があるものかと不審に思ふ人もあるでしやうが、寺田屋の女将お登勢は、女中に先き立つて、自分か動き、夜もをそく迄起きて、時には徹夜する事もあるので、娘分のお良も、三人はきて居るし、新撰組の奴等はきて居るし、従て徹夜する事もあるのです、ですから、七ッ頃湯に這入つて居たとて、决して怪むに足ら無いのです。

慶応三年八月十六日、長崎元博多町のコゾネと云ふ質屋の奥坐敷で、お良の父奈良崎将作(実名なり)と、自分の父母の霊を祭りました、其時の歌に、奈良崎将作に逢ひし夢見て。

面影の見えつる君が言の葉を かしくに祭る今日の尊さ 父母の霊を祭りて かぞいろの魂やきませと古里の 雲井の空を仰く今日哉

嗚呼之の魂祭りが龍馬存生中の最後の手向けでした。同年十一月十五日、京都河原町近江屋新助の下宿で、三十三歳の月を見納めに、遂に帰らぬ客となりました。京都東山に遊ぶ人は、必ず龍馬(中岡、僕藤吉)の墳墓に一掬の涙を注くでしやう、僕は残念な事には、京都へは未だ足を入れた事が無いので、墳墓の様子は知りませんが、向つて左が中岡で、真中が龍馬、右が僕の藤吉の墓だそうです、門の前の白梅紅梅は、寺田屋のお登勢が植へたので、燈籠は高松太郎外八九名の寄附、墓の前の榊は、お良が手向けの為めに植え付けたのです。

龍馬等三人を殺害したのは、近藤勇だと人も云ひ、書にもありますが、実はそうで無いです。其殺害した奴の名は、三村久太郎(ママ)と云つて、此奴が会津紀州を往来して居たので、殺したは此奴ですが、殺さした奴は外にあるので、名は知つて居ますが、此稿へ書き入れ度いですけれど、あまり公に言ふと、飛んでも無い人迄引張り出されますから、僕は名だけは云ひません、そのかわり一寸天機だけは洩らして置きましやう。

備後鞍の沖で、海援隊のいろは丸と、紀州藩の明光丸とが衝突して、それが為めに、いろは丸は沈没し、龍馬は中島信行を代理として談判の結果、遂に八万五千両の償金を、紀州藩から取つた事は、諸君御承知でしやう。(『千里駒』には沈没せし船の名も無く、償金は十余万両とあり。)で、それも暗殺の原因の、幾部分かをしめて居るので、もう一つ明かに云へは、龍馬は全く飼犬に手をかまれたのです。

若し誌友諸君の内で、海援隊の事績、又は此暗殺の原因が、聞きたければ、破屋ながら、僕の宅へ尋て来給へ、何も御愛想は無いが、渋茶位は入れるから。



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<反魂香>(第二回) 明治32年4月20日発行
‘大仏騒動及び内祝言’

大仏騒動は、元治元年六月五日の朝方に、起つたのです。その始を尋ねますと彼の大和の戦争に敗れました義兵が、京都大仏南の門今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて、表札に『水口加藤の家人住所』と記して、暫く世の有様を窺つて居りました、その隠居処へ出入する人の名をあげますと、才谷梅太郎(坂本龍馬)、中岡慎太郎(石川誠之助)、元山七郎(未詳)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(貞吉)、管野覚兵衛(ママ)(千屋寅之助)、池倉太(ママ)(未詳)、平安佐輔(安岡忠綱)、山本甚馬(ママ)(未詳)、吉井玄蕃、早瀬某、等で、此時分には、未だ海援隊を編成しなかつたのです。会津の奴等は絶へず眼を八方に配つて、浪人の詮議がきびしいものですから、右の人々は安閑と、大仏に居る訳には、ゆきませむ。で一寸来てはすぐ処をかへて仕舞ふので隠居処は、山本甚馬が年寄りですから台所を受持つて居りましたが、何うも男世帯は思ふ様にゆかず、且つ山本とても安楽な身ではありませむから、時々家を明けるのでそれでは誠に不都合だから、年寄りで誰か一人気の利いた女を、留守居に頼みたいと、一同が思つて居りました。

ここに、彼のお良の母お貞は、所天に死別れましたので、少しばかりの家財をまとめ、四条の、うら通りに借家してわびしく暮して居りました。此お貞の知人で、その以前非常に世話をしてやつた、米一のお菊と云ふ後家がありました此女は中々の腕達者で、所天の死後も矢張り大勢の奉公人を使つて、盛んに米商を営んで居ります、でお菊が大仏へ出入して居るものですから、浪人の人人が、留守居の女を一人世話してくれぬかと、頼みましたので、お菊は此事をお貞に相談したのです。お貞も奈良崎将作が妻、勤王の女丈夫ですから、早速承知はしましたが、さて三人の子の仕末をつけねはならぬので、長女のお良はお菊の世話で、七条新地の扇岩と云ふ旅宿へ手伝方々預け、次男の大一郎は粟田の金蔵寺(親戚)へ預け、末女の君江を自分が連れて大仏へ引き移りました。

ここに又浪人の一人大里長次郎に非常に想を懸けて居る千本屋敷(西の奉行)の目あかしの娘で、お妙といふ女がありました大里の顔が見たいばつかりに、度々大仏へ出入りして、何くれとなくお貞に力を添へて居りましたが、しかし親が目あかしでも、大仏の事は少しも云はず、却つて会津方の秘密を親から探つては浪人に密告して居たので、大里もよき者を捕へたと喜んで居りました。

お貞が大仏へ引き移つて坂本に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しを、したものですから坂本も、気の毒に思つて、それにお良には、一二度会つて、少しは心も動いたものですから、お前の娘を私にくれんか、さすれば、及ばずながら力にもなつてやろうとの言葉に、お貞も娘には遅かれ早かれ所天を持たす故、同じ所天を持たす位なら、坂本の様な人をとお貞も喜びまして、お良に此事を話しますと、厭にはあらぬ稲舟のと云ふ、お定まりの文句で、遂にお良は坂本の妻と定まりましたが、しかし、大仏に置く訳にはゆきませんから、矢張り扇岩へ預けて置ました。すると元治元年六月一日の夕方坂本が扇岩へきてお良に会ひ、さて私も今度江戸の勝(故勝伯)の許へ行かねばならず、少し心急きの用事なれば明朝出立する故、留守中は万事に気をつけよ、と、別れの盃を交しへ、翌朝望月大里の二人に送られて、伏見で東西に別れました、嗚呼之れが望月の為めには最後の別れで、わずか三日のその間に、不帰の客とならうとは、噫。

坂本が二日の朝出立して、その他の浪人は昨日は何処今日は此処と、時を定めず出没して居て、五日の騒動の折りは、元山七郎、望月亀弥太の二人が三条の長門屋と云ふ、長州宿に居ましたので、他は皆近国又は遠国へ行つて居りました。すると早朝会津方が、何処から探り出しましたのか、長門屋へ押し寄せてきた(但し一手は大仏へ、一手は大高某の家へ向ひたり)ので、元山は其場で討死し、望月は一方の血路を開いて、土佐屋敷へ馳せ込みましたが門が固く閉ぢて居て叩いても開けてくれず、会津方は押し迫つて早や三間許の所迄近づきました、望月は這入るには門を閉ぢてあるから這入れず、後は既に敵が迫つてくる、之はぐずぐずして居られぬと又も、馳せ出して長州屋敷へきて見ると、門が開いて居ります、やれ嬉しやと、飛び込まうとする一刹那、敵が突き出した手槍の為めに、腰をしたたかに貫かれ、流石の望月も思はずその場へ倒れましたが、もう之れ迄と、持つたる刀を我と我腹へ突き立てて、あはれ、二十三歳を一期として、悲憤の刃にたふれました。

五日の朝、お良はふと目を醒すと、あまり表が騒しいので、何事が起こつたのかと、衣服更めて門口へ出る出会頭に、お妙が君江を連れてきたのに逢ひました、何うしたのかと訳をきくと、今朝大仏へ会津の奴等が押し寄せてきて、家財道具は悉皆持ち出しお母さんを縛つて千本屋敷へつれて行きましたから、君江さんを貴婦の所へ届けにきましたとの事に、お良はびつくり、お妙と君江とをつれて、大仏へきて見ますと、家中蹈みあらして、槍を以て突きあらした跡ばかりで、流石のお良も只呆然として居ります所へ、何も知らず大里が大仏へ帰つてきましたから、お良は今日の仕末を手短に話し、さてお妙さん、大里さんが此処に居ては大事ですから、貴婦が近路を案内して、伏見迄逃してくださいと、云へばお妙は大喜び、暫しなりと恋しき大里の傍に居たき乙女心に、先に立つて、大里はそのまま伏見へ落ちゆきました。

お良は君江を河原屋の本家へ預け、自分は河原町の大高某の家へ馳せゆきました、此大高と云ふ人も勤王の一人で、身は具足師でありますから、家内に秘密室を設けてあつて、三藩の浪人を潜ませて居たのです。

来て見ると此家へも早や押し寄せたと見へて、主の大高は斬り殺され、三人の子供は途方にくれて泣くばかり、折ふし妻が発狂して笑ふやら泣くやらの有様で、お良は思はず涙を流しましたが、漸く心を取り直して、又大仏へ引返しますと、嬉しや母が帰つて居ますので、訳を聞くと何も知らぬ者とて、放免せられたとの事にともに喜びましたか、さて此処にいつ迄も居るわけにはゆきませんから、一まづ金蔵寺へ引き移りました。

八月一日の夕方坂本が帰つてきました、で金蔵寺の住職智息院が仲人となつて本堂で内祝言をして始めて、新枕幾千代迄もと契りました、が此処にうかうかして居て敵に覚られては互の身の為めに能く無いと云ふので、種々相談の上、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在の勝へ、お良は伏見の寺田屋へ、いづれも預けて仕舞ました。

之れから寺田屋の騒動となつて、お良は龍馬、西郷、小松等と共に薩摩へ下り彼の有名な霧島山へ上るのです。


‘寺田屋騒動の原因’

前の反魂香にも一寸書き記しました通り、寺田屋には、秘密の室、秘密の階子を設けて、海援隊の人々の宿をして居た位で、なかなか家内の者にすら、知られる様な事は仕なかつたのに、何うして刺客が探り出したかと云ふと、之れには一つの原因があるのです。でその原因を記す前に、諸君に御詫をしなければならないわけがあります。それは前の反魂香に、騒動の折りに居合せた浪人の名を、龍馬、三好、大里と記した、即ち此事です。お耻かしいがあれは僕の聞き誤りで、実は坂本龍馬、三好真三、新宮次郎、池倉太の四人でした。『千里の駒』の著者の誤聞を、すつぱ抜く僕が自分から、間違つた事を書いたので、生れて始めて、顔から火が出ました。

偖四人の浪人が、寺田屋へ泊り込んだ日に、新宮次郎は、その以前、長崎で雇ひ入れた、僕の長吉と云ふ奴を解雇しました、此長吉は江戸の廻し者で、うまく海援隊に近づいて、秘密を探らんとして居たので、新宮もうすうす覚つたものですから、少し計りの事を口実にして寺田屋へ来る途中、追払つて四人は泊り込んたのです。

すると長吉が二十日の朝、ひよつくり、寺田屋へきて、お前の家に三好、新宮なぞが泊つて居るだろうと云ふものですから、お登勢も心に、これは大変な奴が舞込むできた、今此奴を帰しては四人の身が浮雲い、長崎からついてきた奴だから、此家へ泊る事は知つて居やう、帰せばきつと密告するに違ひないと、思ひましたから、大勢の女中に言ひふくめて、無理に奥坐敷へ連れ込み、美酒佳肴で引き止め、伏見の女郎を一人頼むで、芸者風に仕立て、色仕掛で帰さぬ様に仕ましたが、長吉とても、四人がきて居る事は知つて居ますから、うかうかして居て逃がしては大変と思ひましたから、止めるも聞かず、とうとう二十二日の夕方、大阪へ行と偽り、其足ですぐ密告したのです。

出る時に、そつと例の女を呼び、お前にも色々世話になつた、乃公も今度少し急ぎの用で大阪迄行つて来るから、いづれ又帰つたら、相応に物も取らせ様があいにく懐中が淋しいから暫く之で我慢をして置けと、金を三両白紙に包んでやつたそうです。


‘附記’

坂本龍馬の伝に就ては、諸君も幾多の書籍、雑誌等で既に御承知でせうから、僕は世人のあまり知らない、海援隊の内幕又は龍馬死後の有様、及び烈婦お良の事跡に就いて例の悉しい人から聞きただし、既に材料も集りましたから、当『文庫』の余白を汚し、巻を追ふて書き記すつもりなのです。が僕の書いたのと世上にある幾多の書籍(龍馬伝)と処々、反対して居るので、どちらが真か虚か、僕は手前味噌ながら自分を信じて居りますが、僕とてもまだ乳の香の失せぬ青二才ですから、充分当時の青史に悉しくは無いのです、只二三冊の書によつて、例の悉しい人から(但し書に無き事跡は此限にあらず)此処はかうだあすこは何うだと教へられた通りに書き記すので、しかし自分でも実だと保証する処もあるのです、元来此悉しい人と云ふのは、全く当時の事情に悉しいので又早く云へば、龍馬とも親しく仕た人ですから、僕の為めには此上も無い活記録です、で此人は外面はあまり悉しくないですけれど、内面は実に悉しいので、従つて僕も内面をのみ悉しく書き記すのです、誌友諸君のうちで、どなたか当時の事情に悉しい人を御存じで、僕の書いた事で嘘又は誤がありましたら御遠慮無く、突込むでください、僕も充分再調して誤があらば訂正しますから。

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<反魂香>(第三回) 明治32年5月15日発行
‘薩摩下り’

寺田屋騒動の折に、お良が浪人へ内通したばかりに、四人を取逃したので新撰組の奴等は口惜しがり、お春(お良)を目附次第、斬つて仕舞へと血眼になつて、探して居るものですから、お良も今は寺田屋へ帰る事もならず、暫く坂本等と共に薩摩屋敷に潜むで居ましたが、しかしいつ迄も同邸に居る訳にもゆきませむから、一まづ鹿児島へ下つては如何かと西郷のすすめに、それではと同意して、慶応二年二月二十八日、龍馬は騒動の折に右手の指へ負傷してまだその傷が平癒ませむから、病人の事なればとて駕籠にのり、お良は人目を避ける為め男装して行列に加はり、西郷小松等と共に、大阪迄下りました、で淀川へ小松帯刀の持船三国丸を廻し、便船の用意をして同年三月四日の夕方、一同はのり込み、五日の早朝一抹の煙を跡に残して、淀川を出帆しました。

瀬戸の内海は諸君も御承知の通り、風景の佳絶なる処ですから、お良は我知らず甲板に出でて彼方此方と眺めて居ります所へ、龍馬が来て、良如何だ中々風景の好い海じやろ、お前は船が好きじやから、天下が鎮静して、王政回復の暁には、汽船を一隻造へて日本の沿岸を廻つて見やうかと、笑ひながらお良の肩を軽くをさへました、お良もぬからぬ顔で、はい妾は家なぞは入りませむからただ丈夫な船があれば沢山、それで日本はおろか、外国の隅々迄残らず廻つて見度う御座いますと云ひましたので、龍馬は思はず笑ひ出し、突飛な女だと此事を西郷に話しますと、西郷がなかなか面白い奴じや、突飛な女じやからこそ寺田屋でも君達の危うかつたのを助けたのじや、あれが温和しい者であつたら君達の命が如何なつたか分らないと果ては大笑ひに、笑つたさうです。

三月七日下之関へ着いて、龍馬は三好を長州屋敷へ送り届け、その日は同港へ一泊して翌八日の早朝出帆しまして海上事無く十日の夕方長崎へ入港しました。

そこに又一泊して翌十一日同港を出て、十二日の正午、鹿児島へ着し上陸して茶会と云ふ処で休息しましたが、そのままそこの奥座敷を借りて暫く暮して居りました。

或る日同家へ泊込むだ、大藤太郎と云ふ奴が龍馬に面会して、近藤長次が切腹の是非を論じ、伊藤井上は卑怯なり不徳なりと大気焔を、吐いて居りましたが、夜に入つてお良はふと、目をさますと、隣座敷に人の居る様子ですから、不審に思つて、そつとふすまの隙から、窺ふと、彼の大藤が刀を抜いて、燈火に照し寐刃を合して居る様ですから、吃驚して龍馬をゆり起し此事を話すと、龍馬も油断せず、刀を引き寄せて鯉口くつろげ、来らば斬らむと身がまへて居りましたが、敵も覚つたと見えて、そつと座敷を抜け出しましたので、龍馬も少しく安心し、翌日、陸奥が尋ねてきましたから此事を物語ると、陸奥も容易ならぬ事と早速、西郷に話しましたから、西郷も龍馬お良を、茶会処へ置いては宜しく無いと考へ、鹿児島上町へ一軒家を持たせ、日々部下の者に、警戒さして居りました。

(小松帯刀が霧島山に入湯中を幸に、龍馬はお良を伴れて同じく、霧島山へ上りし折り、お良がさかほこを抜き取りたるなれど、他の書に詳しければ略す)

‘西郷の憤怒’

龍馬、中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄じく、後藤を捕へて、ヌイ後藤貴様が苦情を云はずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こむな事にはならないのだ、・・・全躰土佐の奴等は薄情でいかんと、怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし、イヤ苦情を云つた訳ではない、実はそこにその色々、・・・。何が色々だ、面白くも無い、如何だ貴様も片腕を無くして落胆したらう、土佐薩摩を尋ねても外にあの位の人物は無いわ、・・・ええ惜しい事をした、と流石の西郷も口惜泣きに泣いたさうです。

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<反魂香>(第四回) 明治32年6月15日発行
龍馬死後のお良

之れは反魂香に編入するものでは無いのですけれど(お良は今尚存生せる故) 別に題を設けて書き記すのも面倒ですから此稿へ入れました。
慶応三年十一月十五日、龍馬が河原町近江屋新助の下宿で、刺客の為めに、 最後を遂げた時は、お良は下の関の傍東肋太夫(海機隊の一人)の家に妹の君 江を連れて同居して居りました。同月十六日の夜、お艮は龍馬が、全身紅に 染み、血刀をさげて、しよむぼりと、枕元に座つて居た夢を見て、不思議に 思ひ、もしや所天の身に変でもありはせぬかと、人に語らす、独心を苦しめ て居りました、すると十七ロの夕方、佐柳高次(海援隊)が早馬で下の関へ馳 せつけ、お良の前へ平伏したまま物も言はずに、太息をついて居ますから、 お良は、偖はと心に覚悟して、色にも出さず、佐柳お前草臥たろうから、次 の間で休息なさい、用向は後で聞くからと、言ひながら用箪笥から縮緬の襦袢を一枚、取り出して、佐柳の前に置き、道中を急いで汗も出たろうから之れと着かえなさいと辞退するを無理に手に取らせ、佐柳の顔をジット見つめて、お前之れが形見になるかも知れないよと、胸迄こみ上げて来る涙を堪へて、きっぱりと、言ひ放つと、佐柳は思はず畳へ顔をすりつけて姉さん(海援隊の人々はお良を呼ぶに姉さんを以てす)と言ったぎり、咽むで居りますと、之れも早打で、報知したと見へて、吉井玄蕃は太宰府から、三好真三は長府から共に伊東の家へ到着して、佐柳を別室へ連れて、ゆきました。
時々、残念だ残念だと言ふ声がするので、愈龍馬は殺されたに違ひないとお良は君江と共にその夜、こつそりと、心ばかりの法事をしました。
それから七日ばかりの間は、龍馬の死をお良に知らさず、只酒ばかり呑まして、力をつけて居りましたが、お良は既に承知をして居ますから、身躰は生きて居ても、心は死むだも同様です、漸く八日目に三好がお良に龍馬の死を語りました、元より覚悟をして居ますから、少しも騒がす、九日目に、同家の奥座敷で更に法事を営みました、その時お良は、肋太天の女房を呼むで、髪結を呼びにやり、緑の黒髪を、すっかり洗ひ清めさして、仏の前に、しとやかに坐り、暫く合掌して居ましたが、大鋏を手に持つが否や、房々と水の滴る様な黒髪を、根からふツつり切り取って、白紙に包み、仏前に供へて、ワツト泣き伏しました、一坐は水を打った様に静まり返って、首を垂れたまま、涙ぐむで居ました。
今迄我慢に我慢をして、泣いては女々しいと堪へて居たものが、流石は女性現在所天の仏前に合掌して、黒髪を切った時は、龍馬存生中の、色々が胸に浮むで来て、我慢が仕切れなくなって、思はず泣き倒れたまま、正躰もなく泣き崩れて居るものですから、三好は色々にすかして、元の坐へつかせ、一同は玉串を捧げて、法事をすませました。
そこで三好は伊東の家に、居るも気の毒だと言うので、お良と君江を、自分の家へ引き取りました、此時にあけぼのと言ふ茶屋で、中島信行、伊藤俊肋(今の牡丹侯)、お良の三人が、橙の実を短銃で、狙撃して終日遊び暮し、その夜は同家で、呑みあかしました、お良が戯れに、
  武士のかばねはここに桜山
 花は散れども名こそ止むれ
と詠むで、中島にしめし、歌でしやうかぬたでしやうかと言つて大笑ひをしたそうです。(但長府の桜山に、その頃戦死せし人の招魂社を建てし故なり)亦此あけぼのと云ふ茶屋は、桂小五郎の妾と伊藤俊助の妾梅子(下の関の青楼大坂屋の内芸者にて、主人の安なる者が手を付けしを伊藤に押し付けしなりと、此梅子こそ今の伊藤博文令夫人なれ)とが京都あけぼのの出店として(桂の妾は同家の娘故)招魂社の為めに建てたそうです。
それから亦都合があってお良は、下の関奥小路福田屋仙助といふ質屋のニ階を借りて、居りましたが、まだ長崎の新町には、海援隊の屋敷もあり、且つ管野高松等も居るのですからいつ迄も人の世話になって居ても、気の毒といふので中島信行、石田英吉、山本幸堂の三人が、長崎から迎ひにきました、が、お良は、長崎へ帰るのは厭だから、東山へ家を建てて墓守を仕度いと言ひましたが一先づ、長崎へ行ってから、京都へ出ればいいではありませむかとの、皆のすすめに、無理にとも言はれず、それに君江も年頃で、既に管野とは許嫁の仲ですから、それでは長崎で婚礼を済して後に、京都へ出やうと、相談一決して、一同は汽船へ乗り込むで、長崎へ向け出帆しました、その時に石田英吉が、
   筑紫がた波も静けき君ケ代の
    玉浦かけて出づる人かも
長崎へきて見ると高松と管野とが、青木屋(海援隊の船宿)の娘某(逸名)を、二人して孕まし、父親の詮議最中といふので、流石のお良も呆れましたが、娘へは金で話をつけて手を切らせ、管野と君江とは、渡辺剛八(海援隊)が仲人となって、目出度く婚礼をさせました。
そこでお良も、足手まとひが無くなつたものですから、一日も早く京都へ行きたく、此事を管野等に相談して、用意を調へ、明治元年五月二十日、夕顔丸といふ汽船に乗込むで、直行、二十四日大阪へ着し、土佐堀の薩摩屋おりせ(此りせもお登勢に劣らぬ勤王家にて今尚大阪に老を養ひつつあり)方へ泊込みました、所へ白峯がきて一先づ土佐へ帰れと云ふ、お良は如何しても京都へゆくといふ、いろいろごたごたがありましたが、結局墓参だけして国へ帰る事に決し、お良は同家を出でて、近江屋新助方へ泊込み、墓参をして居ますと、中島信行が遥来倭肋(此者は元清国人にて龍馬が長崎滞在の折、拾ひ上げて都下にせしが遂に帰化して今現に北海道にて開懇に従事し居れりと)を連れて近江屋へ立ち寄り、お良に面会して、時に姉さん、海援隊には、千両の積立金が、残って居ますが、貴姉はそれを貰はないのですかと、言ひますからいいえ何も貰やしないと言ふと、それなら私しが取り計ひましやうと中島は倭肋を連れて北海道へゆきました、後に此千両の金を持つて(お良に渡さず)管野角兵衛、白峰俊馬、中島信行の三人が米国へ洋行したのです。
 お良は勝次、幸之助といふ二人の僕を従へて大阪迄下り、七月十三日和船で土佐へ向け、出帆しましたが、土佐の貞山沖で難船し、九死の内を漸く逃れて浦戸へ着くべき船が貞山港へ着し、陸上を歩行して漸く高知の坂本の家へつきました。
 所が義兄及嫂との仲が悪いのです、なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのです、が龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身特をする様に仕向て居たのです、既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしづめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお艮は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へぱ赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです、之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる妾あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へぱ山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊ロに苦む様になりました。
なぜかといふに此時分には前にも言った通り海援隊は瓦解して散々ばらばらで誰もお良に米や金を送ってくれるものが無かつたのです、すると五条の公卿が気の毒に思つたか、月々米を送って呉ますので、お良も漸く安心して暫く居りますと、五条家で毎月米を送るも、面倒故、いつそ当家へ来ては如何かと言ふ、亦内々で知らせてくれる人があって、五条の殿様はお良の容色に迷って居られるから、うつかり行くと操を破られると言ふ、お良は馬鹿殿様が何を言ふか、貧乏公卿へゆく位なら舌をかむで死むで仕舞ふわと、無談で東京へ志しました、その時は供も無く只一人、女のか弱い足で海道百五十里を、野に伏し山に寝て、漸く東京へ辿りつき、霞が関の吉井友美の家を訪ひました、折りよく西郷が来合せて、共に二階で、お良は今迄の有様を落もなく物語り、妾一人の身ならば亦如何にもなりますが、大阪に居る母や、妹の光江や大一郎の三人を養はなければ、なりませむから、如何か身の振方をお頼み申ますとの事に、西郷も同情を表して、金子二十円をお良にやり、私も此度征韓論の事で大久保と論が合はず、依って一先づ薩摩へ帰つて百姓をするから、再び上京した時にはきつと腕にかけても、御世話は仕ますからそれ迄、待ちなさい、之れは当分の小使、ああお前さんも、いかい苦労をしましたのうと、涙を流して帰られましたが、後に城山で、討死したと聞き、お良は泣き倒れたそうです。

 ああ龍馬の朋友や、同輩も沢山居たが、腹の底から深切であつたのは、西郷さんと、勝さんと、それから寺田屋のお登勢の三人でしたと、老の目に涙を浮べて、昨夜秀峰に語りました
(五月十五日夜お良の寓居に於て筆記す)

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<反魂香>(第五回) 明治32年7月15日発行
利秋お良の寝室を襲ふ

 お良がまだ寺田屋に居た時分ですが、或日の夕方、桐野利秋が(其頃村上伴左衛門と偽名す)大山実次郎等と共に、江戸から来て、寺田屋へ泊込みました。薩摩隼人の事とて、気が荒く、恐ろしさうですから大勢の女中は居ても、誰も酌に出る者が無いので、利秋はー杯機嫌の勢ひで、腹立まぎれに皿鉢を投げ出す乱暴に、お登勢も持て余して居ます処へ、お良が他処から帰つてきて、訳を聞き、それなら妾が静めて来ませうと、元来男優りの女ですから、づかづかとニ階へ上つて、利秋の傍へ坐り、物も言はずに前にあつた盃を取り上げ、手酌で五六杯続け様に、呑み乾して、無言で利秋の前へ突き出しましたから、流石の利秋も吃驚しました、見ると十九か廿歳ばかりの美人が(お良はニ十四歳の折龍馬に嫁したるなれど、容色の美しき為め若く見えたるなり)恨めしさうに、自分の顔を見て、不意に盃を差されたのですから、先んずれば人を制すとやら、利秋は気を呑まれて、呆然として居ますと、お良はやがてロを開き、貴君一つお召りなさい、暴れたつて仕様が無いじやありませむか、つまりは貴君の器量を下げるばかりですよ、今夜は妾がお相手を致しますから、充分召上つて下さいと、恐るる色もなく夜更け迄、人も呑み自分を呑むで、利秋等が酔ひ倒れて居る隙を窺ひ、そっと勝手へ下りて、跡仕舞の手伝ひなぞして、己れの部屋で寝て居ますと、夜中になって襖の外に人の居る様子ですから、何事かと気をつけて居ますと、突然、這入って来た人を見ると利秋です、お良を捉へてこら貴様は今夜は乃公の寝室へ来て寝ろと、恐い顔をして、おどしかけると、お良はせせら笑ひ、戯談言つちや不可ませむよ、寺田屋のお春ですよ、宿場女郎とは違ひますからねへ、人を見て法を説いて下さいと、きつばり云ひ放って捉へられた手を振り放すはずみに、寝る間も肌身はなさず持って居た短刀が落ちました、利秋は目早やく見附けて奪ひ取り、こら貴様は女のくせに短刀なぞを、持って居るは怪しいぞ、よくよく取調べる件があるから、乃公とー所に来いと、お良を引立てて己れの部屋へ連れて来て、大山を起し、利秋が、こらお春、貴様は何う言ふ訳で短刀なぞを持って居るか、女に刀は入らないものだ、察する処、貴様は伏見の廻し者だな、最前の挙動と云ひ、我々を見ても恐れぬ所なぞは、何うも怪しい、かくさずと申立ていと、恰も法官が罪人に対するやうに、睨みつけますと、お良も負けぬ気で、女には短刀は入らない者ですか、妾は伏見の廻し者ではありませむが、その短刀は今夜の様な暴れ者が妾の部屋へでも浮れ込むと困りますから、そんな奴がきたら叩き斬つて仕舞ふと思って持って居たのです、怪しくば何処へなりと、突き出して下さいと、利秋の顔を睨みつけると、利秋は言込められて、一言も無く、顔を赤くして居ました、すると大山が、君一寸その刀を見せ給へと、受取つて見て居りましたが、そつと利秋の袖を引いて、君戯談しちやあ不可ないぜ、ありあ土州の坂本の妻だ、君も僕も顔を知らないから無理は無いが、僕は此短刀に見覚えがある、此短刀は坂本の差し料で、越前国弘の作だ、之れをかくし妻があってその者に渡してあると聞いて居たが、かくし妻は此女だぜ、君飛むだ事をしたなあ、と云ひましたから、利秋は吃驚して、色々わぴ入り、翌日お良を中の島へつれてゆき、御馳走をして、何うか昨晩の事は坂本氏へ内証にして下さいと、ほふほふの躰で薩摩へ帰つたそうです。


お登勢の貞操

お登勢は大津の米商某の娘で、二十歳の時に寺田屋伊肋へ嫁したのです、八九年の間は夫婦中も睦まじく、専心家業を励むで居ましたが、夫の伊助は子が出来たりすると、長年連れ添って居る女房が鼻について、少し小金の廻る処から、妻や子のなげきもかへり見ず、世帯じみた女房は見るも厭と、仇な祇園町の君香と云ふ芸者に浮れて、金が無くなると帳場からつかみ出し、折角お登勢が稼いで貯めて置けば、右から左と持ち出すので、お登勢は時々身を投げかけて諌めても、迷ひの雲は晴れやらず、遂には家へも寄りつかず、料理屋先きから金を取りに来る仕末に、お登勢は、袖の乾くひまもなく独り冷たい空閨を守って、身の不幸を歎いて居ましたが、夫につらく当られても、いったん嫁した家なれば、此処を死場と覚悟を仕て、大勢の女中と共に家業を励む傍ら八人の子(長男伊助、次男伊之肋、三男伊三郎、長女お力、次女おやす、三女おきぬ四女おとき、五女おかぬ、)を養育して居ましたが、その内伊助は病にかかりました、お登勢は今迄つらく当られたにも拘らず、甲斐々々しく介抱して、一日も早く全快するやう、神に祈って居ましたが、遂に其甲斐なく死去した時には、前後不覚に泣き倒れました、が子供や女中に援けられて漸く家政を執る様になり、緑の黒髪を根から切って、一生後家で暮しました、明治五年六月に没して墓は伏見にあるそうです。


周作の娘さの子

千葉周作の娘さの子は、親に似ぬ淫奔女であったそうです、肩揚の跡のまだ鮮やかな時分から門弟の誰彼に心を寄せて、附文をしたりあたりに人の居ない時は、年の若い優男を捉へてロ説いたり、いやもう箸にも棒にもかからぬ女でそれがまた美人なれば、師匠の眼をかすめても、時に或は花陰に眠る者もあるでせうが、悪女の深情けとやらで、我侭で、腕力が強くて、それで嫉妬深いものですから、皆が逃げて廻って居ました。所が龍馬が周作の門弟になった時、早速附文をされたので、龍馬も呆れ返って、成るだけ顔を合せない様にして居ました、後に同志の人が集った時に、いやもう私は天下に恐るる敵は無いが、彼女には閉口したと、頭を掻いて、苦笑したさうです。
『千里の駒』には光子といふ周作の娘が、非常の美人で、龍馬が想を懸けた様に、書いてありますが、あれは此さの子の事ではないかと思ふのです、それなれば余程事実が相違して居ますが、光子と云ふは周作の娘で、此さの子は別人か、亦はさの子が周作の娘で光子が別人か、御存じの方は教へて下さい。


近藤お登勢を縛す

寺田屋は伏見の中心にあるので、大阪から来るも、江戸から来るも、此家を宿として置けば、至極都合が宜いものですから、新撰組の奴等は如何かして定宿にしたいと、人を以て色々頼み入れましたが、元々敵ですからお登勢は頑として承知しませむ、もう此上は腕にかけずぱ承知すまいと、或日手下の木ツ葉共が、寺田屋へ踏み込むで、お登勢を縛し、近藤土方等の前へ引きすえました賺したり、おどしたりして頼みましたが、お登勢はいつかな聞き入れず、殺されても厭だと、目を眠つて覚悟の躰ですから、流石の近藤も持てあまして居る処へ、お良が馳せ込むで、色々と詫をして、結局泊る事は出来ないが、休息位ゐならと云ふ事になって、引き取りました、ですから新撰組の奴等は絶えず同家に出入して居たのです。

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