続「反魂香」(第三回) 明治32年12月15日発行
お良の祖父

お良の祖父は、奈良崎大造といふ人です、此大造の父は、元長州の藩士でしたが、落度が有って永の暇となり、諸国浪々の末、京都へ流れついて、少し斗りの親類をたよりに、三条の裏街へ借家して、売卜者と姿をやつし、朝夕の煙も、心細く送つて居りました。其内にフト妻が、懐妊しましたので、辛い中にも心嬉しく、臨月を指折り数へて、如何か安産して呉れれば宜いがと、心に神仏を念じながら待って居りますと、案じるより生むがやすく、玉の様な男の児が生れましたので、夫婦は今更のやうに喜びまして、大造と名づけ、寵愛して居りましたが、悪い時には悪いもので、丁度大造が三歳の時に、父はフト風の心地と打臥しましたが、それからはぶらぶらと寝たり起きたり、しかし重病といふ程ではありませむが、何しろ売買の方が、暇になるので、妻は他人のすすぎ洗濯から夜は遅く迄乳呑児を抱いて、行燈の下に裁縫してどうかかうか、粥でも啜って居りましたが、何をいふにも貧乏世帯の上に、三界の首枷といふ足手纒があるものですから、気計りはあせつても、思ふやうには動けませむ、夫とても気分の宜い時には、往来へ出て、些少の金は掴むで来ますが、それとても出ぬ方が多いので、遂には親子が餓死する程に成ったものですから、或時夫婦が鼻をつき合して、とても此侭で遣って居ては、死を待つやうなものであるから、可哀想ではあるが、一時大造を里子に遣って、少し都合が宜くなれば、亦取り戻すやうにして、一時は辛いが思ひ切って、遣らうぢやないか、それなら遣りませうと、此処で相談が決ったものですから、人に頼むでロを探して居りますと、此処に、酒屋を営て居る老夫婦が、(惜哉名を逸す]一人子供が欲しいと云ふので、探して居ると聞き、早速耻を忍むで面会し、事情を打明して、何うか暫くの間御預り下さいと、頼みましたので老夫婦も気の毒に思ひ、それに子の欲しい矢先ですから、一もニも無く、承知して、大造を引取り、我子のやうに、可愛がって居りました。
其後四年程経って、不意に本国から、使者が来まして、帰参が、かなったといふ、夫婦は夢では無いかと、呆れる計りに喜びまして早速殿より下賜った支度金で、衣服を調へて着用し、これ計りは餓ゑても、肌身を放さぬ魂二本を差した男振りは、流石は元が武士だけに、つづれに埋つた玉を磨き上げたやうな出世、国へ帰れば槍一筋の身分、大造も多くの下女下男に坊様と侍かせたら、さぞ嬉しい事であらうと、早速人を以て大造取戻しを申込みましたが、大造はまた七歳の頑是の無い子供ですから、老夫婦を真実の親と思って、これがお前の真実の親だと言聞かしても、聞訳ませむ、厭だ厭だ、坊は知らない伯父さんと他のお国へ行くは厭だと、果ては老夫婦に縋りついて泣き出す始末、で老夫婦も子は無し、大造を我子のやうに、可愛がつて居るものですから、内々は手放したく無いのです、そこで大造が厭だといふを幸ひに、渡りに舟と膝を進めて、お前さん方は年は若し、また此先き子の出来る楽みはあるが、私達は御覧の通りの年寄りで、子の出釆る事は無し、唯此子を楽しみにして居たが今此子を取られては、何のやうに心細い事か、第一此子も私達を真実の親と思って居るから、何うか思ひ切って此子を私達に下さらぬか、御承知の通り、少し計りの財産もあり、決して此子に不自由はさせませむ、此家は屹度此子に譲って、立派な商人に仕上げますからと泣くやうに頼まれて、たってとも云へずそれでは此子を捨たと思って、貴老に上げませう、が何うか真実の親がある事は、言って下さるなと云ふ、宜しいと相談が決って、大造の父母は、心ならずも可愛い子を、京都に残して、長州へ帰りました。


松山の修業

さあ老夫婦の喜びは一方ならずです、今迄は預り子であったが、これからは自分の子に成ったので、何うか此子を養育して、ゆくゆくは、此家を譲り、自分達は隠居して、左団扇で暮さうと思うので、言ふが侭の書籍なども買ふてやり、亦店の小僧と共に、御用聞にも廻らせて、ひたすら成長するのを、待って居りました。
所が此大造、元が武士の子だけに、非常に剣術が好きで、共頃京都に、江良某といふ剣客が道場を開いて居ましたが、御用聞きの帰りには必ず、道場へ這入り込んで、見て居りました。
で急ぎの御用があっても、そむな事には、搆ひなく、しかと竹刀の変化を見定めて置いて家へ帰ると、燈火の下に医書を繙いて夜の更けるのを待って居ります、やがて店も仕舞ひ女中や小僧は早や白河夜船の高枕といふ時分を窺ひ、書斎を出て、雨戸を音せぬやうに明け、庭下駄をはいて、物置から取り出した竹刀を、ニ三度振つて、そつと裏から、凡一丁計りもある松山へ来て、松の木を相手に見て置いた竹刀の変化を実地に自修して居りました、かういふ風にして十四の春迄、家の者に悟られず、密かに、修業した甲斐があって、今は殆ど目録位迄、叩き上げましたが、慎み深い人ですから、決して人には剣術を知って居ると、夢にも言はず、黙々と仕て居るので、誰一人それを知る者もありませんでした。
後十五の年に、江良の道場で、フトした言葉の行き違ひから、遂に門人と立会ひましたが美事大の男を三人迄、打ち負した手腕を見た江良が、行末頼もしい奴と、大造を呼び入れて、師弟の盃をしましたが、此時に、更めて江良が大造の実の父母の親族なる事を明し、身を入れて、教へた甲斐があって、遂には免許皆伝して暫く代稽古をさして居りました、間も無く、老夫婦が死亡しましたが、元来大造は、商売が嫌ひですから、老夫婦の遠縁の者を以て跡をつがせ自分は、医者となつて妻を迎へ、不自由なく暮して居りました。
やがて男の子が生れましたから、将作と名づけ寵愛して居りました、処へ一人弟子になりたいと、申込むできた坊さんがありますから誰であらうと、立出て見ると、西林寺の住職で今弁慶といふ人です、(本名は知らず、此坊主力強く、腕力家なりしかば、人呼むで今弁慶といふ)大造も今は長袖の身で、竹刀は当分執らむつもりですが、此坊主を教へたら面白からうと、早速承知して、三年間教へましたが、遂には五分々々の腕前になって、師弟の情交日に日に密でした。
和漢の書に通じ、剣道は達人、且つ医者が専門の大造ですから、諸大名から召し抱へたいと申込むできても、決して五斗米には腰を折らぬと辞退して、一生町医で送りました、六十五で死亡して、墓は西林寺にあります、施主は彼の今弁慶で碑に『奈良崎大先生の墓』と記してあるさうです。


お良の姓名に就て

今迄の篇中に、お良の妹名を『奈良崎お良』と書きましたが、『楢崎お篭』でも宜いのです、否むしろ後の方が正確ですが、それでは一般読者に分りにくいのです、他の書や逸話なぞにも、『奈良崎』や『お良』と書いてあるのが多いので、それを見慣れた読者には、矢張『奈良崎お良』の方が宜いかと思って、僕はわざとかう書きました、これは早くお断りして置けば宜いのに、つい忘れて居ましたが、今此稿へ書き入れました。

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