犯人=高台寺党説
<標的>龍馬(中岡は巻き添え)
<実行犯>伊東甲子太郎の配下、富山弥兵衛ほか4、5人
<動機>桂・大久保らにとってはあくまで武力倒幕のためであり、伊東らにとっては勤王派としての独立資金獲得の手段および革命成就後の地位確保のため。
<根拠>
まず標的について。龍馬か、慎太郎か、双方か。
徳川慶喜による大政奉還の政局は、12月初旬に行われるだろう事は明らかでいわゆる小御所会議に向けてそれぞれの立場で激しい暗闘が繰り広げられていた時期であり、慶喜派はもとより、同じ勤王派でも、「討幕派」と「倒幕派」に分かれて競い合っていた。
(「討幕」ー武力革命路線・「倒幕」ー平和革命路線)
慶喜は自己中心の合議政体を模索していた。
薩長は「討幕」の立場をとり、土佐は「倒幕」が大勢を占めていた。
土佐藩「倒幕派」の理論的な裏付けの主が、「坂本龍馬」である。
しかし、龍馬と個人的には親しい(もしくは近い)同志であっても、板垣退助・中岡慎太郎・谷干城などは「討幕派」の強硬論者であった。
大政奉還後の政治体制を龍馬は列侯ならびに各藩士による合議政体と考えていた。
(参考:船中八策)その中心に誰を置こうとしていたのか?
西郷宛の手紙を見ると、徳川慶喜を置こうとしていたことが、読みとれる。
つまり、この時点で龍馬は幕府体制は否定するが、徳川家擁護論者と見なされる。
その龍馬の暗殺を指令するなどと言うことは幕府幹部はもちろん、会津など親徳川諸侯にはあり得ないのではなかろうか。
ただ土佐藩論を穏健派一本に絞らせるため、強硬派の旗頭で中岡の暗殺を企る事はあったかもしれない。
すなわち、中岡が標的ならば、指令者は幕府方であり、同じ動機を逆に言うと、犯人が見廻組や新撰組ならば標的は中岡である。

長州の桂、薩摩の大久保・西郷などは、慶喜主体の合議体制では生ぬるいどころか近代国家への道が遠のく、断固武力討幕革命として討徳川革命にもってゆくべし、とかんがえていた。
この場合、敵(慶喜)の味方(龍馬)は敵だとまでは断じないにしても、目障りであったろう。
いわんや、小御所会議で容堂や象二郎などの論破は容易だが後ろに龍馬が控えていては厄介だ。
ここに「邪魔者は消せ」の論理が働いても不思議ではない。
黒幕が薩長なら標的は龍馬であり、言い換えれば、龍馬が暗殺目標なら、指令者は革命路線側である。

では、2人がともに標的だったら?
今までの論から矛盾するが、体制反逆者を誅する単純な思想犯・確信犯の行為であろうか。
しかし、現代に例えて言う過激右翼や赤軍派(ちょっと古いですが(^。^))と同じ系列であれば犯行声明があるはずだが、それはない。
となると、上からの指令なしでの有志連中の行為とは思えない。
特に統制力の強い新撰組などの有志輩とは考えがたい。
やはりどちらかが真の標的で他が巻き添えを食ったと考えるのが妥当である。

新撰組はシロ
あれだけの百戦錬磨の新撰組が、これはと思われる物証(原田左之助の鞘・料亭の下駄)などを忘れ残すわけがない。
むしろ他の者が細工したと考えた方が素直ではないか。
先述のように会津侯が指令するはずがなく、近藤勇も大目付の永井尚志を通じて後藤象二郎に何度か会い、その人柄や主張に惚れ込んでいる。
その理論的支柱である龍馬を殺るわけがない。のちに官軍に降伏した時、永井に対しはっきり否定している。
近藤の人間性から見て信じてよいのではないか。にもかかわらず、谷干城が終生新撰組説に固執したのはなぜか。この点が気にかかる。

見廻組説
見廻組の今井信郎の自白によるモノ。官による正式な取り調べとして唯一のモノ。
そのため、見廻組説がほぼ定説として今日に及んでいる。しかし、この自白調書には矛盾点が多々ある。
上部機関が暗殺命令を出すわけがないのは新撰組の場合と同様。
組頭佐々木唯三郎の単独意思での警察行為であるならば、抵抗もないのに抜き打ちするわけもなく、かりにやむなく斬ったとしても、堂々とその旨発表してもおかしくない。
今井の自白によると佐々木の指揮で、全部で7名、実行犯は渡辺吉太郎はか2名で、自身は階下で見張り役だったと述べている。
しかも後年「甲斐新聞」「近畿評論」に自分が斬ったとの主役の如き記事に現れ、谷干城の怒りを買っている。
また、同じ見廻組だったと言う渡辺篤なる人物が、犯行を「遺言」として残している。
今井と渡辺双方の言い分を見ると登場人物の数や姓名が異なっている上、今井の自白には肝心の渡辺篤の名がない。
その他、今井は「松代藩士」の名刺を使用したとも証言しているが、藩士名は伝わっていない。
(中岡の証言は十津川郷士)さらに、今井は「才谷先生お久しぶり」と声をかけて龍馬を確認して斬ったなどとものちに述べている。
見張り役だったはずがどうしてそんなことがわかるのか。

別の角度からの検証
大政奉還がなされた同時点に討幕の密勅が薩長に下っている。これで薩長連合の武力革命路線にも弾みがついたのである。
ところが、薩摩は平和革命路線が主流の土佐とも盟約を結んでいる。(土佐を敵に回したくなかったのではないか。)
これに対し長州(特に桂)は薩摩の二股膏薬的行為と思ったのではなかろうか。
「王政復古の大号令」までの両路線の主導権争いは熾烈を極める。
双方の注目の的は「坂本龍馬」の存在である。一方は有力な援軍、一方にとっては大変な邪魔者である。
当の龍馬はそんなことにはお構いなく、将来の日本を夢みて飛び回っていた......
桂は西郷へ龍馬の処置を相談し、岩倉は中岡を使って説得を試みようとかんがえる。
西郷は処理にあぐね、結局は大久保に相談し一任する。

大久保と伊東甲子太郎
大久保は中村半次郎(後の桐野利秋)を通じて伊東を知っていた。
伊東はその頃新撰組から分かれて、孝明天皇御陵の衛士を拝命、同志十数人と高台寺党を名乗っており、いずれは勤王派の旗頭を望んでいた。
一党一派を率いるには資金が必要である。
伊東派の中に薩摩出身の富山弥兵衛なる者がいて、この仲介で薩摩との接触、縁が出来ていた。
大久保は伊東を伊東は薩摩を相互利用せんとの合意は自ずと出来上がる。
大久保は伊東に「龍馬を革命側に説得すること。説得できないまでも、12月上旬には京に居ないよう仕向けること。成功の暁には政治資金を与える。」と述べている。
「不可能な場合は」との伊東の問いかけに対しての答えはわかっていないが、こう答えたのではないか。
「貴殿は弁も立つが腕も利く。配下には強者がそろっているとか。」と。

伊東の行動
事件の2日前、伊東は龍馬を訪問し説得を試みたが失敗、そこで新撰組に狙われているから京を離れることを勧告したが、これも一笑に付されている。
(田中光顕の記述)

高台寺党の犯行
新撰組に容疑を着せる刀の鞘・料亭の下駄を残しきたうえ、新撰組のモノと自ら買ってでる。
こんな仕掛けが出来るのは伊東一派以外ありえない。このことが、近藤たちの怒りを買うことになる。
2日後新撰組により伊東一派の多くが殺された。残った者たちは薩摩屋敷に逃げ、のちに官軍として戦っている。
なぜか、後に伊東はどんな理由からか従五位に叙されている。

事件直後(12月5日付)、西郷は蓑田伝兵衛宛次の手紙を送っている。
「今回のこと土佐にとっては不幸中の大幸なり」

筋書きは桂小五郎、黒幕は大久保利通、下手人は伊東甲子太郎一派か?

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