<反魂香>(第一回) 明治32年2月11日発行
慶応から維新にかけて、勤王の士が随分出ました、其時に土州藩の浪人が、国を脱走して遂に二つの隊を作り、之を海援隊陸援隊と名を付たのは諸君御承知でしやう。其二つの隊長と云ふは海援隊に坂本龍馬、陸援隊に石川誠之助の両人で、専心海軍の創立に心を注いで居りました、此龍馬の伝に就ては既に『汗血千里駒』『坂本龍馬』などの題の下に詳細に述てありますから、今僕が乳臭い身で、禿筆を振り廻して喋々するのは烏滸の限りですが、少し耳新しい話を当時の事情に悉しいある人から聞いたのと、『汗血千里駒』の伝中で、不審の所、早く云へは先づ嘘の処を、二つ三つほんの走り書きに書いたのですから文章は何うでも、只其事実を見ると思つて、諸君が他日維新の青史をひもとく時の、参考として読んでもらいたいのです。

坂本龍馬は、天保六年十月十五日(ママ)、土佐国高知市本町一丁目で生れました。父の名は聞き洩しましたが、『汗血千里駒』には長兵衛とあります。母はおさじといつて、同書にはお幸とありますが、著者の間違ひでしやう。或る夜の事で、父は馬、母は龍の夢を見て奇異の思ひをして居ましたが、其月から母は懐孕して生れたのが龍馬です、龍馬の名も其夢に基いたので其時に母が、<家の風吹き起すべき武士の 名は雲井にも龍の夢とや>と詠れて、此子は必ず家の名を揚るに違ひ無いと云はれたそうですが、果して後世屈指の勤王家と呼ばれて、京都東山の墳墓に、今も吊客の絶へ無いそうです。此龍馬には生れた時から、脊に生毛が生へて居たそうで、『千里駒』にもありますが、それは嘘で無いです、現に僕の知り人で見た人があるのですもの。

彼の有名な伏見騒動は、慶応二年正月二十三日の七ツ時に起つたのです、船宿は寺田屋といつて、同書(千里駒)には瀬戸屋とありますが、あれも著者の聞き違ひで、僕は何う云ふ所から瀬戸屋と聞いたのか不思議でならないのです。
お良と云ふのは初めからの名で無いので、お春と名乗つて居たのです、寺田屋騒動後、改めて、お良と呼びました。それからお良は、龍馬が寺田屋に宿込んだ時、見染めて夫婦に成つたとありますが、あれも何かの間違ひて、お良は大仏騒動のあつた時、龍馬にもらはれて、龍馬がお良を寺田屋へ預けたのです。
(此妻となるに就ては、面白き話あれど、充分に聞き置かざりし故、再調の上詳記すべし。)

龍馬、三好(ママ)、大里の三人が寺田屋へ、正月十九日の夕方宿込んだ事を新撰組の奴等が聞き込んで、押し寄せてきたと、訳も無く同書には書いてありますか、寺田屋の女将お登勢と云ふのが、男優の勤皇家で、海援隊の為めに秘密の階子、秘密の坐敷なぞを造てあつて、中々家内の者にすら知られる様なブマな事は仕無いのです。なぜ、知られ無い様にするかと云ふと、此寺田屋へは、新撰組の奴等が絶えず出入りして、居るからです。彼の剛勇の聞へある近藤勇も、お良が姿色には心を動したと見えて、櫛を買つてきたり、簪を調つてやつたりして、専ら歓心を買ふとして居たのですが、後で坂本の妻と聞いた時に、成程道理で強情な奴だと思つたと、言つたそうです。

同書に。
当夜お良は、所天の身に怪我過ちのあらざる様にと、神に念じ仏に祈り、独り心を痛めしが、やがて龍馬は一方を切り抜け、遁去りしと、新撰組の者等が噂するを聴き、わずかは安心したれども、今宵の内に一目逢ひて、久後の事など聞き置かんと、原来女丈夫の精悍しく、提灯照し、甲処乙処と尋廻りし裏河岸伝ひ、思ひがけ無き材木の木陰に鼾の声聞ゆるは、不審の事と、灯をさしつけよくよく見れは龍馬なるにぞお良は喜び。と書いてありますが、それも著者の聞き違ひか、又は面白く読ません為の作事か、何にしろ新撰組の者どもは、お良を坂本の思ひ者と知つて居ますから、欺かれて表二階から蹈込んだ時は、既にお良は坂本に刺客の押し寄せた事を知らせて其傍に居たのです。いくら、どさくさの場合でも、敵は既に支度をして居たのですから、お良も傍に居るし、無論内通したと気付かぬ者があるものですか。それに三人が逃けたのですから、お良を捕へるは当然です、自分の身も険呑ですから、いくら所天を思ふとは云へ、又一目逢つて聞き度いとは云え、提灯を照して探しに行かれるものですか。当夜お良は幸に少しの隙をうかがひ、裏の切り戸から横町へ飛び出して、薩摩屋敷へ逃げ込んだのです。其時はもう夜がほんのりと明けて、二番鶏が声哀れに鳴き渡つたそうです。

同書には、夕方とありますが、度々ながらあれも聞違ひの様で、前にも云つた通り、七ッ時でしたか、しかし七ッ時に、湯に這入る者があるものかと不審に思ふ人もあるでしやうが、寺田屋の女将お登勢は、女中に先き立つて、自分か動き、夜もをそく迄起きて、時には徹夜する事もあるので、娘分のお良も、三人はきて居るし、新撰組の奴等はきて居るし、従て徹夜する事もあるのです、ですから、七ッ頃湯に這入つて居たとて、决して怪むに足ら無いのです。

慶応三年八月十六日、長崎元博多町のコゾネと云ふ質屋の奥坐敷で、お良の父奈良崎将作(実名なり)と、自分の父母の霊を祭りました、其時の歌に、奈良崎将作に逢ひし夢見て。

面影の見えつる君が言の葉を かしくに祭る今日の尊さ 父母の霊を祭りて かぞいろの魂やきませと古里の 雲井の空を仰く今日哉

嗚呼之の魂祭りが龍馬存生中の最後の手向けでした。同年十一月十五日、京都河原町近江屋新助の下宿で、三十三歳の月を見納めに、遂に帰らぬ客となりました。京都東山に遊ぶ人は、必ず龍馬(中岡、僕藤吉)の墳墓に一掬の涙を注くでしやう、僕は残念な事には、京都へは未だ足を入れた事が無いので、墳墓の様子は知りませんが、向つて左が中岡で、真中が龍馬、右が僕の藤吉の墓だそうです、門の前の白梅紅梅は、寺田屋のお登勢が植へたので、燈籠は高松太郎外八九名の寄附、墓の前の榊は、お良が手向けの為めに植え付けたのです。

龍馬等三人を殺害したのは、近藤勇だと人も云ひ、書にもありますが、実はそうで無いです。其殺害した奴の名は、三村久太郎(ママ)と云つて、此奴が会津紀州を往来して居たので、殺したは此奴ですが、殺さした奴は外にあるので、名は知つて居ますが、此稿へ書き入れ度いですけれど、あまり公に言ふと、飛んでも無い人迄引張り出されますから、僕は名だけは云ひません、そのかわり一寸天機だけは洩らして置きましやう。

備後鞍の沖で、海援隊のいろは丸と、紀州藩の明光丸とが衝突して、それが為めに、いろは丸は沈没し、龍馬は中島信行を代理として談判の結果、遂に八万五千両の償金を、紀州藩から取つた事は、諸君御承知でしやう。(『千里駒』には沈没せし船の名も無く、償金は十余万両とあり。)で、それも暗殺の原因の、幾部分かをしめて居るので、もう一つ明かに云へは、龍馬は全く飼犬に手をかまれたのです。

若し誌友諸君の内で、海援隊の事績、又は此暗殺の原因が、聞きたければ、破屋ながら、僕の宅へ尋て来給へ、何も御愛想は無いが、渋茶位は入れるから。



|| ||