続「反魂香」(第五回) 明治33年2月15日発行
徳利の狙撃

寺田屋騒動から、お良は薩摩屋敷へ逃込むで龍馬、三好、西郷等と、淀川から船で、下の関に着き、龍馬は三好を長州へ送り届けて、出帆しましたが、丁度玄界灘へ船がさしかかつた時の事です、此夜は一天晴れ渡つて、波間に大魚の躍ると見る蓬島、中島、三五の月の薄青く、浪に砕ける面白さに、三人は甲板へ出て、酒盛を初めましたが、やがて龍馬が唯酒ばかり呑むで居ても面白くない、何が肴しやうではないかと言ひ出しましたので、一同は賛成して、偖何をやらうと、首傾けた末、いよいよ徳利を狙撃して、負た者が、大盃を引受る事と、決った処へ、新宮が声高らかに
お前玄界わしや中の島
年にー度は逢の島
…………ヨイトサ
と、船謡を唄ひながら、右手に、凡五合もはいらうかと思ふ程の、大盃を持つて、やア俺も仲間入りをするぞと、坐り込みました、やツ宜い処へきた、さあ始めやうと、支度に取かかつて居る処へ、船頭がきて、どうか短銃だけは止めて下さい、元来此奴が、短銃の音が嫌ひと見えて、泣くやうに頼みましたが、龍馬は一言の下に叱りつけ、さあ始めやうと、一つの徳利を、海の中へ投げ込みました、徳利は浪のまにまに、浮いたり沈むだりするを、籖で相手を定めて先づ最初に龍馬が、狙を定めて一発轟然、打ち放しますと、美事徳利はニつに破れて、其侭沈むでゆく様子、さあ今度は新宮の番だ、負けるな、確固りやれと、例の大声で、西郷がはやし立てる、一同が手を打って喜ぶ内に、新宮は、及腰になつて、左手で徳利を投込み、狙を定めて、引金を引くと、弾丸は外れて、水深く、沈むでゆきました、やツ如何だ新宮、自分の刀で、自分の寐首を掻くのかと、西郷も意地の悪い、新宮が持ってきた盃へ、波々と酌いで、さあ約束だ呑め、と突きつけられ流石の新宮も少し弱つた風で、今一度やり直しときたが、ゆるさない、とうとう呑まされて、躍起となり、さあ来い、誰でも来いと、相手えらばす、競争しましたが、立つづけに三度迄、お良に敗られて、流石に盃を執りかね、ほうほうの躰で下へ逃降りました。
これは唯つまらぬ事と、僕も始の内は聞いて居りましたが、実はかうやって遊びにかこつけ、短銃の練習をしたのださうです。


名刺と短銃

既に以前同志の復に、陸奥が短銃を持つたまま、裏の垣根の処に立つて居たと、書きましたが、今更に他の者から、聞く処に依れば、其日は同志が無理に連れて行った処、不思誠に元気づいて、どっと鯨声をあげた時にいの一番に切り込みました、……は宜いが屋敷へ飛込むが否や、名刺と短銃を投出したまま亦いの一番に遁出したとやら、いづれにしても、臭い話ながら、これは其時に切り込むだ同志の古老で、今現に、神奈川在に、情ない哉、浮世を忍ぶ按摩と身をやつした人が直接に、僕の親父と兄に、話した事実で、後に此人が、陸奥に蓬ひに行った処、言を左右に托して、逢はなかつたとやら、咄。


土佐の読者に檄す

僕は横須賀の在に居るので、三百里もある、土佐へ、古跡亦は事実を調べに行かれませむが、高知に住居せらるる諸君は、読書の余暇、維新時代勤王家の歴史、亦は其子孫縁者に就いて、人の知らぬ事実を調べたら、面白い有益な話があるであらうと、思ふのです、で僕がどうかして、調べ上げて綴りたいと思ふのは、彼の屋根山で死んだニ十三士の事跡で、既に一冊となって世に新しい事が出たものがあるとは云へ、未だ調べたら、沢山あらうと思ふのです、それは只に僕一人の満足では無く、一般歴史家の好材料となるのですから、余計な事ながら、紙面を汚して、土佐の読者諸君に檄する所以です。


遺物

真正なお良夫人ならば、何か遺物があるであらうと、横槍を入れる人もありますが、実の処、何もありませむ、といふのは、彼の寺田屋騒動及大仏騒動の折に、大半はうぱはれて仕舞って、後に親子が落魄した時に、或る曲者が、お人よしのお貞を胡麻化して、巻上げて仕舞ました、後に残ったといふは、ほんの龍馬の短冊か、刺客に殺された時に、防いだ刀のつばか、写真位ゐなものでそれも今は事情あって、手元にはありませむ、で亦諸方から、何か紀念の為めに、書いて呉れと、由込むできますが、可成的、断って居りますから、後から申込む諸君へ一寸御断り申して置きます、(曲者とは今現に、名古屋の某銀行の頭取にて、名も知れど、云はず、いづれ痛棒を喰はす所存なり)


ひとまづ

第二回の稿も、此稿で結を告げましたから、ひとまづ筆を措く事としました、がまだまだ材料は、充分ある見込みで、今現に執筆中のもありますから、更に改題して、写真を加へ(現今のお良夫人は、今回を以て初めて、写真したるなれば是おそらく、天下の絶品ならむ)諸君に御紹介しませう。

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