<反魂香>(第五回) 明治32年7月15日発行
利秋お良の寝室を襲ふ

 お良がまだ寺田屋に居た時分ですが、或日の夕方、桐野利秋が(其頃村上伴左衛門と偽名す)大山実次郎等と共に、江戸から来て、寺田屋へ泊込みました。薩摩隼人の事とて、気が荒く、恐ろしさうですから大勢の女中は居ても、誰も酌に出る者が無いので、利秋はー杯機嫌の勢ひで、腹立まぎれに皿鉢を投げ出す乱暴に、お登勢も持て余して居ます処へ、お良が他処から帰つてきて、訳を聞き、それなら妾が静めて来ませうと、元来男優りの女ですから、づかづかとニ階へ上つて、利秋の傍へ坐り、物も言はずに前にあつた盃を取り上げ、手酌で五六杯続け様に、呑み乾して、無言で利秋の前へ突き出しましたから、流石の利秋も吃驚しました、見ると十九か廿歳ばかりの美人が(お良はニ十四歳の折龍馬に嫁したるなれど、容色の美しき為め若く見えたるなり)恨めしさうに、自分の顔を見て、不意に盃を差されたのですから、先んずれば人を制すとやら、利秋は気を呑まれて、呆然として居ますと、お良はやがてロを開き、貴君一つお召りなさい、暴れたつて仕様が無いじやありませむか、つまりは貴君の器量を下げるばかりですよ、今夜は妾がお相手を致しますから、充分召上つて下さいと、恐るる色もなく夜更け迄、人も呑み自分を呑むで、利秋等が酔ひ倒れて居る隙を窺ひ、そっと勝手へ下りて、跡仕舞の手伝ひなぞして、己れの部屋で寝て居ますと、夜中になって襖の外に人の居る様子ですから、何事かと気をつけて居ますと、突然、這入って来た人を見ると利秋です、お良を捉へてこら貴様は今夜は乃公の寝室へ来て寝ろと、恐い顔をして、おどしかけると、お良はせせら笑ひ、戯談言つちや不可ませむよ、寺田屋のお春ですよ、宿場女郎とは違ひますからねへ、人を見て法を説いて下さいと、きつばり云ひ放って捉へられた手を振り放すはずみに、寝る間も肌身はなさず持って居た短刀が落ちました、利秋は目早やく見附けて奪ひ取り、こら貴様は女のくせに短刀なぞを、持って居るは怪しいぞ、よくよく取調べる件があるから、乃公とー所に来いと、お良を引立てて己れの部屋へ連れて来て、大山を起し、利秋が、こらお春、貴様は何う言ふ訳で短刀なぞを持って居るか、女に刀は入らないものだ、察する処、貴様は伏見の廻し者だな、最前の挙動と云ひ、我々を見ても恐れぬ所なぞは、何うも怪しい、かくさずと申立ていと、恰も法官が罪人に対するやうに、睨みつけますと、お良も負けぬ気で、女には短刀は入らない者ですか、妾は伏見の廻し者ではありませむが、その短刀は今夜の様な暴れ者が妾の部屋へでも浮れ込むと困りますから、そんな奴がきたら叩き斬つて仕舞ふと思って持って居たのです、怪しくば何処へなりと、突き出して下さいと、利秋の顔を睨みつけると、利秋は言込められて、一言も無く、顔を赤くして居ました、すると大山が、君一寸その刀を見せ給へと、受取つて見て居りましたが、そつと利秋の袖を引いて、君戯談しちやあ不可ないぜ、ありあ土州の坂本の妻だ、君も僕も顔を知らないから無理は無いが、僕は此短刀に見覚えがある、此短刀は坂本の差し料で、越前国弘の作だ、之れをかくし妻があってその者に渡してあると聞いて居たが、かくし妻は此女だぜ、君飛むだ事をしたなあ、と云ひましたから、利秋は吃驚して、色々わぴ入り、翌日お良を中の島へつれてゆき、御馳走をして、何うか昨晩の事は坂本氏へ内証にして下さいと、ほふほふの躰で薩摩へ帰つたそうです。


お登勢の貞操

お登勢は大津の米商某の娘で、二十歳の時に寺田屋伊肋へ嫁したのです、八九年の間は夫婦中も睦まじく、専心家業を励むで居ましたが、夫の伊助は子が出来たりすると、長年連れ添って居る女房が鼻について、少し小金の廻る処から、妻や子のなげきもかへり見ず、世帯じみた女房は見るも厭と、仇な祇園町の君香と云ふ芸者に浮れて、金が無くなると帳場からつかみ出し、折角お登勢が稼いで貯めて置けば、右から左と持ち出すので、お登勢は時々身を投げかけて諌めても、迷ひの雲は晴れやらず、遂には家へも寄りつかず、料理屋先きから金を取りに来る仕末に、お登勢は、袖の乾くひまもなく独り冷たい空閨を守って、身の不幸を歎いて居ましたが、夫につらく当られても、いったん嫁した家なれば、此処を死場と覚悟を仕て、大勢の女中と共に家業を励む傍ら八人の子(長男伊助、次男伊之肋、三男伊三郎、長女お力、次女おやす、三女おきぬ四女おとき、五女おかぬ、)を養育して居ましたが、その内伊助は病にかかりました、お登勢は今迄つらく当られたにも拘らず、甲斐々々しく介抱して、一日も早く全快するやう、神に祈って居ましたが、遂に其甲斐なく死去した時には、前後不覚に泣き倒れました、が子供や女中に援けられて漸く家政を執る様になり、緑の黒髪を根から切って、一生後家で暮しました、明治五年六月に没して墓は伏見にあるそうです。


周作の娘さの子

千葉周作の娘さの子は、親に似ぬ淫奔女であったそうです、肩揚の跡のまだ鮮やかな時分から門弟の誰彼に心を寄せて、附文をしたりあたりに人の居ない時は、年の若い優男を捉へてロ説いたり、いやもう箸にも棒にもかからぬ女でそれがまた美人なれば、師匠の眼をかすめても、時に或は花陰に眠る者もあるでせうが、悪女の深情けとやらで、我侭で、腕力が強くて、それで嫉妬深いものですから、皆が逃げて廻って居ました。所が龍馬が周作の門弟になった時、早速附文をされたので、龍馬も呆れ返って、成るだけ顔を合せない様にして居ました、後に同志の人が集った時に、いやもう私は天下に恐るる敵は無いが、彼女には閉口したと、頭を掻いて、苦笑したさうです。
『千里の駒』には光子といふ周作の娘が、非常の美人で、龍馬が想を懸けた様に、書いてありますが、あれは此さの子の事ではないかと思ふのです、それなれば余程事実が相違して居ますが、光子と云ふは周作の娘で、此さの子は別人か、亦はさの子が周作の娘で光子が別人か、御存じの方は教へて下さい。


近藤お登勢を縛す

寺田屋は伏見の中心にあるので、大阪から来るも、江戸から来るも、此家を宿として置けば、至極都合が宜いものですから、新撰組の奴等は如何かして定宿にしたいと、人を以て色々頼み入れましたが、元々敵ですからお登勢は頑として承知しませむ、もう此上は腕にかけずぱ承知すまいと、或日手下の木ツ葉共が、寺田屋へ踏み込むで、お登勢を縛し、近藤土方等の前へ引きすえました賺したり、おどしたりして頼みましたが、お登勢はいつかな聞き入れず、殺されても厭だと、目を眠つて覚悟の躰ですから、流石の近藤も持てあまして居る処へ、お良が馳せ込むで、色々と詫をして、結局泊る事は出来ないが、休息位ゐならと云ふ事になって、引き取りました、ですから新撰組の奴等は絶えず同家に出入して居たのです。

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