犯人=土薩連合説
<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>宮川助五郎ほか陸援隊士5名、佐土原脱藩士3名から成る「土佐・薩摩人連合刺客団」もしくは、宮川の代わりに中村半次郎が参加。
<動機>反坂本派の機運を背景として、親徳川的行動をとった龍馬を裏切り者として抹殺した。
<根拠>
宮川助五郎に疑惑
「神山左多衛雑記」
宮川は前年の9月12日、三条制札事件で新撰組に捕らえられ、以後、京の六角獄舎に呻吟の身となっていたが、当慶応3年11月15日(龍馬殉難の日)に釈放され、直ちに土佐藩邸の牢屋に収容せられていたからである。

この記述を読めば、宮川は無関係となる。がしかし...

「鳥取藩慶応丁卯筆記」(口語訳にて記載)
8・9人の乱入は確かに誰ともわからない、しかしながら、土佐藩邸に収容していた宮川金之助という者、先年三条大橋の制札を夜中外し、新撰組に捕らえられた者で、恐らくは右殺害人(龍馬殺害人)は宮川らが行ったとも伝え聞く、(このことは)絶対口外しては成らない。  11月23日挙記

この宮川金之助とは「宮川助五郎」のことか。
また、宮川ら(原文は宮川の徒)とは三条制札事件に行動を共にした「本川・豊永・松嶋・岡山・前嶋」らを指すのか。
ともあれ、宮川にも疑惑がもたれる。

宮川助五郎「墓碑銘の謎」ー墓は2つあるー
京都霊山墓地「源朝臣宮川長春霊」(「写真事始め」 宇高随生著)四条河原町上がる東側、土佐藩出入りの書店「菊屋」の倅峰吉が明治初年、東京へ出てきた時顔馴染みの宮川の死に遇い、彼が酒乱から同志にも見捨てられその遺骨の引取人がなかったので峰吉自らが京へ持ち帰り、霊山の志士墓地に埋骨し墓石も建てた...
(背面)
明治3年3月、東京で病死

はたして宮川はそのような惨めな最期だったのだろうか。
戊辰戦争では軍監として活躍した志士が.....

東京泉岳寺「宮川助五郎君之墓」(碑文ー大意ー)
宮川助五郎長春君は高知藩士で、かつて新撰組と死闘したが、これも国事尽力のためである。明治元年6月、俵十口を賜り官軍の軍曹に任じられて越後に出陣、戦功により禄五十石を賜り軍監に昇進した。次いで同2年3月、函館へ出陣する日に急病にて死亡した。享年26歳。泉岳寺の赤穂浪士の眠る同じ墓地に葬られる。

死亡年に「ずれ」が。.....
「通説」
明治2年夏、北海道五稜郭の戦いに参加して戦功を立てながら、酒癖が悪く、友人からも見放されて翌3年3月に病死した。

中村半次郎に疑惑 「京在日記 利秋」と「佐々木多門の密書」
「京在日記 利秋」(慶応3年10月6日)
土藩士、松嶋和介、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山禎六、前嶋吉平、此者共儀昨年9月13日ヨリ故有テ御屋敷エ召入被置候へ共、此度亦故有御暇被下候事。今日ヨリ十津川ノ方エ超シ候事

すなわち、慶応2年9月13日に藩邸へ召し入れ置かれた、と記述してある。
慶応2年9月12日夜には「三条大橋制札事件」が起きている。あの時新撰組と戦い脱出した宮川一派5名が1年余りも薩摩藩邸にて保護されている事がわかる。

「海援隊士・佐々木多門の密書ー幕府の大旗本・松平主税の家臣岡又蔵あて」
右ノ外、才谷殺害人、姓名迄相分リ、是ニ付キ薩摩ノ所置等、種々愉快ノ義コレアリ、何レ後便書取申上グベキト存ジ奉リ候。

ここで、「薩摩藩説」が浮上する。誰が黒幕か?

<西郷吉之助> 
当時は本国にあり、三千の精鋭を統率して鹿児島を出発したのは11月13日、事件当日には船の中。
<大久保利通>
西郷より一足早く出国、11月13日には高知入りし後藤らと密談、14日には大坂藩邸に到着、15日夕に入京。事件当夜は在京していたとしても、性急に「龍馬暗殺を当夜に」と指令できえたかは微妙。
<吉井幸輔・小松帯刀>
早くから龍馬の援護者であり、思想的にも共鳴している人物であるから、龍馬暗殺に関与するはずはない。

ここで必然的に浮上するのは「人斬り半次郎」こと桐野利秋である。
薩摩の兵学師範たる信州上田藩出身の赤松小三郎を、大西郷の忠告に逆らってまで殺してしまうほどの型破りな人物である半次郎なら、たとえ薩長連合の功労者たる龍馬でもその親徳川的行動を取り上げ、裏切り者として抹殺しかねまい。
しかし、この場合も半次郎に事を決断させた背景には、国の内外に陰々たる反坂本派の龍馬排除の気運が高まっていたことを見逃しては成らない。
「いずれは誰かが殺る!」と機を見るに敏な半次郎はまさに素早くこの時流に乗じたものと推察される。

土佐・薩摩人連合刺客団
宮川助五郎は幕府の手から救出されたとはいえ、事件当日は土佐藩邸内の牢屋に入れられ、近日、脱藩罪により本国へ送還と決定していた。

<山内家史料>
「宮川助五郎義、京都ヨリ勤事差控ヲ以テ大坂ニ差下ダサルニ出奔ヲ致シ家督断絶」とあるが、脱走の月日は不詳である。

もし仮に宮川の脱走が11月15日夜だったとしたら....、もっと突っ込んで薩・土両藩合意のもとに、わざとその脱獄を黙認したというのなら、ここにおいて「土佐・薩摩人連合刺客団」が誕生する。 
ちなみに当時の土佐藩は「藩士ニ気相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論ノ徒ノミ論ヲ建テ、今一途ノ後藤象二郎用意周旋ノ徒ハ右暴論ノ徒ヲ鎮メ居候由 (中略)右梅太郎(龍馬)ト尚又今一手トハ忽チ不和ヲ生ジ、殆ド殺伐ノ次第ニ及バン」との危機にあることを<鳥取藩記録>は語っている。

下手人は半次郎か、助五郎か
「京在日記 利秋」によれば、本川ら5名は慶応3年10月6日、薩邸を出て十津川へ翌11月初めに帰京、全員白川邸の陸援隊に加盟している。
武力討幕を旗印にして、「龍馬打倒」を叫ぶ、あの陸援隊にである。
ここで彼らを説得させて刺客団に加えるためにはもうひとつ詰め手が必要である。
それは彼らが首領と仰ぐ宮川助五郎を助け出して合体させ、恩を売ることである。

中村半次郎は藩の諜報担当者として特に土佐藩の小目付谷守部や毛利恭助らと親密であった。
このことは「京在日記利秋」にしばしば両名と中村屋や噲噲堂へ遊興に出掛けていたことを記述している。

さらに「鳥取藩慶応丁卯筆記」に龍馬暗殺現場の遺留品の焼印入り下駄が「先斗町の瓢亭」(定説)でなく、祇園の「中村屋」と「カイカイ堂」のものであり、かつ、両者とも土佐藩ひいきの料亭であるため、「同藩士の趣も計り難き様子に相聞え吟味中の由」と記述されている。

(推論)
11月15日、土佐藩邸吏に引き渡された宮川は護送されて河原町の藩邸内牢屋に入れられたのだが、そこに待ち受けていたのが、薩摩藩中村半次郎と本川ら5名の陸援隊士であった。

かくて土州人宮川以下6名、他に、佐土原脱藩士を含む薩州人3名、(「尾張藩雑記」に登場)合計9名の刺客団は結成された。この場合宮川は獄舎生活で体力が消耗しているため、中村自身が加わった可能性もある。

宮川急死の謎
泉岳寺の碑文へもどる。出陣の当日に急死した原因をたんに「病ヲ以テ」では、いささか疑惑が残る。
「龍馬暗殺は味方の尊攘派である」という噂が拡大することをおそれた討幕派では、その根拠の一つが土佐の宮川助五郎であるらしいことを察知し、彼の抹殺を図った、とは考えられないだろうか。
すなわち、武力討幕派が宮川の抹殺を図ったとすれば「明治2年3月、函館へ出陣の日に急死」では後世に毒殺死の疑惑をもたれるため、「明治3年3月、同志からも見放され大酒におぼれて健康を害し、ついに病死した」と記録に書き留めたのであろうと推定する。

暗殺犯は土・薩連合か?

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