「維新の残夢」(第三回) 明治33年7月15日
忠勇隊の末路

会津の襲撃に、京都で敗れた忠勇隊は、はふはふの躰で、一先づ招賢閣へ這入りましたが、未だ憤怨の情は消えもやらず、甚○かして今一度せめては肥後守の曲り鼻でも打ツ挫いて遣り度いものと、それからは密々に、同志の輩を狩り集めて、日々戦争の訓練をして居ました。小隊司令には田所左右助、半隊司令に、平安佐輔で、後に田所が死去しましたから(此田所が死去に就ては、一条の面白き逸話あれど、書立てなば大宮人の、よしなき事に腹痛むるおそれあれば、暫く作者の腹中に秘め置かむ)平安が其跡を襲ふて、勢殆ど以前に変らぬ位になりました。
処が幕府からは、長藩に対して、厳しい談判それは京都の襲撃の事で、筋を立てて罪を謝すか但しは討手を差向けやうかといふ、ぎりぎり決着の、手づめですから、長藩の俗論は定まりませむ、時には内乱をも起さむ有様、一時は非常な騒ぎでした。
同年の暮に至りて、彼の五卿(三条公其他)方が山口を発して、長府に赴かれましたから忠勇隊の中で、土州藩の浪人組は、同所の高松寺に、守衛して居りました、其内に俗論は益々急激になつて、従って穏かならぬ形勢ですから、五卿も捨てては置けませむ、で仲裁として、西三条、井に四条の両卿が、吉田まで出張して、万事円く治まるやうにと交渉中に、早や残余の忠勇隊等は、長藩が、福原越後其他数名に、謝罪の印として、割腹させたのを非常に怒り、戦端を開いて居ますので、此方は根が日蔭の身ですから其侭空しく引返しました。
やがて内乱も甚○やら一時治りましたので五卿方は、吻と太息吐く間も無く幕府から右の方々を、九州の諸大名、薩藩外四ケ国へお預けといふ事になりましたので、今直ぐ当所を出発して、九州へ渡っても、身躰には別条なきや否やを、確めなければなりませむ、で誰か彼かと、選むだ末、愈中岡慎太郎が小倉へ独行して、万事西郷隆盛に面会の上、依頼して置かうと、定まりましたから中岡は旅の用意を為て、浪人組の外は、何か用があるからとばかり、飄然小倉に向ひました。
其頃には未だ、九州の諸大名は、幕府ともつかず、勤王ともつかず、むやむやの内に旗色の好い方へといふ有様で、今若し五卿方が、先方へ渡った処で、密に幕府から殺って呉れろと、依頼でも為てあったら、それこそ終世の一大事です、而しお預けとなつたので、行かぬといふ訳にはゆきませむ、で幸ひ西郷が小倉に居ますから、彼人に頼むで置いたなら、間違ひはあるまいと、さてこそ中岡が単身談判に出掛けたのですが、西郷とても、おいそれと、直に二つ返辞で、預るといふ訳にはゆきませむ、といふのは、右の如き次第で西郷自身にすら、諸大名の腹が分りませむから、今五卿を預るは、油を抱いて火にのぞむやうなもので、余程腹の中に、さあ来い、罪は俺が引受けて遣る、愚図々々言へぱ、国守を相手取つて、一戦争して遣らうと、いふ位ゐの決心がなければ、不可ないので、流石は中岡、早くも見抜いて居ますから、西郷と談判の末、甚○しても厭と、首を横に振ったら最後、刺違へて死むでやらうと、出る時から死ぬ覚悟で、両刀の外に一振りの九寸五分を内懐ろに深く呑みの、腕にゆりをかけて、日ならず小倉へ着しました。
元来小倉は敵の領分、其処に居る西郷は、早く言へは味方の嫌な敵役、右を見ても左を見ても、いづれ刃を交へて呉れる敵ばかり、其中を怖れ気もなく、こけおどしに突立てた大身の槍に、素町人の胆冷やさす番兵殿が、蚤取眼にうかがつて居る前を、澄したもので、ずツと通抜けの、案内に連れられて、十畳敷ばかりの客間に、欠伸三つ噛み殺す折りから、西郷はでツぷり肥った身躰を悠然と坐蒲団の上に下して、先づ気候の不順から、久闊の挨拶四方山の話の末に、中岡は五卿の身の上を頼み入れました。処が西郷は眼を眠って暫く考へて居る様子に、中岡は早や内懐ろへ手を差入れて、返答に依っては、唯一突きと眼中は血走つて、佶と相手の顔を睨むだ形相、殺気は満面に溢れて居るので、西郷も去る者、早くも見て取って、暫時は思案の首傾けた末、宜しい引受けたといふ。むむそれでは引受けて下さるか、難有いと、九寸五分を投げ出して、貴公が厭と仰せあれば、此通り此奴に物言はせる覚悟と、果ては大笑ひの、やがては廻る盃の数を重ねて、時勢を論じてはロ角泡を飛ばし、至尊を思ひ奉っては、勇士断腸の袖を絞る、西郷と中岡の会見、其時の光景は到底秀峰の禿筆には、説き尽されぬ位でしたと。
愈彼の地へ渡つても、差支へないと、中岡が五卿に復命しましたから、元治二年の春三月満帆に暖風を孕ませて、筑前黒崎に到着、日ならず小倉の、西郷邸へ這入りました、で五卿の身に、思ひ置く事ないを見定めて、忠勇隊の浪人組は、一先づ辞して京都に帰り、海援隊に編入して、夢にも会津の曲り鼻、畜生今に見て居ろと、益々勇気を振って居りました。


順海丸(海援隊の持船)

其年に海援隊では、薩州の大夫小松帯刀の名義を以て、長崎のヲールス商会から、帆前船を一艘買入れました、然し代金は三千両で、それを大坂で渡す事と定め、船長を白峯俊馬、乗込員に野村達太郎、高松太郎等が、水兵を指揮して、商会からは、松尾豊作を代金受取人に、乗込ませて、大坂へ廻航しましたが、坂本龍馬、陸奥要之助の両人が、小松に迫り金を出して貰つて、愈受渡しが済みました。で更めて、平安佐輔を船長に、大極丸を順海丸と改めて、諸万へ航海して居りましたが、慶応三年十一月、大坂商会から、十津川にある材木を、紀州の神宮に廻送して呉れるやう、頼むで来ましたので、それぞれの用意を調へ、早々に出帆しやうといふ処へ、京都からの早打急報、彼の河原町の珍事で、龍馬中岡の変死と聞いて、一同は気も抜けるぱかり、足を早めて京都へ馳つけました。
やがて東山に、葬つて仕舞ひまして、平安は大坂に帰り、何の道紀州へ行かなければなりませむから、船を兵庫に廻し、既に出帆といふ時に成って、片岡源馬(片岡侍従)が便船を神宮迄求めましたから、訳を聞くと此度鷲尾殿が、大和の十津川に行かれるに就いて、我は神宮から、十津川に出でて、鷲尾殿に合躰すといふ、で同処を出帆して、神宮へ参りました、此処で片岡に別れて、松が浦から、材木を数百本積込み、十二月廿八日の夕方伊豆の大島をさして、出帆しましたが、遂に伊豆の下田近辺で、沈没の非運に出逢ひました。
二十八日、此日は天気が少しくあやしいので一時は見合さうかとも思ひましたが、夕方になって、風も穏に、波も高からず、誠に好都合と来ましたから、出帆の用意をして、水兵共が謡ひ出す船唄に、磯の苫屋の名残を留めて、船足ゆるやかに、波を切つて進みました、凡十里余りも来たかと思ふ頃、空には薄墨の様な雲を漲らして、やがては西南の風が、初めはゆるやかに、遂には夜刃の様なうなりを発して、ビュービューと檣に当る凄さ、それツと手早く帆を下して、マルス壱枚を風に任せ、浪のまにまに漂って居りましたが、夜明になって四方を見ますと、遠州御前崎まで吹き流されて居りました、で海上に漂ふこと凡二十時間、夕方になつて風も凪ぎましたから、今度は伊豆の下田港に向けて、満帆を張り、進むで行くと七八里の処で、其夜十時頃、急に天候が変って了ひ、電光激雨、加へて西南の暴風が、木葉の様な船を、揺上げ揺下し、ややもすれば、激浪の裡に、人も船も葬むり終らむ勢ひ、こりや耐らぬと帆を下して、亦もマルス壱枚で、凌いで居りましたが、それも中程から吹抜かれて、今は風と浪のまにまに漂ふ中、小頭の鈴木勇助が、船長々々山が見えました、山がと驚喜のさけび声に、それ廻せと漸くの事に船を其方へ進めて夜明方に、漸く伊豆の浜辺に、碇を下しますと、甚○したのか、二つ共切れて、浪の勢ひで岩の間に船が喰ひ込みましたから、見る見る汐が涌込む始末、一同は辛くも上陸して、吻と息を吐きました。

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