「維新の残夢」(第一回) 明治33年3月15日発行
一力の豪遊

大仏騒動以前、お良が末だ扇岩に居た時分の事です、龍馬が江戸の勝安房を訪問するに就いて、長の道中、何時また逢ふやら蓬はぬやら、と洒落れても居られまい、甚○だお別れに一杯遣らうぢやないかと、言ひ出したので、酒と聞いては、目の無い管野角兵衛、いの一番に賛成すると、我もと望月亀弥太が早や支度に取りかかつて、ありし荒武士の姿はどこへやら、縞の単衣に紺の前垂、顔は恐ろしいが姿は優しい手代風ですから、こりや面白い、それぢや各々姿を変へやうと、龍馬は易者、管野は大家の番頭風、お良を白面緑髪の若衆姿にして、こつそりと、祇園の一力へあがりました。
お定まりの仲居が出て挨拶をする、料理の注文を聞く、惣花をまく、酒が出る肴を運ぶ盃を飛ばす、箸をひねる、やがては大きい白首と小さい白首とが、唄ひ出す躍りだす、角さんの隠し芸、亀さんの追分節、龍さん迄が胴魔声を張上げて、お前百迄わしや九十九まで、共に天下の……と浮れ出す大乱痴気、お良は何処迄も男の風姿をして居ました。
とも知らず、下には新撰組の者等が、あまり騒しいものですから、若しやという懸念でづかずかと店先へ来り、主婦を捉へて、こらをい、甚○したむだ、二階が騒しいぢやないかありや何者だと、頭から怒鳴つけました、処が此家の主婦といふは、一通りやニ通りで喰へる女ぢやないので、元々龍馬や管野なぞは知合の、且つ勤王家といふ事も知って居ますから、平気な顔でありや貴夫、五条の薬屋さんですよ、怪しい者ぢやありませんむ、手前共は、失礼ながら臭い客をあげるやうな料理屋ぢやありませむよ、嘘と思召すならば、あがって見て御覧なさい、御遠慮なくと、澄したもので、吸つけの煙草の煙を、ぷうツと輪に吹く面魂、新撰組の奴等、つひに巻れて了ったと見えて、別にあがつて咎めもせず、其侭残惜しさうに二階を睨みあげて、さつさと立去りました。
やがて主婦がニ階へ上って来て、龍馬を襖の蔭へ呼び出し、只今これこれでしたと、話しましたので、龍馬も底気味悪く思ひ、彼等は執念深い奴斗りだから、今は立去つても、屹度様子を窺って居るに相違ない、長居は無用跡を頼むと、四人はさうさう裏ロから往来へ出ましたが、丁度木屋町の手前迄来ると、向ふから、夜鳴蕎麦がきましたので、此処迄来れば大丈夫だらう、寒いから一杯喰つて行かうと、呼留めて、喰ひ初めました、すると蕎麦屋奴、何を思ったか、四人の姿を、眤と熟視めて居りますから、お互に戒め合って、油断せず、ロを動かしながら、フト蕎麦屋の懐を見ると、十手の房が、二寸ばかり出て居ますので、さては此奴がと、心で黙頭いで、銭を払ふが否や、物をも言はず、傍に寄るよと見る刹那、ズドンと一発、錬へ上げた鉄拳で、横腹の三枚目を、力に任せて、突上げましたのですから、不意を喰った蕎麦屋は、うむッと一声大地にたうと打倒れる奴を、見向もせず、四人は駈足で逃出しました。
処が如何したのか、四人ともちりぢりばらばらでお良は独り木屋町の外れまできますと、何処とも無く、もしもしと呼ぶ声が聞えました。


もしもし屋

はてなと立止つて、四方を見廻しましたが、別に人の居る様子もなし、不思議に思ひながら、亦歩み出すと、もしもし烏渡と亦呼び留めましたので、思はず声のする方を見返りますと、右手の、「もしもし屋」の窓から、女が手招きして居ました。
此もしもし屋といふのは、今で云へぱ遊女屋のやうなもので、二間の間ロに一尺四方位ゐな窓が開けてあって、遊君は跡にも先にもたった一人、それが窓の内に坐って居て、前を通る者を呼び留めては、果敢なき夢の手枕に、暫しの情を売るのです、お良はそれと気付いて、内心可笑しく思ひながら、一番担いでやらうと、其侭相談を決めて、奥へ這入り酒肴を取寄せて呑初ました。
何がさて、美人のお良ですから、男に化けても、矢張り美少年です、遊女は流れ身の、初会から憎からず思ひ初めて、待遇振りの大方ならずでした、酒も尽き肴も喰ひちらして、いざお床と言ふ段になると、お良は突然立上つて、俺は帰ると、襖へ手をかけましたから、いや遊君驚くまい事か、顔を真赤にして慄へ声で、後から縋りついて、串戯ぢやありませむ、余りです、それぢやお情ない、薄情といふものですと、ぼろぼろ涙を溢す可愛さ、可笑しいやら、可愛想やら、気の毒やらで、お良は化の皮を現し、姉さん堪忍して頂戴、妾や女ですよ、悪い気で担いだむぢやないからね、と何程かの鳥目を、白紙に包むで、投出しましたから、遊君は二度吃驚、まあ・・・・と呆れて、開いたロが塞がらぬ内に、左様ならと、腹を抱へて大仏へ帰りました。


高松象山を逐ふ

勝安房は徳川方の大立者、其亦緑につながる佐久間象山は有名なる学者、彼んな奴を向ふに立てて居ては、此方の思ふ様にはならないと中にも高松太郎が耐り兼ねて、或夜象山が勝邸から、出て来るを待伏て居りました。
とも知らぬ象山は、悠然と栗毛の馬に、泡吹かせて、門番に送られながら、五六間此方へ来た油断を見澄し、突然駒の前へ、仁王立に両手を拡げて、待つたと呼ひ留めましたから象山もギヨツとして、駒を留めた隙を窺ひやつと抜打に斬付けるやつを、閃りと身をかはして、馬に一鞭、躍上って遁出しますから己れ遁して耐るものかと、尚も迫打に斬下した切先が外れて、馬の尾を斬落しますと、之れに驚いて馬は、遮にむに主を乗せたまま何処ともなく遁うせまし
た。


貞操人に屈せず

お登勢(寺田屋の主婦)の貞操は前の『反魂香』にも既に書き記しましたが今更に其一節を述べませうか。
お登勢の夫の弟に、太兵衛といふ者が、道具屋を営むで居りました、処が日頃此登勢に想をかけて、何時か当ってやらうと、考へて居ましたが、未だ兄の伊兵衛も存命で居るし、商売柄に似合はぬ固い女ですから、空しく腕を拱むで時節の来るのを待って居ました。
処へ伊兵衛が死亡したものですから、其の機失ふべからすと、何とか名をつけては、寺田屋へ出入して折々は袖を曳く、振られる、尚も曳く、はねつけられる、ひつツこく曳く、怒られる、逼る、恥を掻く、犬と言はれ、猫と罵られて、大の男が何時も辱められる斗りですから、内心むやむやして、畜生ツ、今夜こそはと、或夜人の寐静った頃を窺ひ、亦もこりずに挑みましたので、遂にはお登勢も堪忍袋の緒が切れて、執られた手を振り放つが否や、兼て用意の短刀を、逆手に握って、眼を怒らせ、さあ太兵衛さん、妾にも荒神様がついて居ますから、美事手に入るものなら入れて御覧、今度は用捨をしませむぞと、怒髪衝天の形相恐しく罵ったものですから、太兵衛奴慄上って、頭を抱へたまま襖の外へ遁出しました。


英雄酒を好む

お良女に聞くと、龍馬の酒量は、量り兼ねると云ます、慶応三年の春でした同志の人々と京都から、伏見帰つて来る途中、何うだ冷酒を一杯づつ、呑つて行かうと、傍の居酒屋へ這入り込むで、凡一升五合も這入らうかと思ふ程の大きな丼へ浪々と酌がせ、さあ之れを一息に呑み乾すのだといふ、よからうと、例の角さん、真先に進み出て、先登第一、一番首をしてやらうと、両手振ってぐうと呑み初めましたが、此冷酒といふものは、一升程になると、一息では呑めないさうで、流石の角さんも、耐らなくなって、ホツと一息、丼を見ると未だ半分斗り残って居ますから、残り惜さうに次へ廻すと、中岡慎太郎は七分迄平安佐輔は八分迄、独り龍馬は一息に一升五合を呑み乾して、息を吐く事虹の如しでした。

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「維新の残夢」(第二回) 明治33年5月15日発行
忠勇隊

当時の勤王家に、最も悪まれて居たのは、会津肥後守でした、何がさて、末流濁つた徳川と気脈を通じて、頭には中川の宮を奉じ、京都市中を我物顔に、勤王臭い者と見れば、用捨なく引立てて、片ツ端から斬り尽す傍若無人、有志は密に悲憤の涙を払って、時節の来るのを、待構へて居りました。
処で彼の陸援隊の領袖、中岡光次(中岡慎太郎亦石川誠之助と称す)は未だ海陸の両援隊が組織されぬ以前、時は文久二年春三月、己が文武の師と頼む郡衛学館(土佐国安芸郡田野に在り)の奥座敷へ、島村寿之肋、田所惣次、平安佐輔等を招き、時勢を論じて、さて各々方は何と思はれるかは知らぬが、僕は断然国を脱走して、江戸へ行き、坂本等と共に、大に勤王の端緒を開かふと思ふ、君方御同意とあれば、翌日にも手を携へて、出立せう、甚○でムる各々と言はれては誰も異議を唱ふる者がありませむ、宜しい御同意でムる、早速に罷らうといふ、そこで愈、肉親の父母兄弟にさへ己が志を告げず、ほんの物見遊山といふ躰に作って、集って行っては露見の元と、或は二人、或は三人と、三々五々姿を変へ、身をやつして、落ちつく場所は讃州琴平の高知屋と定め、結ぶ草鞋の分れ道、菅の小笠に、人目を包むで、日ならず同処へ集まった時は、同勢凡五十余人と数へられました。(田所惣次は事情あって、国に留まりぬ) 其処で亦、須崎の人で山田三蔵、植村の人で植村運平の両人も加はりましたから、志気益昂なりで、四五日の後出発して亦も別れ別れに、江戸へ着し、直に築地の土州屋敷へ、這入りましたが、甚○も長屋が少なくて、五十余人の人数を入れて置く事が、出来ませむから、龍馬、中岡、平安、島村等相談の上、其頃日比谷の屋敷に居た岡崎哲馬、門田為之助の両人に頼み、それぞれ住居を定めました。
間も無く土佐藩で、汽船を買入れ、其航海術修業として、坂本、中岡、平安等、修業生申付けられましたから、丁度勝安房が軍艦奉行を命ぜられて、千屋虎之助、望月亀弥太、高松太郎等を引連れ、大坂市淡路町の善照寺に、航海術の塾を開いて、教授して居るを幸ひに之れに投じて、専心事業を励むで居りました。しかし同志は、絶えず京都の動静に注目して密に腕を撫でて居ましたが文久三年七月、神戸生田村に塾を新築して一同之に引移る間も無く、北副詰麿(詰麿といふは可笑しけれど、字義不明の為め仮に)等が、会津の暴逆に耐へ兼ね、いでや三尺の秋水を味はして、日頃の恨みを晴して呉れむと、密に同志と謀を回す由、報ずる者がありましたので、早速望月亀弥太、千屋虎之肋、平安佐輔の三名が、京都へ出て、三条上る柳の馬場へ、一軒の家屋を借り、表面は右三名の躰に造へてはありますが、実は既に志を通じて、北副初め能勢達太郎安岡勘馬なぞが出入して、長藩からは、野村和作(野村靖)等絶えず一室深く額を鳩めて、会津退治策を講じて居りました、がどうも会津方の用心厳しい為め容易に肥後守を討取る事が出来ませむ、却って此方を覗ふ様子に、亦も木屋町へ転宿して、日夜苦心しましたが、之といふ名案も出でず、其内に大和戦争の敗兵、池内蔵太が、遁れて来ましたので、暫く留置き、尚も敵情を探りましたが、事遂に成らず、三名は空しく神戸へ立帰りました。
元治元年と、年号が改つてからは、京都の動静益々急に、頃日勝氏の門下に浪士数多潜み居る由、速に討取るべしと、肥後守が命じたといふ事を、早くも聞知つた同志は、我々の身躰は兎も角、先生に御迷惑をかけてはと覚悟を極めて、塾を辞し、或は兵庫に、或は神戸に、各々隠れ潜むで、天下の潮流をうかがって居りました。
処が恰も好し、兼て二派に分れて居た長藩の俗論が、愈一決して、魁の血祭りに、会津肥後守の曲り首を、槍の切尖に晒して遣らうと剣を磨き槍を絞り、大龍呑雲の勢を以て、先隊には日下真端初め、佐々木男也、寺島忠三郎、之れに将として、浪士組は真木和泉守総大将となり、七月九日長州屋敷で点呼しました十日の払暁、轟然打出す出発の号砲、さらさらと面を撫でる朝風に、飄然ひるがへる幾流の旗には、墨黒々と記された忠勇隊の文字!やがて同勢は、淀船で山崎迄来ました、平安石田高松は、測量隊を受持ちましたが、之と思ふ程の器具がありませむから、兼て勝の塾に備付けてあった(土州藩買受物品)セキスタント並に図引道具を貰ひ受けて来ようと、平安は単身、姿を変へて、神戸に下り、勝に面会して、京都の情態、忠勇隊の決心等包まず打明けた上、右の器具を依頼すると、勝は暫く目を眠って、考へて居られましたがやがて、白地無紋の筒袖を取り出して、之れは私の引出物ぢや、甚○か之を着て、討死して呉れよと、横を向いて、ホロリト涙一滴、平安も感に打たれて、男泣きに泣いて居りましたが、勝は亦口を開き、平安お前が天王山(忠勇隊の逗地)へ帰へつたらのう、日下、真木等に、伝言して呉れ、事の善悪勝敗は天に任せ、一日も早く事を成せよと、能いか、言ふ事は、それだけぢや、早く帰ったら好からうと、物品を渡して呉れましたから、平安は後ろ髪を引かるる思ひで、漸く天王山へ立帰りまして、此事を両人に告げますと、両人は唯天を仰いで、嘆息するのみでした。
物品も出来ましたから、平安等は日々測量の傍ら、野戦砲を兼ねて居ます、砲は十二ポンドのボードホーイッスル式で、散弾は用ひるのです、指揮役は池内蔵太、照準役は平安佐輔、引き役は黒岩直方、玉薬持は楠本文吉、小川粂三郎等で、元治元年七月十九日、天龍寺出張所からは来島又兵衛、天王寺からは日下寺島等、八幡に会して、愈々今夜京都へ討入りと、手筈を充分に定めて、各々用意をして居ました。
十時を打つ時計の響、それツと同勢は隊を組むで、暫くは剣を収め旗を巻き武田街道を桂川に出でて、京都六条に這入りました頃は、東天既に桂紅を呈して、敵味方を識別し得る時です、早や気の早い来島の一手は、敵を砲撃して居る様子それ後れなツと、後隊は疾足して、丸太町へ差しかかりました時に、越前の兵が隊を立てて通行するに逢ひましたが当の敵では無し、無礼あつてはと腰を屈めて御免なされと、礼を施し、静に前を通り過ぎて、鷹司殿の裏門から今や中へ這入らうとすると、越前並に其他の兵から、不意に背後を襲ふ急激の砲撃、さては汝ッと、盛り返して、応戦暫く宇宙を煙に包むで居ましたが、果しなしと、門を閉ぢて、跡は御勝手にお攻めなされと、背後の敵には見向きもやらず、本門の方へ大砲二門を廻し、砲ロを境町の方へ向けて、待居るとは知らぬ、会津方は剣をそろへて、今しも前を通る隙を窺ひ、一度にドッと打出す大小砲、不意の狙撃に遁場を失って、斃るる者、十七名と記されました、此時に一の大砲指揮役伊藤芳蔵は、大砲の弾丸に命中つて、即坐に落命。
それからは唯、門外門内の小ぜりあひで、暫時戦って居ましたが、敵には思はぬ加勢があり殊に新手を引更へて来るので、到底勝の見込はないと、日下真瑞、寺島忠三郎は、君公に申訳けなし、我々は此処で割腹すべければ各々心置なく、落ちのび玉へと、殿の奥に香を焚いて、静かに往生して了ひました、頭立つ者が之れですから、最早や戦った処が、徒らに人員を傷くる斗りと、一先づ切抜け策に論が定つて、槍の柄の長いのは、悉く切捨て刀は鞘を捨てて、用意を整へ、再び門外へ斬て出まして、縦横無尽に斬立て薙立て、合言葉をかけながら、丸太町迄遁げて来ますと、亦茲で出会つた井伊の常備兵、最う死物狂ひですから、無茶苦茶に斬立て打ち出し、二条河原を六条から、武田街道へ来ますと、福原越後の会津兵に、横合から、砲撃せられ、亦々桂川の方へ遁出しました、此時に入江九一、柳井健二等数名討死、其死骸を肩にかけて、桂村から天王山に引篭り、更に亦山崎街道を西の宮の方へ落ちゆきました。
やがて追々残兵が集まりましたが、多くは行方知れず、僅かに三十名余りで船で神戸から長州へ落ち延び、家人佐瀬八十郎の案内で一先づ招賢閣へ落つきました。

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「維新の残夢」(第三回) 明治33年7月15日
忠勇隊の末路

会津の襲撃に、京都で敗れた忠勇隊は、はふはふの躰で、一先づ招賢閣へ這入りましたが、未だ憤怨の情は消えもやらず、甚○かして今一度せめては肥後守の曲り鼻でも打ツ挫いて遣り度いものと、それからは密々に、同志の輩を狩り集めて、日々戦争の訓練をして居ました。小隊司令には田所左右助、半隊司令に、平安佐輔で、後に田所が死去しましたから(此田所が死去に就ては、一条の面白き逸話あれど、書立てなば大宮人の、よしなき事に腹痛むるおそれあれば、暫く作者の腹中に秘め置かむ)平安が其跡を襲ふて、勢殆ど以前に変らぬ位になりました。
処が幕府からは、長藩に対して、厳しい談判それは京都の襲撃の事で、筋を立てて罪を謝すか但しは討手を差向けやうかといふ、ぎりぎり決着の、手づめですから、長藩の俗論は定まりませむ、時には内乱をも起さむ有様、一時は非常な騒ぎでした。
同年の暮に至りて、彼の五卿(三条公其他)方が山口を発して、長府に赴かれましたから忠勇隊の中で、土州藩の浪人組は、同所の高松寺に、守衛して居りました、其内に俗論は益々急激になつて、従って穏かならぬ形勢ですから、五卿も捨てては置けませむ、で仲裁として、西三条、井に四条の両卿が、吉田まで出張して、万事円く治まるやうにと交渉中に、早や残余の忠勇隊等は、長藩が、福原越後其他数名に、謝罪の印として、割腹させたのを非常に怒り、戦端を開いて居ますので、此方は根が日蔭の身ですから其侭空しく引返しました。
やがて内乱も甚○やら一時治りましたので五卿方は、吻と太息吐く間も無く幕府から右の方々を、九州の諸大名、薩藩外四ケ国へお預けといふ事になりましたので、今直ぐ当所を出発して、九州へ渡っても、身躰には別条なきや否やを、確めなければなりませむ、で誰か彼かと、選むだ末、愈中岡慎太郎が小倉へ独行して、万事西郷隆盛に面会の上、依頼して置かうと、定まりましたから中岡は旅の用意を為て、浪人組の外は、何か用があるからとばかり、飄然小倉に向ひました。
其頃には未だ、九州の諸大名は、幕府ともつかず、勤王ともつかず、むやむやの内に旗色の好い方へといふ有様で、今若し五卿方が、先方へ渡った処で、密に幕府から殺って呉れろと、依頼でも為てあったら、それこそ終世の一大事です、而しお預けとなつたので、行かぬといふ訳にはゆきませむ、で幸ひ西郷が小倉に居ますから、彼人に頼むで置いたなら、間違ひはあるまいと、さてこそ中岡が単身談判に出掛けたのですが、西郷とても、おいそれと、直に二つ返辞で、預るといふ訳にはゆきませむ、といふのは、右の如き次第で西郷自身にすら、諸大名の腹が分りませむから、今五卿を預るは、油を抱いて火にのぞむやうなもので、余程腹の中に、さあ来い、罪は俺が引受けて遣る、愚図々々言へぱ、国守を相手取つて、一戦争して遣らうと、いふ位ゐの決心がなければ、不可ないので、流石は中岡、早くも見抜いて居ますから、西郷と談判の末、甚○しても厭と、首を横に振ったら最後、刺違へて死むでやらうと、出る時から死ぬ覚悟で、両刀の外に一振りの九寸五分を内懐ろに深く呑みの、腕にゆりをかけて、日ならず小倉へ着しました。
元来小倉は敵の領分、其処に居る西郷は、早く言へは味方の嫌な敵役、右を見ても左を見ても、いづれ刃を交へて呉れる敵ばかり、其中を怖れ気もなく、こけおどしに突立てた大身の槍に、素町人の胆冷やさす番兵殿が、蚤取眼にうかがつて居る前を、澄したもので、ずツと通抜けの、案内に連れられて、十畳敷ばかりの客間に、欠伸三つ噛み殺す折りから、西郷はでツぷり肥った身躰を悠然と坐蒲団の上に下して、先づ気候の不順から、久闊の挨拶四方山の話の末に、中岡は五卿の身の上を頼み入れました。処が西郷は眼を眠って暫く考へて居る様子に、中岡は早や内懐ろへ手を差入れて、返答に依っては、唯一突きと眼中は血走つて、佶と相手の顔を睨むだ形相、殺気は満面に溢れて居るので、西郷も去る者、早くも見て取って、暫時は思案の首傾けた末、宜しい引受けたといふ。むむそれでは引受けて下さるか、難有いと、九寸五分を投げ出して、貴公が厭と仰せあれば、此通り此奴に物言はせる覚悟と、果ては大笑ひの、やがては廻る盃の数を重ねて、時勢を論じてはロ角泡を飛ばし、至尊を思ひ奉っては、勇士断腸の袖を絞る、西郷と中岡の会見、其時の光景は到底秀峰の禿筆には、説き尽されぬ位でしたと。
愈彼の地へ渡つても、差支へないと、中岡が五卿に復命しましたから、元治二年の春三月満帆に暖風を孕ませて、筑前黒崎に到着、日ならず小倉の、西郷邸へ這入りました、で五卿の身に、思ひ置く事ないを見定めて、忠勇隊の浪人組は、一先づ辞して京都に帰り、海援隊に編入して、夢にも会津の曲り鼻、畜生今に見て居ろと、益々勇気を振って居りました。


順海丸(海援隊の持船)

其年に海援隊では、薩州の大夫小松帯刀の名義を以て、長崎のヲールス商会から、帆前船を一艘買入れました、然し代金は三千両で、それを大坂で渡す事と定め、船長を白峯俊馬、乗込員に野村達太郎、高松太郎等が、水兵を指揮して、商会からは、松尾豊作を代金受取人に、乗込ませて、大坂へ廻航しましたが、坂本龍馬、陸奥要之助の両人が、小松に迫り金を出して貰つて、愈受渡しが済みました。で更めて、平安佐輔を船長に、大極丸を順海丸と改めて、諸万へ航海して居りましたが、慶応三年十一月、大坂商会から、十津川にある材木を、紀州の神宮に廻送して呉れるやう、頼むで来ましたので、それぞれの用意を調へ、早々に出帆しやうといふ処へ、京都からの早打急報、彼の河原町の珍事で、龍馬中岡の変死と聞いて、一同は気も抜けるぱかり、足を早めて京都へ馳つけました。
やがて東山に、葬つて仕舞ひまして、平安は大坂に帰り、何の道紀州へ行かなければなりませむから、船を兵庫に廻し、既に出帆といふ時に成って、片岡源馬(片岡侍従)が便船を神宮迄求めましたから、訳を聞くと此度鷲尾殿が、大和の十津川に行かれるに就いて、我は神宮から、十津川に出でて、鷲尾殿に合躰すといふ、で同処を出帆して、神宮へ参りました、此処で片岡に別れて、松が浦から、材木を数百本積込み、十二月廿八日の夕方伊豆の大島をさして、出帆しましたが、遂に伊豆の下田近辺で、沈没の非運に出逢ひました。
二十八日、此日は天気が少しくあやしいので一時は見合さうかとも思ひましたが、夕方になって、風も穏に、波も高からず、誠に好都合と来ましたから、出帆の用意をして、水兵共が謡ひ出す船唄に、磯の苫屋の名残を留めて、船足ゆるやかに、波を切つて進みました、凡十里余りも来たかと思ふ頃、空には薄墨の様な雲を漲らして、やがては西南の風が、初めはゆるやかに、遂には夜刃の様なうなりを発して、ビュービューと檣に当る凄さ、それツと手早く帆を下して、マルス壱枚を風に任せ、浪のまにまに漂って居りましたが、夜明になって四方を見ますと、遠州御前崎まで吹き流されて居りました、で海上に漂ふこと凡二十時間、夕方になつて風も凪ぎましたから、今度は伊豆の下田港に向けて、満帆を張り、進むで行くと七八里の処で、其夜十時頃、急に天候が変って了ひ、電光激雨、加へて西南の暴風が、木葉の様な船を、揺上げ揺下し、ややもすれば、激浪の裡に、人も船も葬むり終らむ勢ひ、こりや耐らぬと帆を下して、亦もマルス壱枚で、凌いで居りましたが、それも中程から吹抜かれて、今は風と浪のまにまに漂ふ中、小頭の鈴木勇助が、船長々々山が見えました、山がと驚喜のさけび声に、それ廻せと漸くの事に船を其方へ進めて夜明方に、漸く伊豆の浜辺に、碇を下しますと、甚○したのか、二つ共切れて、浪の勢ひで岩の間に船が喰ひ込みましたから、見る見る汐が涌込む始末、一同は辛くも上陸して、吻と息を吐きました。

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