<反魂香>(第二回) 明治32年4月20日発行
‘大仏騒動及び内祝言’

大仏騒動は、元治元年六月五日の朝方に、起つたのです。その始を尋ねますと彼の大和の戦争に敗れました義兵が、京都大仏南の門今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて、表札に『水口加藤の家人住所』と記して、暫く世の有様を窺つて居りました、その隠居処へ出入する人の名をあげますと、才谷梅太郎(坂本龍馬)、中岡慎太郎(石川誠之助)、元山七郎(未詳)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(貞吉)、管野覚兵衛(ママ)(千屋寅之助)、池倉太(ママ)(未詳)、平安佐輔(安岡忠綱)、山本甚馬(ママ)(未詳)、吉井玄蕃、早瀬某、等で、此時分には、未だ海援隊を編成しなかつたのです。会津の奴等は絶へず眼を八方に配つて、浪人の詮議がきびしいものですから、右の人々は安閑と、大仏に居る訳には、ゆきませむ。で一寸来てはすぐ処をかへて仕舞ふので隠居処は、山本甚馬が年寄りですから台所を受持つて居りましたが、何うも男世帯は思ふ様にゆかず、且つ山本とても安楽な身ではありませむから、時々家を明けるのでそれでは誠に不都合だから、年寄りで誰か一人気の利いた女を、留守居に頼みたいと、一同が思つて居りました。

ここに、彼のお良の母お貞は、所天に死別れましたので、少しばかりの家財をまとめ、四条の、うら通りに借家してわびしく暮して居りました。此お貞の知人で、その以前非常に世話をしてやつた、米一のお菊と云ふ後家がありました此女は中々の腕達者で、所天の死後も矢張り大勢の奉公人を使つて、盛んに米商を営んで居ります、でお菊が大仏へ出入して居るものですから、浪人の人人が、留守居の女を一人世話してくれぬかと、頼みましたので、お菊は此事をお貞に相談したのです。お貞も奈良崎将作が妻、勤王の女丈夫ですから、早速承知はしましたが、さて三人の子の仕末をつけねはならぬので、長女のお良はお菊の世話で、七条新地の扇岩と云ふ旅宿へ手伝方々預け、次男の大一郎は粟田の金蔵寺(親戚)へ預け、末女の君江を自分が連れて大仏へ引き移りました。

ここに又浪人の一人大里長次郎に非常に想を懸けて居る千本屋敷(西の奉行)の目あかしの娘で、お妙といふ女がありました大里の顔が見たいばつかりに、度々大仏へ出入りして、何くれとなくお貞に力を添へて居りましたが、しかし親が目あかしでも、大仏の事は少しも云はず、却つて会津方の秘密を親から探つては浪人に密告して居たので、大里もよき者を捕へたと喜んで居りました。

お貞が大仏へ引き移つて坂本に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しを、したものですから坂本も、気の毒に思つて、それにお良には、一二度会つて、少しは心も動いたものですから、お前の娘を私にくれんか、さすれば、及ばずながら力にもなつてやろうとの言葉に、お貞も娘には遅かれ早かれ所天を持たす故、同じ所天を持たす位なら、坂本の様な人をとお貞も喜びまして、お良に此事を話しますと、厭にはあらぬ稲舟のと云ふ、お定まりの文句で、遂にお良は坂本の妻と定まりましたが、しかし、大仏に置く訳にはゆきませんから、矢張り扇岩へ預けて置ました。すると元治元年六月一日の夕方坂本が扇岩へきてお良に会ひ、さて私も今度江戸の勝(故勝伯)の許へ行かねばならず、少し心急きの用事なれば明朝出立する故、留守中は万事に気をつけよ、と、別れの盃を交しへ、翌朝望月大里の二人に送られて、伏見で東西に別れました、嗚呼之れが望月の為めには最後の別れで、わずか三日のその間に、不帰の客とならうとは、噫。

坂本が二日の朝出立して、その他の浪人は昨日は何処今日は此処と、時を定めず出没して居て、五日の騒動の折りは、元山七郎、望月亀弥太の二人が三条の長門屋と云ふ、長州宿に居ましたので、他は皆近国又は遠国へ行つて居りました。すると早朝会津方が、何処から探り出しましたのか、長門屋へ押し寄せてきた(但し一手は大仏へ、一手は大高某の家へ向ひたり)ので、元山は其場で討死し、望月は一方の血路を開いて、土佐屋敷へ馳せ込みましたが門が固く閉ぢて居て叩いても開けてくれず、会津方は押し迫つて早や三間許の所迄近づきました、望月は這入るには門を閉ぢてあるから這入れず、後は既に敵が迫つてくる、之はぐずぐずして居られぬと又も、馳せ出して長州屋敷へきて見ると、門が開いて居ります、やれ嬉しやと、飛び込まうとする一刹那、敵が突き出した手槍の為めに、腰をしたたかに貫かれ、流石の望月も思はずその場へ倒れましたが、もう之れ迄と、持つたる刀を我と我腹へ突き立てて、あはれ、二十三歳を一期として、悲憤の刃にたふれました。

五日の朝、お良はふと目を醒すと、あまり表が騒しいので、何事が起こつたのかと、衣服更めて門口へ出る出会頭に、お妙が君江を連れてきたのに逢ひました、何うしたのかと訳をきくと、今朝大仏へ会津の奴等が押し寄せてきて、家財道具は悉皆持ち出しお母さんを縛つて千本屋敷へつれて行きましたから、君江さんを貴婦の所へ届けにきましたとの事に、お良はびつくり、お妙と君江とをつれて、大仏へきて見ますと、家中蹈みあらして、槍を以て突きあらした跡ばかりで、流石のお良も只呆然として居ります所へ、何も知らず大里が大仏へ帰つてきましたから、お良は今日の仕末を手短に話し、さてお妙さん、大里さんが此処に居ては大事ですから、貴婦が近路を案内して、伏見迄逃してくださいと、云へばお妙は大喜び、暫しなりと恋しき大里の傍に居たき乙女心に、先に立つて、大里はそのまま伏見へ落ちゆきました。

お良は君江を河原屋の本家へ預け、自分は河原町の大高某の家へ馳せゆきました、此大高と云ふ人も勤王の一人で、身は具足師でありますから、家内に秘密室を設けてあつて、三藩の浪人を潜ませて居たのです。

来て見ると此家へも早や押し寄せたと見へて、主の大高は斬り殺され、三人の子供は途方にくれて泣くばかり、折ふし妻が発狂して笑ふやら泣くやらの有様で、お良は思はず涙を流しましたが、漸く心を取り直して、又大仏へ引返しますと、嬉しや母が帰つて居ますので、訳を聞くと何も知らぬ者とて、放免せられたとの事にともに喜びましたか、さて此処にいつ迄も居るわけにはゆきませんから、一まづ金蔵寺へ引き移りました。

八月一日の夕方坂本が帰つてきました、で金蔵寺の住職智息院が仲人となつて本堂で内祝言をして始めて、新枕幾千代迄もと契りました、が此処にうかうかして居て敵に覚られては互の身の為めに能く無いと云ふので、種々相談の上、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在の勝へ、お良は伏見の寺田屋へ、いづれも預けて仕舞ました。

之れから寺田屋の騒動となつて、お良は龍馬、西郷、小松等と共に薩摩へ下り彼の有名な霧島山へ上るのです。


‘寺田屋騒動の原因’

前の反魂香にも一寸書き記しました通り、寺田屋には、秘密の室、秘密の階子を設けて、海援隊の人々の宿をして居た位で、なかなか家内の者にすら、知られる様な事は仕なかつたのに、何うして刺客が探り出したかと云ふと、之れには一つの原因があるのです。でその原因を記す前に、諸君に御詫をしなければならないわけがあります。それは前の反魂香に、騒動の折りに居合せた浪人の名を、龍馬、三好、大里と記した、即ち此事です。お耻かしいがあれは僕の聞き誤りで、実は坂本龍馬、三好真三、新宮次郎、池倉太の四人でした。『千里の駒』の著者の誤聞を、すつぱ抜く僕が自分から、間違つた事を書いたので、生れて始めて、顔から火が出ました。

偖四人の浪人が、寺田屋へ泊り込んだ日に、新宮次郎は、その以前、長崎で雇ひ入れた、僕の長吉と云ふ奴を解雇しました、此長吉は江戸の廻し者で、うまく海援隊に近づいて、秘密を探らんとして居たので、新宮もうすうす覚つたものですから、少し計りの事を口実にして寺田屋へ来る途中、追払つて四人は泊り込んたのです。

すると長吉が二十日の朝、ひよつくり、寺田屋へきて、お前の家に三好、新宮なぞが泊つて居るだろうと云ふものですから、お登勢も心に、これは大変な奴が舞込むできた、今此奴を帰しては四人の身が浮雲い、長崎からついてきた奴だから、此家へ泊る事は知つて居やう、帰せばきつと密告するに違ひないと、思ひましたから、大勢の女中に言ひふくめて、無理に奥坐敷へ連れ込み、美酒佳肴で引き止め、伏見の女郎を一人頼むで、芸者風に仕立て、色仕掛で帰さぬ様に仕ましたが、長吉とても、四人がきて居る事は知つて居ますから、うかうかして居て逃がしては大変と思ひましたから、止めるも聞かず、とうとう二十二日の夕方、大阪へ行と偽り、其足ですぐ密告したのです。

出る時に、そつと例の女を呼び、お前にも色々世話になつた、乃公も今度少し急ぎの用で大阪迄行つて来るから、いづれ又帰つたら、相応に物も取らせ様があいにく懐中が淋しいから暫く之で我慢をして置けと、金を三両白紙に包んでやつたそうです。


‘附記’

坂本龍馬の伝に就ては、諸君も幾多の書籍、雑誌等で既に御承知でせうから、僕は世人のあまり知らない、海援隊の内幕又は龍馬死後の有様、及び烈婦お良の事跡に就いて例の悉しい人から聞きただし、既に材料も集りましたから、当『文庫』の余白を汚し、巻を追ふて書き記すつもりなのです。が僕の書いたのと世上にある幾多の書籍(龍馬伝)と処々、反対して居るので、どちらが真か虚か、僕は手前味噌ながら自分を信じて居りますが、僕とてもまだ乳の香の失せぬ青二才ですから、充分当時の青史に悉しくは無いのです、只二三冊の書によつて、例の悉しい人から(但し書に無き事跡は此限にあらず)此処はかうだあすこは何うだと教へられた通りに書き記すので、しかし自分でも実だと保証する処もあるのです、元来此悉しい人と云ふのは、全く当時の事情に悉しいので又早く云へば、龍馬とも親しく仕た人ですから、僕の為めには此上も無い活記録です、で此人は外面はあまり悉しくないですけれど、内面は実に悉しいので、従つて僕も内面をのみ悉しく書き記すのです、誌友諸君のうちで、どなたか当時の事情に悉しい人を御存じで、僕の書いた事で嘘又は誤がありましたら御遠慮無く、突込むでください、僕も充分再調して誤があらば訂正しますから。

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