Prev | 1 | 2 | Next

黒幕=薩摩藩説
<標的>龍馬
<実行犯>見廻組(佐々木唯三郎・今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安二郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎)の7名
<動機>討幕派にとっては、龍馬が大政奉還策に動き出した時点ですでに用済みでありこれ以上掻き回される事によって孤立無援になる事を危惧した。
<根拠>
「中岡が標的と仮定すれば」
中岡は大政奉還に奔走した龍馬と違い、強硬な武力討幕論者であった。
そのころ、中岡は陸援隊を率い、来るべき討幕の日に備え、北白川の土佐藩邸で隊士と共に修練に励んでいた。従って、旧幕側は中岡の行動を極度に警戒して身辺を監視しており、すでに陸援隊の内部には新撰組の密偵村山謙吉が潜り込んでいた。
それゆえ、中岡の当日の行動、つまり陸援隊本部から近江屋へ向かう足取りは旧幕側の察知するところと成っていたと見てよい。
もし、標的が中岡だったとするなら、刺客たちは密偵から連絡を受けて中岡を近江屋まで追尾する。そして、頃合いを見計らい、踏み入って首尾よく中岡暗殺に成功した、ということになるであろう。だが、この想定だと、刺客たちは近江屋の屋内構造を知らないし、また中岡がどのような人々と会合しているかも分からなかったはずである。
そんな、場所も不案内で、敵方の陣営も判然としない所へあえて斬り込むというのは、大変な危険が伴う。刺客側の心理を考えたとき、彼らは果たしてそのような危険を冒すであろうか。それよりは、近江屋への往路か復路で要所を選んで待ち伏せし、中岡一人で通りかかったところを襲った方が、よほど暗殺の成功する確率は高いはずである。

(今井信郎の供述)
土州坂本龍馬儀不審ノ筋有之、(中略)当節河原町三条下ル町土州邸向ヒ町家ニ旅宿罷在候ニ付、此度ハ不取逃様捕縛可致。万一、手ニ余リ候得ハ討取候様御差図有之ニ付、一同召連出張可致。ー佐々木唯三郎からの命令ー

中岡のナの字も出てこず、狙いは龍馬であったと断定している。
同日昼八ツ比一同龍馬旅宿ヘ立越候節、(中略)偽言ヲ以在宅有無相探リ候処留守中ノ趣ニ付、一同東山辺逍遥シ.......

初めは、昼間斬り込むつもりだったが、それとなく近江屋に探りを入れたところ、龍馬は不在(これは事実)だったので、東山の辺をぶらついて時間をつぶした、というのである。
今井の供述を読むと、この一節だけがあってもなくてもいいような浮き上がった印象を覚えさせられるが、逆に言えば、枝葉末節を述べずにいられなかったところに、今井の供述の信憑性が表れているとも言える。
このように見てくると、暗殺の標的は、やはり龍馬であった、とみなすのが妥当ではないか。

<見廻組説を裏付ける証言>
事件発生当初、直接実行犯としてもっとも疑われたのは新撰組であった。
近江屋に遺棄された瓢亭の下駄や鞘などの物証が、新撰組と関わりがあると見なされたからである。しかし、余裕を持って龍馬・中岡を暗殺した刺客が犯人探索の手がかりとなる様な物証をわざわざ現場に残して行くものだろうか。
それに、新撰組の犯行であったなら彼らは組織の面子をかけて龍馬を追っていたのだから、誇らしく暗殺成功を喧伝して当然なのに、そのような動きはいっさい新撰組の側に見られなかった。
さらに、ちょうど事件の当夜、新撰組の主なメンバーは先だって分派した伊東甲子太郎を中心とする高台寺党に誅戮を加えるべく、七条醒ケ井の近藤勇の妾宅に集合し、策を練りあっていたともいわれる。
新撰組が直接実行犯であった可能性は薄い。

その新撰組から仇敵視されていた高台寺党をして、直接実行犯とみなす説もある。
とすれば、襲撃の指揮を執ったのは、リーダーの伊東甲子太郎であろう。
だが、伊東一派は龍馬や中岡と面識があった。
斬り込めば、たちまち高台寺党一派と分かったはずなのに、後日まで生きた中岡は一言もその様な証言を残していない。
同様の観点から、刺客達が「もうよい」と、とどめを刺さずに引き上げたというのも高台寺党説を否定しうるものである。

残る有力容疑者としては今井の供述通り、見廻組ではなかろうか。
むろん、この見方を否定する説もある。最も早い時期に見廻組否定説を唱えた人物としては、谷干城がいる。

谷は、凶報に接して真っ先に現場に駆けつけた土佐藩士であり、事の当初から死ぬまで新撰組を直接実行犯と見なしていた。
その谷が見廻組説否定論を打ち出したのは、明治39年(一説に33年)に行った講演「坂本中岡暗殺事件」においてである。
そして、谷の論駁を引き起こしたのは、明治33年京都で発行された「近畿評論」に掲載の「坂本龍馬殺害者」(今井信郎氏実歴談)という記事であった。
谷は、この今井実歴談に少なくとも2つの誤りがあると指摘する。
以下、(今井)(谷)で表記する。

(今井)信州松代藩の者と名乗った。
(谷) 中岡から、刺客は十津川郷士と名乗った。と聞いた。

龍馬の斬り傷について
(今井)最初、横鬢を一つたたいておいて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬りました。<腹>
(谷) もう坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後からやられて背中に袈裟に行って居る。<背中>

しかし、谷が講演で語るところと違う証言も存在する。

(近江屋主人井口新助の証言)
阪(原文のまま)本君ハ常ニ真綿ノ胴着ヲ着シ居ラレタレバ、体部ニ負傷ハナシ。唯ダ脳傷ノ為メニ接ノ後倒レラレタル処ヲ、二刺咽ヲ刺シタリ。
「井口家文書」

その他、谷は刺客が「こなくそ」と叫びながら斬りかかってきたと中岡から聞いたと講演で語っているが、谷より少し遅れて近江屋に駆けつけた田中光顕は中岡の直話として「突然二人の男が二階へ駈け上がってきて、モノも言はず斬った」(田中青山伯追懐録)と言う証言を残している。

さらに、谷が目の仇にした今井実歴談は、今井信郎の直筆ではない。書いたのは、今井の親友で元新撰組隊士結城無二三の長男禮一郎。禮一郎は当時、甲斐新聞の主筆をしており、たまたま無二三を訪ねてきた今井に話を聞く機会があったのでそれを活字にしたのだが、その際、だいぶ脚色を加えた。
そのことは禮一郎も自認しており、子供達に語り残した「お前達のおじい様」の中で、こう述べている。

今井さんから伺った話を其のまま蔵つて置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
この新聞が「近畿評論」に転載され、谷の目に触れることになったわけだが、それゆえ「芝居がかり」のこの今井実歴談を根拠として見廻組説を否定するのはどうか。

さて、次に登場するのが岩崎鏡川である。岩崎は土佐の出身で、両雄暗殺事件の基本資料である「坂本龍馬関係文書」を編述した人物として知られている。

岩崎は諸説を精査・分析し、「坂本と中岡の死」と題する長文を「関係文書」におさめた。その中で岩崎は言う。

「某甲某乙、坂本中岡の下手人と称するもの、新聞雑誌に散見せるもの二三に止まらず と雖も、多くは名聞狂者とも見るべき病的発作者の言にして一も信用あるべきなし」そこで自分もずいぶん迷ったが、刑部省作成なる今井口書を発見し、「是にて万事は解決せり。(略)若し谷子(谷干城)にして、早くこの口書を入手せら れしならんには、恐らく弁駁を費やす迄もなく点頭せられしなぬべし」という確信を得た。
つまり、岩崎鏡川は直接実行犯は見廻組の他にないという最終結論に達したのである。
「坂本と中岡の死」は元新撰組隊士大石鍬次郎が刑部省の取調べに対し、次のような自白をしたということも併記されている。

「兼々勇(近藤)の話に、坂本龍馬討取候ものは、見廻組今井信郎、高橋某等少人数に 而、剛勇之龍馬刺留候儀ハ、感賞可候など、折々酒席に而組頭のもの等へ、噺候を脇 聞いたし候」実行犯のもう一方の有力容疑者近藤勇が見廻組の犯行を認めていたというもの。
大石のこの自白も見過ごしに出来ない。

さらに、旧幕側からも重要な証言がなされている。

今井は後に榎本武揚に従って函館五稜郭まで転戦したが、敗れて官軍に投降した後、東京辰ノ口にある兵部省軍事糺問所の牢に収監された。その折り、今井と同室に繋がれた旧幕歩兵奉行大鳥圭介がその証言者である。

「(今井が刑部省に引き渡されたのは)京都に於て坂本龍馬を殺害した余罪がある為めなり」
大鳥圭介は、「獄中日記」にそう断定的に記している。

以上の状況から勘案すると、龍馬暗殺の直接実行犯が京都見廻組であったことは、まず間違いないのではないだろうか。
とすれば、近江屋に押し入った刺客も、今井口書が述べるように、佐々木唯三郎・今井渡辺吉太郎・高橋安二郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎の7人であった蓋然性がすこぶる高いといわざるをえない。

<黒幕は誰か>
この件については、今井口書は黒幕の存在を想定しつつも、具体的には、「承知不仕」と述べている。
しかし、龍馬が近江屋にアジトを移したのは事件の3日前の事である。当然、この隠れ家移動は極秘裡に行われ、知る人はごく限られていたはずだ。
にもかかわらず今井口書によれば、龍馬の動静は、「二階に罷在」と、ごく細部にわたって見廻組に知らされていた。当然のそこには、龍馬の動向を知っていた黒幕が居たと見なさなければならない

<西郷による今井の助命運動>
討幕派はすでに武力討幕以外に隘路打開の道は無いと腹を決めており、これ以上ハト派の龍馬に引き回されるのは迷惑至極であった。
下手をすれば、自分たちが、政局から浮き上がり、孤立無援の窮地に追い込まれてしまうかもしれないのである。
討幕派が大政奉還後、どれほど自分たちの立場に危機感を抱いていたかは、龍馬の死の2日後、薩長両藩が出兵協定を結んで結束を固め、ついで12月9日小御所会議において強引に王政復古のクーデターを実現させたという事実が証明している。
このことから、討幕派の一部には龍馬は大政奉還策に動き始めた時点でもう御用済み、むしろ厄介者だとみなす風潮が、密かに瀰漫しつつあったのではなかろうか。
そうした観点から討幕派の中に黒幕を求めると、これほどの離れ業を演じきれるのは、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視ラインくらいのものであろう。

今井信郎が刑部省で取り調べを受けたとき、一番熱心に助命運動に乗り出したのが、それまで今井と一面識もないはずの西郷その人である。

凶行の当日、西郷・大久保は討幕陣営を強化するため西国方面にいて京都を留守にしていた。(大久保は当日夕に入京)
だが、黒幕は事件の現場の近くにいる必要はない。逆に、できるだけ離れていた方が黒幕の正体を見破られ無いという利点がある。

黒幕は「薩摩藩」実行犯は京都見廻組か?

|| ||
黒幕=大久保説
<標的>龍馬(中岡は巻き添え)
<黒幕>大久保利通
<根拠>
暗殺命令を下したのが討幕派諸藩のいずれであったのか、諸説はあるが、やはり最も妥当なのは薩摩藩であろう。長州藩の場合は、藩そのものが朝敵となっていて、藩士の入京さえ許されていなかった。自然、京都における討幕派勢力の主導権は薩摩に譲る形になっている。他に土佐藩内の武力討幕派が怪しいと言う説もあるが、その武力討幕を強引に推し進めていた陸援隊隊長・中岡慎太郎が同時に暗殺されているのだ。
中岡殺害が人違いによる誤殺だったとでも考えない限り、この説も成り立たない。
やはり、討幕派の中心勢力である薩摩藩に大きな嫌疑がかけられるのである。
それを裏付けるように、事件直後の12月11日の記録にすでに薩摩が怪しいという風聞が記されている。

<坂本を害候も薩人なるべく候事。>(肥後藩国事史料)
同時代史料にこのように記されているからには、薩摩犯人説は当時から信憑性の高いものであったのだろう。

薩摩には西郷吉之助・大久保利通という二人の指導者がいた。
二人とも徹底した武力討幕論者だったが、実際に龍馬暗殺の司令を出したのはどちらであったのだろうか。

西郷と龍馬との関係は、決して浅くない。元治元年(1864)8月に初対面して以来二人は同志として交遊を重ねてきた。
慶応2年(1866)正月に締結された薩長同盟も、龍馬と西郷の信頼関係の上に成り立ったものであったし、同月、龍馬が寺田屋に幕吏の襲撃を受けた時には、怒った西郷が自らピストルに弾丸を込めて幕吏と一戦交えるといきり立ったと言うほどである。
続いて龍馬とお竜を薩摩に招待し、新婚旅行の世話まで焼いている。
また、西郷に心酔していた龍馬は一時期、「西郷伊三郎」と言う変名を用いていたこともある。
こうした二人の交遊の深さから考えて、たとえ政治情勢が変わったとはいえ、一方が他方を暗殺するなどとは考えられない。仮に意見が対立したとしても、話し合いによって妥協点を見出せない様な二人でもあるまい。それに西郷と言う人物は、涙もろい人情家であることがよく知られている。
とても同志を暗殺などということができるような人柄ではなかった。

とすれば、残るのは大久保である。

この大久保と龍馬の関係を調べてみると、不思議なほど両者の接点は少ない。
とくに大久保側の記録を見ると、「大久保利通日記」・「大久保利通文書」のいずれにも、龍馬の名は暗殺されるまでの間にただの1度も出てこない。
二人の間には付き合いがなかった事を感じさせる。

龍馬側の記録ではどうか。慶応2年12月4日付で、故郷に宛てた龍馬の書簡に

 一、当時天下之人物と云ハ、
 徳川家ニハ大久保一翁、勝安房守。
 越前にてハ三岡八郎、長谷部勘右衛門。
 肥後ニ  横井平八郎。
 薩にて  小松帯刀。是ハ家老にて海軍惣大将なり。
      西郷吉之助。是ハ国内軍事に懸る事国家之進退を預る。
 長州にて 桂小五郎。国家之進退を預る。
      当時木戸寛次郎。
      高松普作。此人ハ軍事ニ預る。此人下の関に出、小倉攻之惣大将
。当時谷潜蔵。
      (「たかすぎしんさく」を「たかまつふさく」とは (~_~メ) )


ここには龍馬の評価による「天下の人物」9人の名が連ねられているが、薩摩においては小松と西郷だけで、大久保の名がない。すでに同年7月27日の桂小五郎宛の龍馬の書簡に「小松、西郷などハ国ニ居申候。大坂の方ハ大久保、岩下がうけ持なり」と言う部分があるので、大久保の存在を龍馬が知らなかったわけではない。
すると、大久保が薩摩の中心人物と言うことを承知しておきながら、あえて「天下の人物」から除いたと言うことになる。これが二人の関係を表しているのではなかろうか。あるいは面識さえなかったのかもしれない。

そうではないとする史料もある「佐土原藩譜」(坂本龍馬全集所収)には、龍馬と大久保に面識があっただけでなく、共に薩長同盟に尽力する姿が描かれている。
しかし、「大久保利通日記」と日付が矛盾しており、信憑性が怪しい。
さらに、西郷隆盛と記してある点も気にかかる。西郷の諱が隆盛となるのは維新後であり、「佐土原藩譜」に「隆盛」と記されているとすれば、同時代の史料としての価値を失っている。

龍馬と大久保の間に交遊がなかったとすれば、邪魔者となった龍馬を排斥するにあたって、大久保には西郷の場合のような心情的な障害は全くないということになる。

大久保の偽装工作?
大久保は自らの書簡によって事件との関連を否定している。16日に岩倉具視から近江屋の凶変を知らされた大久保は、その日から4日間連続して岩倉に書簡を送っている。

(16日付)        
                クダサレ   イカンニタエヌ   ゾンジタテマツリ
坂本中岡異変之儀に付、早々御示諭被為下、実不堪遺憾次第 奉存   候。


(17日付)
        ワザト  オオセツケラレ 
新撰組云々之一条態与尊諭被仰付、委曲拝承仕候。


(18日付)
            モッテガイスベクオシムベキ
石川もなくなり候由、実ニ以可慨可惜   事ニ奉存候。


(19日付)
  ハジ          ソウイナキムネキカレ 
坂本首メ暴殺之事、新撰組ニ無相違向被聞申候。
                   サツセラレ
近日来益暴ヲ働候由、第一近藤勇カ所為ト被察申候。
          ゾンジラレ 
実ニ自滅ヲ招之表カト被存  申候。

龍馬に続いて中岡も死亡したこと、下手人は新撰組らしいと云うことなど、事件関連の情報を事細かに連日書き送っている。これが、偽りのないモノであったなら、もちろん大久保にかけられた嫌疑は晴れる。しかし、この細かさがかえって不自然ではないだろうか。

大久保ほどの冷静な男が、自分と殆ど交流のなかった土佐人の死に対して動揺しすぎているのではないか。何しろ、龍馬は、この時点まで大久保の日記や書簡に一度も出てこない人物なのだ。それがなぜ暗殺と同時に大騒ぎするのか?
とすれば、この四日連続の岩倉あての書簡の意味するモノは、犯行を同志に対してでも隠しておくための偽装工作であったとしか考えられないのである。

「大久保利通」自らの目的達成のためには手段を選ばぬ男。維新後、政敵江藤新平の首を晒し、大義名分の名のもとにには朋友西郷さえ葬り去った男。
武力討幕という自らの信念の前に立ちふさがる「坂本龍馬」という障壁を排除する事などは、彼にとっては当然の事であったのかもしれない。

黒幕は大久保か。

|| ||
総論
「龍馬暗殺再考」と題し以下の通り「各説」を取り上げてきました。

「犯人=渡辺篤説」
「犯人=佐々木唯三郎説」
「犯人=高台寺党説」
「犯人=見廻組説」
「犯人=土薩連合説」
「黒幕=薩摩藩説」
「黒幕=大久保説」
 
<標的>中岡慎太郎 龍馬は巻き添え
<実行犯>京都見廻組 佐々木唯三郎以下6名
<動機>京都の治安維持のため(中岡は浪士の親玉)

<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>見廻組(今井によると7名・渡辺によると7名もしくは6名)
<動機>幕府側にとって龍馬は幕府転覆を謀る暴徒と同じ

<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>見廻組
<動機>薩長同盟のフィクサーとしての、あわせて大政奉還建策者としての龍馬への憤り

<標的>龍馬(中岡は巻き添え)
<実行犯>伊東甲子太郎の配下、富山弥兵衛ほか4、5人
<動機>桂・大久保らにとってはあくまで武力倒幕のためであり、伊東らにとっては勤王派としての独立資金獲得の手段および革命成就後の地位確保のため。

<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>見廻組(佐々木唯三郎・桂早之助・渡辺篤・世良敏郎・渡辺吉太郎・今井信郎・高橋安次郎・桜井大三郎・土肥仲蔵)
<動機>徳川幕府存続の命運を龍馬によって掻き回され、西南雄藩の思うように押し切られることを危惧したため

<標的>龍馬、中岡は巻き添え
<実行犯>宮川助五郎ほか陸援隊士5名、佐土原脱藩士3名から成る「土佐・薩摩人連合刺客団」。もしくは、宮川の代わりに中村半次郎が参加。
<動機>反坂本派の機運を背景として、親徳川的行動をとった龍馬を裏切り者として抹殺した。


『付録』
・佐々木唯三郎:神道精武流
・桂早之助・渡辺篤・世良敏郎:西岡是心流
・渡辺吉太郎・今井信郎:直心影流
・高橋安次郎・桜井大三郎・土肥仲蔵:未詳

龍馬暗殺実行犯とされる桂早之助とは
8・18政変の警備、池田屋事件の浪士召捕方、禁門の変の際には禁裏御所に出動。





|| ||
Prev | 1 | 2 | Next