ボンボン
高杉家の石高は、百五十石である。これがどんなモノかというと、当主の才能と運次第で、家老に準ずる執政官にまで飛躍しうる潜在的な資格がある。要するに、士官・将校の家である。つまり晋作は、「よかとこのボンボン」。
普通、ボンボンは、虚弱体質・温室育ちですが、ご多分に漏れず晋作もその通り。(^^ゞ
この「ボンボン」が「革命児」へ変貌するところが、晋作の魅力。

『高杉晋作は、こういう家にうまれた。こういう家の出身者が、革命家になるというのは長州だけでなく薩摩や土佐でもきわめてまれで、ましてその指導者になったという例は他藩でも絶無に近く、こういう点、高杉晋作の存在はじつに珍奇というほかない。』   
『「高杉さまの坊ちゃまは、甘やかされすぎている」という蔭口が、晋作の少年のころ出入りの連中のあいだでささやかれていた。なにしろ一人息子であるうえに、幼少のころから呼吸器が弱く、わずかなことで風邪をひいたり、熱を出したりした。高杉家にすれば、もしかれをなくしでもすれば相続者をうしなってしまう。そういうあぶなっかしさがあって、つい手きびしい教育を避けた。さらに祖父も祖母も健在で、このひ弱い孫を甘やかすことが多くたとえば同藩の松陰の生い立ちにみられるような叔父玉木文之進による酷烈無残なほどの個人教育は、晋作はうけていない。晋作にとってはそんな家庭教育は想像もできなかったであろう。』
(司馬遼太郎『世に棲む日日』)

ボンボンで、じい様・ばあ様ご健在、一人息子、虚弱体質→温室育ちとくれば当然「ワガママ」になる。

『まだ前髪をつけていたころの正月である。晋作は、門前のせまい路上で、凧をあげていた。凧はしばしば落ちた。その落ちた凧を高杉家へ年賀に来た藩士が、あやまって踏みつぶしてしまったのである。その客は高杉家とほぼ同格の士分の者であった。「やあ、これは」とつぶやいて去ろうとしたとき、晋作は、跳ねあがって怒った。「おじさま、なぜあやまちぬのです」と、甲高く叫んでつめ寄った。その大人は、にやにやしてなおも去ろうとしたが、晋作は追って行って、「土下座せよ。三ツ指をついてあやまれ」とわめいてやまず、そのあまりの雑言に大人はひらきなおり、晋作の無礼をたしなめようとした。晋作はいよいよ猛って、「あやまらぬなら、泥をかけてやる」泥をつかんでいた。その大人は、藩主から拝領した羽織を着ており、毛利家の紋所である一文字三ツ星をつけている。晋作はコブシをあげ、その御紋に泥をかけてやるとわめいているのである。この場合これ以上の戦法はなかった。当の大人にすれば、拝領羽織の御紋に泥をぬられてはどういう罰をうけるかわからない。小面憎いことにこの少年は大人のその弱味をよく知っていた「わかった」 大人は機嫌をとるように笑い、すぐにがい顔にもどって、「しかし、若や、武士たる者がこんなところであやまれない。こっちへおいで」と、晋作をそのあたりのいけがきの内側にさそいこみ、「凧をつぶしてすまんじゃった」といったが、晋作はコブシをふりあげたまま、まだゆるさない。約束どおり土下座をせよ、という。その大人はたまりかね、これでよいか、とその場にすわって三ツ指をついた。「すまんじやった」(大人とはこういうものか)晋作は、その意気地のなさを肚のなかであざわらった。』
(司馬遼太郎『世に棲む日日』)

(ーー;)とまぁ、こんな子が育つわけです。
で、普通は、こんな事が親にばれると「折檻」モンですが、この時は、親父が謝りに行き(ーー;) バア様が晋作の代わりに親父に謝って、「一件落着」。(ーー;)

そうこうしている内に、「黒船」登場。長州藩は江戸湾の警備を任じられる。
親父殿は江戸へ。以後数年は、江戸在住。その間の教育係はジイ様。(ーー;)

その頃、晋作少年は、「常山紀談」が愛読書だったとか。特に、「信長」にご熱心。

そんな息子が心配でしょうがない江戸の親父殿。
「ここは一つ、ボンボンに言っておかねば」と思ったか?
晋作からの手紙の裏面に「気質変化」を講じる。
<別途UPー高杉父子の手紙ー参照して下さい。>

しかし、その後「突然、書を読み出し勉学に励む」様になるのですが、司馬氏は、その原因を玄瑞の存在にあったのでは、と、述べられています。



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