昭和七年
長州で俗論党が勢力を得ている時、
高杉晋作が、危難を避けて筑前に遁れて来て、
暫く野村望東尼の許に匿れていたことがあるそうじゃ。
よほど機鋒雋鋭の人であったらしく、
当時の有志家のうちにも嶄然頭角を抽んでていたようである。
それが文武両道の達人であるとか、
智勇弁力に優れていたとかいうことは別としても、
どこかに超脱したところがあったように思われる。
色々その当時の逸話のようなことも大分聞いていたが、
大概忘れてしもうた。
しかし一つ覚えているのは、
その頃福岡の医者に、よほど豪い奴で、始終有志家などと往来し、
高杉ともなかなか懇意にしていた男があったが、
この男、常に人に語っていうには、
『俺は残念ながらどうしても高杉には敵わない。
それがどういう訳でもないが、
彼奴には押えられるるような気がして、
自然負けるやうになるのは不思議でならぬ』
などといっていたそうだが、
其奴が病気になって、いよいよ助からぬという間際に、
『アァ今の気分であったなら、高杉には負けなかったのだ。
残念なことをした。
しかしあの時分から高杉という男は、
常に死という諦めがチャンとついていたものと見える』
といって感嘆したという話がある。
この医者もなかなか豪いが、それから考えてみても、
高杉という人は、
如何に生死の上に超脱していたかということが窺われる。
それだからあの通り臨機応変の活動が出来たことであろう。
長州で俗論党が勢力を得ている時、
高杉晋作が、危難を避けて筑前に遁れて来て、
暫く野村望東尼の許に匿れていたことがあるそうじゃ。
よほど機鋒雋鋭の人であったらしく、
当時の有志家のうちにも嶄然頭角を抽んでていたようである。
それが文武両道の達人であるとか、
智勇弁力に優れていたとかいうことは別としても、
どこかに超脱したところがあったように思われる。
色々その当時の逸話のようなことも大分聞いていたが、
大概忘れてしもうた。
しかし一つ覚えているのは、
その頃福岡の医者に、よほど豪い奴で、始終有志家などと往来し、
高杉ともなかなか懇意にしていた男があったが、
この男、常に人に語っていうには、
『俺は残念ながらどうしても高杉には敵わない。
それがどういう訳でもないが、
彼奴には押えられるるような気がして、
自然負けるやうになるのは不思議でならぬ』
などといっていたそうだが、
其奴が病気になって、いよいよ助からぬという間際に、
『アァ今の気分であったなら、高杉には負けなかったのだ。
残念なことをした。
しかしあの時分から高杉という男は、
常に死という諦めがチャンとついていたものと見える』
といって感嘆したという話がある。
この医者もなかなか豪いが、それから考えてみても、
高杉という人は、
如何に生死の上に超脱していたかということが窺われる。
それだからあの通り臨機応変の活動が出来たことであろう。
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