「天下第一人」三浦梧楼
「天下第一人」は、雑誌『日本及日本人』の大正5年4月1日号に載せられたモノです。
「天下第一人」の作者ですが、三浦梧楼と云う奇兵隊出身者。


高杉先生の五十年祭? ウムあれは俺れがやり出したのだ。
此の間熱海に出かける前にフイと考えると五十回忌に当るようだ、
暦をくったりして見ると、愈々そうだから
ニ、三の者に話しをしてああいったことをやり出した訳じゃ。
僅かニ十九歳で亡くなられたのであるが、
其の間にやられた仕事を考えて見ると、
到底尋常人に出来ないことを立派に仕遂げておる、
臨機応変、機智縦横、如何なる困難に遭遇しても、
綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられたことは、
何人と雖ども企て及ぶべからざるものがある。
普通世間では単に慷慨悲歌の人、憂国熱誠の士位に考えて、
磊落粗豪を以って事に当ったように其表面許りを見ておる者が多いようであるが、
却々どうして此の裏には強いて思慮分別を煩わさずして、
天才滾々として湧出したることは驚くべきもので、
其事業の跡を見ると
能く其の基礎を固め根柢を作ると云う結果を自然に現わしておる。
しかして其の働きをなすには
縦横の機智と臨機の天才を応用せられたのであるから、
何事も当って迷うことなく、行って遂げざるなしと云う次第である。
先ず俗論紛々として帰著する所を知らざる藩論を一定し、
続いてあの猫額大の地を守って天下の大軍を引受けこれを四境に破り、
遂に薩長聯合の素地を作って維新大業の基礎を堅めたのである。
実にあんな短日月の間にあれ丈の大事を成し遂げた神出鬼没の働きは
ただただ驚嘆するの外はない。
其の最初の企てはあの諸隊の編成にある。
先ず奇兵隊を以って根本とし次いで諸隊を作り従来の階級制度を一掃して、
士であろうが足軽であろうが百姓であろうが、
才気胆力手腕のある者は悉く採用することとした、
これが為めに因循姑息の弊風を刷新して
一藩の士気を鼓舞激励したること多大のものである。
此等が原因となって藩論を動して萩より山口へ藩を移転せる際なども、
家老以下宿屋住居と云うような困難があったに拘らず、
これを断行したと云うのは
畢竟高杉などの主唱に係る一藩の士気を刷新して、
従来の弊習を廓清すると云う根柢的計画に外ならぬのである。
併し其の運動の激烈なりし丈、俗論党の反抗熱を愈々熾んならしめ、
積年の因習に囚われたる事勿れ主義の一派を動かしあらゆる手段を講じて、
遂に俗論党の為めに時の政府を乗取らるるの非運に陥った。
其の結果として、第一次長州征伐の総督たる尾張大納言に向って、
俗論党政府は先ず四家老の首級を捧げて低頭平身謝罪降伏を乞い、
藩公を萩に蟄居せしめ、正義派の主なる連中を片っ端から斬殺する、
高杉なども其の目指されたる主なる一人であった。
斯うなっては、あたら高杉の計画も水泡に帰して、諸隊は解散を命ぜられ、
其の身は親戚に御預けとなり、
日夜の監視寸隙なく危害旦夕を図られざる有様となった。
斯る場合に臨んで機智愈々其の妙を発揮する高杉は、
此の際躊躇すべき時ではない、
先ず身を脱して再挙を図らざる可からずと考えたが、
何が扨て夜間は監視が最も厳重である、遁げるのは昼間に限ると苦心して、
或る朝便所から其儘に草履をはき、手洗所の手拭を頬冠りにして飛び出した。
そうして山口街道に向って走って来た。
すると向うから七、八人の藩士が何やら声高に話しながらやって来るのが見える。
段々近づいて見ると皆な自分の幼少からの友達であるが、
現在俗論党の働き手の面々である、
今これ等に目附かっては百年目と考えたが、
何様一と筋道のどうすることも出来ない、
そこでフイと横を向いて路傍の松の木の側で小便をし出した、
士連は何処の町人か百姓とでも思ったのであろう、
少しも気附かないで矢張り話しながら通り過ぎて了った。
こりゃ此の路を行っておっては、又どんな連中に遇うかも知れないと、
横にそれて野と云わず山と云わず駈け出して、其の晩遅くなってから、
我々が集っている徳地と云う所にやって来られた。
其所で衣服や大小なども調えられて、愈々別れと云う時に、
行燈に、「灯の影くらく見る今宵かな」と云う発句を書いて立ち去られた。
そうして小郡から船に乗って博多の方へ渡られたのである。
此の時の光景は実に感慨無量であった。

博多に往ってからも、始終こちらと連絡を取って機会を窺っておられたが、
急に馬関に戻って来られた。
其の頃諸隊は解散を命ぜられたものの、陳情書を出すやらなどして、
長府や山口附近の在郷に集団していたのである。
併し反対党が時の政権を握っているから、
仲々急に事を挙ぐると云う時機と思われなかった。
それで今少し模様を見た方が宜かろうなどと唱える者もあったが、
高杉は断乎として肯かずに馬関で爆発して了った。
そこで討伐に来る萩勢は、途中の諸隊をして逆襲せしめてこれを破り、
一面此の事あるを予測して手筈をきめてあった通り、
三田尻に繋いである藩の軍艦四、五艘
(今から見れば実につまらぬ船であるが、兎に角当時は軍艦)
を手に入れて電光石火の有様に、
萩の沖に廻して空砲ではあるが城内に向けてドンドン大砲を打ち出した。
サア城中の混乱は名状すべからずである。
時の当局は震駭して為す所を知らざる有様である。
こうなると従来中立にあって傍観的態度を取っていた連中までが
こちらに味方することとなったから、
大勢忽ち一変して時の政府は顛覆する、再び勤王派が政権を握って、
藩論ここに一定するの根柢を堅めたものである。

藩論も確定して何時幕府と開戦も辞せないと云う決心もついたから、
高杉は、これ迄大分君父に心配させ色々御迷惑をかけたが、
藩論も斯くの如く決した以上は、万事の関係を断ち、
一応身を引いて乞食にでもなって、
諸国遊歴に出かけようと妾一人を連れて船頭の様な風に姿を変えて
飄然として国を出た。
先ず大阪に着いて船を安治川口に停めて、
或る時一人でドテラか何かを着込んだなりブラブラ市中を歩いていた。
そのうち心斎橋筋に一軒の古本屋があるから立寄って
徒然草は無いかと聞いて見た、
亭主は熟々高杉の様子を見て、
一体お前サンはどうしてそう云う本を求められるかと聞く、
イヤ何俺が在所の御師匠様からエライ面白い本だ
と云う話を聞いているから大阪に来た序に買って見ようと思ってとトボケた。
亭主は、船頭サンにしては面白い心懸けだ、
マア御上んなさいと無理やりに座敷に請じ入れ、
色々歓待をしてどうしても帰そうとしない、
高杉は是非帰ろうとすると、
亭主の云うには実は私の内に面白い御方が泊っておられる、
幕府の御役人で先達からこちらに出張っておられるのだが、
それはそれは面白い気質の方で、
何んでも一風異ったことが御好きだから、
御前サンのような人を引合せたらさぞ喜ばれるだろうと思うから
暫らく待ってくれと云う話であった。
其の役人の名前など聞いて見ると、
かつて聖堂で塾頭か何かをしていた知り合いの人らしいので、
コリャ大変と思ったが顔にも出さず、
そんな御立派な方に斯んな風では恐れ多くて御目にかかれませんと
辞退しても亭主はなかなか承知せぬ、
そんなことを気に止められるような御方じゃないからと、
どうしても帰そうとしない、
そこで高杉は、私だって羽織の一枚位船に持って来ているのである、
そう云う方にお目にかかるのなら一
と走り船に帰って着物を着換えてすぐ来ますからと、
やっとのことで亭主を説き落して韋駄天走りに船に帰り、
それ直ぐ出帆だと僅に虎口を免れたという話もある。
それから四国に渡って、暫らく讃岐の日柳燕石の処に匿れていた。

一日高杉は琴比羅の市中をブラブラした末床屋に入って髭を剃った、
其の時フイと床屋の亭主の顔を見ると、
どうも見たことのあるような男である、
考えて見ると国の者らしいと云うことが思い浮んだ、
こりゃ此処まで手が及んでいるか、
此処も危険だなと思いながら燕石の所に帰って見ると内は大騒ぎである。
日柳の細君はオロオロ声で、
実は貴方の御身分の事で取り調べ度いことがあると云うので、
今主人が役所に連れて往かれましたと云う、
高杉は、ハア、テッキリ先刻の男が密告したに相違ないと思ったが、
さあらぬ体に、そりゃ飛んだ御迷惑のことである。
併し私の身上のことなら、
私が役所に往って話をすればすぐ分ることですから一寸往って来ますと云いつつ、
机の上には書類や一朱二朱の小金を散乱したまま飛び出した。
其の日は小雨が降っていたが、
金比羅参りの連中が皆な跣足になって男女入り交って走っている、
これを見るや否や高杉は、
咄嗟の間に連れておった妾に、オイ足駄を脱げと云い附け、
自分も跣足になり尻端折をして、
金比羅参りと一緒になってどんどん駈け出して船場に至り、
我々は金比羅参りに来ていた者だが、
今、親が大病だと云う飛脚が来て一時もこうしておられぬのだ、
金はいくらでも出すから、直ぐに船を出して呉れと頼み込み、
やっとのことで危難を脱して室の律に渡り、種々の辛苦を嘗めて帰国した。
其の頓才機智、高杉ならでは出来ない仕事である。

其の時から間もなく、幕府の第二回目の長州征伐となったので、
高杉は其の防禦総督として諸方に転戦し、
あの寡兵を率いて天下の大軍を四境に破り、
幕府の為すなき事、長藩の恐るべきことを海内に示すに到ったのである。

幕軍は、主力を芸州口に集め、一面四国諸藩の兵を以て、
長州の中腹に横たわっている大島郡を占領し、
横合より山口を衝かんと企てたのである。
防長二州は知っての如く細長い地形であって、
其中程の前に大島が横たわっているのだから、
敵に此の地点を占領されたなら
芸州口に出ている軍隊の後ろを断たるるのみならず、
直ちに主城の山口を衝かるることになり、
勝敗の数既に定まったと云ってもよいのである。
そこで先ずどうしても此の大島郡の敵を追払わねばならぬとあって、
高杉はみずから丙寅丸と云う
僅か百噸もあろうかと思う其頃の軍艦に乗って出かけることとなった。
そうして何んと思ったか三田尻に上陸して貞永と云う人の家に立寄った。
此れは塩田などを持っている豪家で、
よく当時の有志家抔が遊びに往った家である。
此の日主人は不在中であったが、高杉はそうか留守でもよしと云って、
つかつかとニ階に上って往った。
女中が御茶など持っていった時は、床の間を枕に仰臥していて、
何か考えてでもいたらしかったと云うことである、
やがて暫くすると、また来るから主人に宜敷と云ってフイと帰って了った。
此の夜半あの小船を以て、大島郡の敵の屯している処をドンドン砲撃した。
敵は黒闇から打たれるのだから、
何が何やら訳が分らず非常に狼狽して悉く散乱した。
此の一回の奇襲で、大島郡の敵を掃蕩し、
腹背に受けたる敵の勢力を芸州口の一方に牽制し
能く敗を転じて勝を制することが出釆たのである。
高杉は、募兵を以て大軍に当るのだから、
常に味方の兵力を敵に知らしめない方略を取ったもので、
能く夜襲を用いたのもこれが為めである。
大島攻撃の前に、
三田尻に寄って貞永の家を尋ねたのも、まだ時間が早かったから、
待ち合せるつもりであったらしく思われる。

九州方面に向っても、
敵は小倉方面の田の浦、門司、大里と海岸近く陣所を連ねていたが、
味方の兵は皆な長府の後方の村々に分れ分れに潜め、
容易に攻撃的態度に出なかったが、
能く能く、機会を見定めたものと見え、
一夜諸方の村々より兵を集めて一時にドッと田の浦の朝駈けを試みた、
敵は不意を喰って忽ち潰散したが、
勝に乗じて之れを迫撃すると云うことをせず、
直ちに諸兵を纏めてサッと馬関に引き上げて、
また元の村々に分駐せしめた。
暫らく日を隔てて再び此の奇襲を行ったが、
矢張り暁方に前の如く引き上げた。
かかる奇襲を試むること三回、
其の後始めて追撃を命じ赤坂と云う所で大捷を博し
小倉の兵は城に火をかけて遁げ出す迄に至らしめた。
皆な是れ寡を以て衆に当るが為めに、
必勝の算が立つまでは
敵に味方の兵力を知らしめないと云う軍略の妙用が含まれていた次第である。

以上は僅かニ、三の実例に過ぎないのであるが、
如何に其の臨機応変、
機智縦横の大才に富んでおったかと云うことが窺われるではないか。
しかもそれが事々物々、能く趨勢に適応して基礎を固め、
根柢を築くと云う結果になったことを考えると、
実に驚嘆感服の外は無いのである。
階級を打破して諸隊を作り、一藩の士気を鼓舞振作して国論を確立し、
遂に四境の大軍を粉砕して、幕府の為すなきを天下に暴露し、
長藩の勢力をして九鼎大呂より重からしめ、以て薩長同盟の素因を堅め、
王政維新の偉業を成就するに到る迄、
其の間一貫せる経綸の大才毫末も紊れたることなきは、
殆んど人智の企て及ぶべからざる点がある。

其の当時能く我輩年少の者に向って、
愚を学べ学べと訓誡を垂れられたものだ。
俺れも若い時は撃剣をやる時に、道具外れをわざと打ったり、
鎗を使う時に脛を突いたりしたものだが、そんなことでは駄目だ、
どうしても愚を学ばなければいかんと屡々話されて居たが、
充分理解することが出来なかった。
漸く近年になって、
あれは孔子の所謂甯武子其智可及其愚不可及
と云うことを教えられたもので、
年少客気を戒められたものであろうと考えると、
実に今昔の感に堪えぬ。
また其の頃の有志家は皆な慷慨悲歌、
文天祥胡澹菴宜敷と云う風の人が多かったが、
高杉丈は一種超然とした所があって、
陣中に茶器を持って来て煎茶をやって見たり、
時には三味線を携えて来て弾いて見たりしていたのも、
今から考えて見ると、
皆なそれぞれ深長の意味が含まれていたことが分って懐しさの限りである。

遺物と云っても手元には何もなく、書面やなぞも大概人に取られて了った。
一つ残念に思うのは、高杉が上海へ船を買いに行った時に、二十一史を購って帰り、
其の箱に「抛千金購聖賢書、是予一人之私哉」と書いたのがあったが、
明治二年に諸隊暴動を起した時、何処へどうなったか分らなくなって了ったのは、
今でも惜しくて堪らない。
亡くなられる十日程前に見舞に往ったら、非常に喜ばれて色々話をされた、
其中フト傍を見ると、
小さい松の盆栽があって、其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、
これは何んですかと聞くと、イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、
此の間硯海堂が見舞に呉れた「越の雪」を松にふりかけて、
雪見の名残をやっている所さと微笑された。
斯かる際まで平常の心根を、遺憾なく発揮せられていた其の温容、
今なお彷彿として夢の如しである。

嗚呼春風秋雨五十年、今少しく永らえておられたならばと思えば、
涕涙の滂沱たるを禁じ得ぬ次第である。
祭典に当って捧げようと左の一絶を作って置いた。

賦梅花一絶恭奉供于
東行先生五十春忌之祭禋先生曽
有愛梅之癖変称谷梅之進亦其一也詩意故及
英花秀発二州春。別有早梅驚谷神。勁質貞姿心鉄石。
邦家長憶歳寒臣。



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