高杉雅子刀自の回想
高杉雅子

高杉東行先生の夫人政子刀自を、飯倉五丁日六十番地の邸に訪ずれた。
三月十七日午前十時。
夜来の陰雨名残なく霽れて、近頃にない暖かい朝日が庭の回り椽にさしていた。
りんどうの紅い蕾が、ポツポツと立つ水気の間に浮かんで見えた。
さすがに女性ばかりの宿に音ずれる春は繊やかであった。
案内されたお居間の八畳には、
先日挨拶に出られた故東一氏(東行令息)夫人が風邪にて床の上に坐しておられた。
落飾された東行夫人は、坐をすべってしとやかに挨拶された。
(『日本及日本人』鹿野記者)

私共では何うしたものか、元から親子兄弟の緑が薄うございまして、
夫れから夫れと不幸ばかり続きました。
東行は御存じの通り四人兄弟で東行が長男であと三人は、皆女でございましたが、
東行は、二十九で亡くなりますし、
中の妹栄子は坂氏に嫁いでいましたが、これも早く亡くなりました。
末の妹光子も先年亡くなりまして、唯今残っていますのは、
一番上の妹竹子が存命であるばかりでございます。
竹子は武藤氏に嫁しましたもので、
唯今は青山原宿一七○の一八号武藤氏方に暮しています。
私よりも年上でございまして、近来だいぶ弱りました。
この節眼が悪いとか申して、医者に通っているそうでございます。

私には東一という子が一人あったきりでございましたが、
東一も先年亡くなりました。
東一も子供には不幸で皆な亡くしまして、
今は唯当主春太郎が存命でこの家にいるのみでございます。
長女は帝国大学に出ている伊木寿一に嫁しましたが、
一人の子供を残して、産後の肥立ちが悪く二十四で亡くなりました。

この写真は先年東一が存命中
ちょうど寿一へ参っている娘が産後の保養に宅に帰って来ていました時
皆なをこの椽側に集めて、とったのでございます。
東一も其時はもう病気に罹っていた時で写真も何となく元気がありません。
自分で立ちながら何と申しますか写真の綱を引いてとりましたので、
左の手に握っている綱がそのまま写真に出ています。
娘も産後の経過が面白くありませず、大へんふさいでいましたので、
思いなしか写真まで何となく力なさそうに写っています。
写真に向って右が東一、次が娘次が私、其の次が春太郎、
一番左がこれでございます(東一氏夫人を指される)。
ごらんの通り庭も家も昔のままに残っていますが、
昔の楽しさは、かげにも残っていません。
年々にさびしさばかりますのみでございます。

政子刀自今年七十二歳である。
然も其人を見れば、其容秀麗、其気生々、目もはっきりしていらるれば、
耳も達者である。
襖を隔てて其の声のみを聞いていれば、
若き娘のささやきを聞く様な力がこもっていた。
刀自は、病床の東一氏夫人に代て二階に往来して、
東行碑除幕式の写真や東一氏の洋行中維納でとられた写頁、
東行碑の碑文、東行先生妹光子刀自の写真などをとりどりに示されながら、
それからそれと、ありし昔の思い出を語られた。
すべて刀自の許しを得て其場で写真師に複写せしめた。
額にしてかもいに掛けてあった東行先生御両親の写頁までとり下して、示された。

「かく皆さまの御写真を揃へて頂いた内に、
夫人のみ一人欠けていられるのは、
まことに心のこりであれば・・・」
と政子刀自の撮影を促した。
私の様なものが写真をとりまして、皆様に御目にかけることは、
東行を辱かしめる様なものでございますから、なるべく御ことわり申上度う存じます。
一昨年もちょうど私が、
七十になりましたので親戚などからしきりと記念に写真をほしいと申して来ましたけれども、
元来写真をとることがきらいでございますから、
それさえとうとう御ことわり申した様な次第でございます。
然し此度は東行の五十年祭を旧藩主公から御営み下さるという有り難いことになり、
其の上御社では東行の為に記念号まで御作り下されるとの趣き、
東行の名誉はこれにこしたことはございません。
皆様の有り難い御情けに東行もさぞ喜んでいることでございましょう。
かくまでの御親切に背くのは却って心ないことでございますれば、
御言葉にあまえて御願いをいたしましょう。

政子刀自は
八畳の客間の椽に毛布を布いてはなやかなめりんすの座蒲団をしつらえて、其上に坐られた。
ふだんぎ其のままの上に黒いひふを折かけて、静かにレンズに向われた。

写真がすんで刀自は、自ずから八畳の客間に招じて、
玄米で引いた粉の湯を汲んで侑められた。
そうして静かに東行先生が閉門されておられた時の話を始められた。

東行は御存じの通りの乱暴者でございましたから、
何ぞお上の御迷惑になる様なことをいたしましたと見えて、
野山屋敷へ入れられることになりました。
それが元治元年の三月の頃のころであったかと記憶しています。
其の間私共は親類預けということになりました。
高杉が野山屋敷にいましたのはニ、三カ月位だったと思います。
其の後東行の罪がかるくなったものと見えまして、
其の年の六月頃であったかと思いますが、
野山屋敷から出されることになりまして、父の家へ帰って参りました。
宅にいましても御咎め中のことでございましたから奥座敷のニ間を閉切って、
其の中に東行を入れました。
外からすっかり釘付けにしてしまいまして、
それに鍵を下して誰も面会することが出来ない様にされました。
家内の者も容易に出入りすることは出来ません。
御屋敷から家来が一人来ていまして、それがすべて東行の始末をしていました。
それでも私は両親の目をぬすんでは色々用を足していました。
三度三度の御飯なども私が運んでいました。
同じ御咎中ではございましたけれども、
宅にいますと、何かに自由がきく様になりました。
其の内井上さんが洋行から帰って来られ、
わざわざ宅へ尋ねて来られまして、
是非東行に会わして呉れろといって来られました。
其の由を父へ申しますと父は、
御存じの通りの頑固一図の性質でございましたから御屋敷の命令を堅く守りまして、
御咎中のものであるから決してお会わせすることは出来ないと申しました。
井上さんは是非東行に会って西洋の様子や、
是れからの方針やを話したいから是非会わして呉れろと何と云ってもきかれませんから、
とうとう父も我を折りまして、
お会わせすることになり私が、高杉の居間へ御案内申上げました。
東行も井上さんが来られたというので大変に喜んでいました。
井上さんから其の時いろんなお話があったと見えまして、
東行もあとで様子がわかって愉快じゃと申して喜んでおりました。
何しろ一切人に会わなかったものですから、
井上さんにお会いしたのは此の上もない喜びであったろうと思われます。

其内外国の船がどんどん姫島へ集って来るという噂が騒がしくなって、
国中が愈々やかましくなって参りました。
それをどうしてか東行が耳にはさみましたと見えて、
それからは、
居間のすぐ隣りに土間のたたきがありました処へ家来に大きな石を運ばせまして、
毎日の様に其の石を差し上げては下し、差し上げては下していました。
何のつもりでございましたか私共には少しもわかりませんでしたが、
東行の考えでは長い間一室に閉込められていて自由に運動が出来なかったので、
力が失せてしまっていたものですから、
外国の軍艦でも打ちはらうのに此んなことでは駄目だと思って、
あんな力だめしをしていたものと思われます。
それから間もなく御許しが出て馬関へ出ることになりました。
馬関から例の殿様から拝領いたしました、
鎧直垂を著て今の言葉では何と申しますか、
外国の船との講和談判に参ることになりました、
何んでも其の時は高杉という名前ではいけないとかいうことでありまして、
宍戸刑馬とか変名をして参りましたように、記憶しています。

私は高杉と一所にいましたのは、
ほんのわずかの間で、其間東行はいつも外にばかり出ていました上に、
亡くなりましたのが未だニ十九というほんの書生の時でございましたから、
私は何んにも東行に就て御話する記憶がございません。
其の内馬関で東行が病気にかかりまして、
大ぶひどいという知らせが参りましたので、
私は両親とー緒に馬関に参りました。
東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、
林屋と申しますのは唯今でいえば、
新地の村長さんとでも申します家でございました。
東行の病気は唯今の肺炎とでも申す様な病気でございまして、
私共が参りました時は、
もう大ぶ悪くなった時で沢山吐血をいたしました。
御飯もおもゆ位しかいただけませんので、
もうすっかり弱ってしまっていました。
井上さんや福田さん等がよく御尋ね下さって、御話をして下さいました。
東行は白分の体は悪くなるし、
それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので日に日に昂奮するばかりで
いつもいらいらしていました。
井上さんや福田さんに向っていつも
『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。
しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』
と言い続けて亡くなりました。
いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。
『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。

野村望東尼さんは、
一所に林屋に来て下さいまして、東行が亡くなるまで、
それはそれは一通りならぬ御世話をして下さいました。
それで東行が亡くなりましてから
東行のかたみの品を望東さんへ御贈りいたしました。
それは何んでございましたかもう忘れましたが
何んでも東行の衣類であったかと思います。
その時望東さんは三田尻におられましたが、
その地から大へん御叮寧な御礼状を頂きました。
その手紙は今に私の文箱に保存しています。
望東さんは、
御存じの通り大へん御手のいい方で
御らんの通り此の手紙なども却々達筆でございます。
歌も大へん御上手であり其の外生花縫取り等も却々御上手で
何んでもよく出来た方でございました。
東行が亡くなりました時に、歌を書いた短冊を下さって、
これを是非東行の柩の中に入れて一所に葬って呉れろと頼まれましたが、
これはとうとう私が手ばなし兼て今に保存いたしています。
その歌は
おくつきの
もとにわがみはとどまれど
わかれていぬる
君をしぞおもふ 望東

お歌も却々よく出来ていますが、
この歌を拝見しますと昔のことが昨日のように思われます。

東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していましたから、
望東さんが、東行の生前に観音経を写して下さいましたことがあります。
それは『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』というので、
二寸に四寸位の薄葉紙に書かれたもので三十六枚あるのを綴ったものであります。
その裏に
ふでのうみすずりの海もちかなから
えもふみなれぬ鳥のあとこれ 望 東
と書き添えてあります。
望東さんのやさしい心掛けがこの歌の中にも見えている様に思われます。
その裏に東行がいたずら書をしています。
それは何んのつもりでございますか、何から見たのですか次の様な歌を書いています。
尾張美濃の国境にて人をやく烟を見て
よみ人知らず
あれを見よ我もあの身に成海坂
明日ともしれぬ身の(美濃)をわり(尾張)かな
其れを聞いて 倚 人
あすあすと思ふ心はあだ桜
よひに嵐のふかん物かや
又前の人
あすあすと兼て心に思へ共
昨日明日とは思はざりけり
と書いています。
何か自分で思いついて書きつけて置いたものでありましょうが、
今日になって見ますれば何となく白分の事を白然に知っていた事のように思われます。
東行が亡くなりました後に、
望東さんが此の経文のことを思い出されまして、
次のようなお歌を下さいました。
のりのみち君先かくるふみとしも
しらでかたみにやりしかなしさ 望 東
望東さんはお歌がお上手でいらっしゃいましたから、お歌を拝見していると、
何となく昔にさそわれて行くような心地がいたします。
これは東行に関したものではございませぬが、
望東さんのお短冊を東行が持っていましたのに
さわがしき世にもならはで秋の野の
花のすがたはみなのどかなり   望 東
というのがございます。


東行が持っていました短冊の中に、
あなたのお国の平野国臣先生のがございます。
それはこれでございます。
玉敷のたいらの宮路たえまなく
みつぎのくるまはこぶよもかな 国 臣

下田歌子さんが
先年東行の十七年祭の折に書いて下さいました短冊は
天の橋立の杉板でございますが、お歌は
国の為つくすしるしは顕はれて
いさほくちせぬ谷のあや杉 下田歌子
東行が剃髪いたしました折の歌に
西へ行く人をしたひて東行く
わがこころをば神やしるらん 東 行
というのがございますが、
偶然にも父が西行法師を詠じました歌がございます。それは
世をうしとすてしうちにもすてやらぬ
しきたつ沢の秋の言の葉 丹 治
と申すのでございます。

私は久しく国へまいりませぬ。
先年東行碑の除幕式がございました時に、
是非にとすすめられましたけれども、
丁度その折は、孫が亡くなりまして葬式を出すという騒ぎの時でございましたので、
つい失礼いたしました。
この月末、春太郎の試験休みを利用致しまして、
一家打つれて、久しぶりでお国へ墓参を致したいと存じています。

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