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はじめに
考えてみますれば、「晋作の少年時代」の逸話、あまり世に出ていない様な気が致します。

書物には、幼年時の逸話がニ、三残っているが、それらしく作られたもので、信ずるに足りない。(ーー;)と書いて在ります。

「信じる信じないは個人の自由」てな訳で「逸話」を拾い上げてみました。

同時に「晋作本」の紹介も兼ねて描写、「引用」致します。

なお、少年時代をどこまでにするか?キリがいいところで、「松陰」に出会う前までとしてみました。

間に「書簡」等紹介して行きます。

又、当然の事ながら内容重複致します、作家によっての記述の仕方を楽しむのもよろしいかと。

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久坂玄瑞との関係
『久坂玄瑞と高杉晋作は、五、六歳のころ、吉松淳蔵の塾で机をならべて以来のつきあいである。吉松塾でならったのは、初歩的な書きとりや漢文のかんたんな句読ていどのものだったが、すでにそのころから玄瑞はずぬけてよくできた。あいつにはかなわんなあ。こどもごころにも圧倒されるものを感じて、晋作は玄瑞に一目も二目もおいた。ただ、「義助は医者の子じゃから、学問にうちこむのはあたりまえじゃ。」と理屈をつけることをわすれなかった。玄端の学才をすなおに認めるには、少年晋作の自負心はあまりにもつよすぎた。』

『晋作の家は百五十石どり大組の家格で、父の小忠太は奥番頭役をつとめている。いうところの上士で、毛利元就以来の譜代の家系が誇りである。この晋作は武士の家の惣領じゃ、いざというときには殿さんをまもって斬り死にせにゃあならん……だから、なによりも撃剣が第一ゃ。義助とは目ざすところがちがう。一つ歳下の秀才にたいする、晋作のせいいっぽいの矜持といえる。そんな屈折した心理もてつだい、晋作は知識の習得ということにきわめて冷淡だった。』
(八尋舜右『高杉晋作』より)

嘉永五年(1852)14才の時、晋作にとって「衝撃的な」出来事が起こる。(^^ゞ

その時、江戸から斎藤新九郎という剣客が萩へやってきた。新九郎といえば、幕末随一の剣豪といわれた江戸練兵館の斉藤弥九郎の長男である。
この新九郎にたいして、長州勢、ただの一人もまともにたちあえる者がなかった。(ーー;)

『「タエガタイ」と、晋作はいった。はずかしい、というのだ。なにがそれほどまでにはずかしいのか、玄端にはわからない。当然だった。剣術にたいするかんがえかたが、晋作と玄瑞では天と地ほどもかけはなれている。殿さんをまもって斬り死にすることを至上の責務とする晋作にとって、剣術こそは武士の最高の技芸でなくてはならなかった。その最高の技芸において、藩士のすべてが、たった一人の他国者におくれをとった……これが長州藩の恥辱でなくてなんであろう、と晋作は思う。剣への思い入れが、ふかいのだ。
玄瑞は、ちがった。剣術そのものをもって職業としている、いうところの特 技者(プロ)である斎藤新九郎が、城勤めの藩士(サラリーマン)のだれよりもつよいのはあたりまえではないか。それにーいまや銃砲の時代で刀槍の時代ではない、というふうにかんがえる。』
(八尋舜右『高杉晋作』より)

此の(屈辱)から8年後の万延元年(1860)に、柳生新陰流の免許皆伝。
この頃の晋作は友人から「剣客を志している」と見られていたのでしょう。
その為か、(ーー;)明倫館に入学して後、その進級のぐあいをみても、成績はかんばしくなかったようで、19才になってやっと入舎生になっています。
明倫館には、大学生、入舎生、居寮生、舎長の四階級があり、晋作が大学生になったのが14才の時の嘉永6年(1853)、そうです、あのペリーが来航した「幕末激動期の幕開けとなった」年です。
つまり、入舎生になるのに5年かかっています。(^^ゞ
ところが、入舎生になるや、何を思ったか突然書を読み始める。
時世が求めているのは「剣より学問」と認識したのか?
そう思ったら流石「晋作」(^^)、猛然と学問に力を入れるや、万延元年(1860)に舎長になっている。カァーΣ^)/
学問に志した晋作を好意を持って迎えた人物そう、あの「玄瑞」が自分らの仲間に晋作を引き込む(^^ゞのです。

『「いずれ、あん人も仲間入りするさ」ある日、怜悧にかがやく瞳を意味ありげにつぶってみせると、塾仲間の佐世八十郎(前原一誠)や伊藤俊輔(博文)に語った。やる気を出した晋作だけに、すぐに明倫館の杓子定規の講義だけではあきたらなくなり、わが吉田松陰先生の門をたたきにくるにちがいない、というのだった。「その証拠に・・・」と玄瑞はつづけた。
「このまえ、ぼくが塾からのかえり、掘割の道をあるいちょったら、ひょっこり暢夫(晋作)に会うたんじゃ。例の長い刀をひきずっちょるところはあいかわらずじゃったが、その暢夫がぼくのかおを見るなり、なんというたと思う」玄瑞は、おもわせぶりに一拍おいて、くすっ、と思いだし笑いをすると、「吉田寅次郎という人は、ひとくちにいうとどうじゃ、とこうなんじゃ。あの、このまえまで竹刀ばかりぶんまわしちょった未来の大剣客が、なんと松陰先生にご用じゃ、ということらしい。はははははは」
おかしくてたまらぬ、というふうに笑った。 八十郎がつられて笑い、俊輔も晋作を見知っていたわけではないけれど、なんとなくおかしいような気もちになり、大口あげて笑ってしまった。
「ぼくは、いうてやったよ、松陰先生ほどの大人物を、たったのひとくちでいうてしまうのはもったいない、とね」それからまた、三人は声をあわせて、ひとしきり笑ったのだ。』
(八尋舜右『高杉晋作』より)

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あばた顔の誕生
嘉永元年(1848)9歳の時、晋作は天然痘を煩っています。
発熱したのが12月6日。高杉家嫡男の「一大事」!
小忠太パパ、蘭学医の青木周弼・研蔵兄弟へ往診を頼んでいます。
(この青木家と背中合わせに住んでいたのが、桂小五郎の実父、和田昌景。)
青木周弼、研蔵兄弟が医学を学んだのは、医学所頭取の能美洞庵の父友庵からで、ついで長崎に遊学してオランダの医師シーボルトに師事した名医。
それでも不安だったとみえ、小忠太は、能美洞庵にも往診を頼んでいます。

『高杉家にとってかけがえのない一粒だねの命を必死で守ったのは、昼夜つききりで看病した祖母だった。「容易ならざる御苦労に、持病にさわりはせぬかと心配したが、気が張っていて大へん手ぎわよろしく、私どもも大いにしあわせた」と小忠太が感激しているほどである。』
( 冨成博 『高杉晋作』)

ここに、「あばた顔」の晋作誕生! (^^ゞ



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桂小五郎と晋作
当時萩では、柳生新蔭流の内藤作兵衛、馬来兵馬、平岡弥三郎の道場があり、晋作は、後年、内藤作兵衛から免許皆伝を受けています。その内藤道場には、「桂小五郎」がいました。

『内藤道場で、先輩の桂小五郎と手を合わせる機会があったかどうかわからないが、すくなくともまだニ人はたがいに深く相知ることはなかった。二十歳に近い小五郎からみれば、身分はおなじ程度の中級藩士であっても、一三歳の晋作など眼中になかったであろう。』
( 冨成博 『高杉晋作』)

「晋作の少年時代ーその1ー」で述べました様に、嘉永五年(1852)に斉藤新太郎来萩。長州勢「全員討ち死」(ーー;)。 そこで、新太郎は、藩内から若者を選んで江戸の道場へ修業に出すよう進言。剣術修業と同時に勉学の修業が目的である。そこで五人が選抜された。しかし、桂小五郎はその選に入ることが出来なかったできなかった。そこで、桂は、自費で江戸へ遊学する事を願い出て許され、目出度く、新太郎の供をして江戸へ・・・・練兵館に入門したのは11月。
1年後には、はやくも塾頭になって、諸藩にその剣名が響きわたった。(^^)
その頃の晋作は「剣一筋」。

『なで肩で、人並すぐれた体力があったとも見えないが、負けずざらいの晋作が、心気をもって相手を圧倒できるのは剣術であった。そういうところが、晋作の奔放な気質にマッチしたのかもしれない。ひごろ家庭で、二〇〇石の譜代藩士のあととりとして、チヤホヤされながらも実際は頭をおさえつけられている晋作が、自由にのびのびと本領を発揮できる世界がそこにあったのだ。』
『とにかく斎藤新太郎の出現は、晋作にいっそう剣士へのあこがれをかき立てずにおかない。けれども実は、晋作がどうしても学問にうちこむ気になれない理由が、ほかにあったのである。それは型にはまった旧態依然たる藩学の空気であった。』
『晋作が大学生から入舎生に進んだのは、五年もたった安政四年(一八五七)二月だった。この間、晋作の内には、周囲の抑圧を突き破ろうとする、うつぼつたる青春のエネルギーがたまっていた。しかもけんめいに自分をおさえてきた。それでも、ややもすれば、人と妥協しない、かたくなな性質が蒸気のように噴きだして家族の気をもませる。』
( 冨成博 『高杉晋作』)

「自笑」はこの頃の作

 百年一夢ノ如シ
 何ヲモッテカ歓娯ヲ得ン

 自ラ笑ウ平生ノ拙
 区々トシテ腐儒ヲ学ブ

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ボンボン
高杉家の石高は、百五十石である。これがどんなモノかというと、当主の才能と運次第で、家老に準ずる執政官にまで飛躍しうる潜在的な資格がある。要するに、士官・将校の家である。つまり晋作は、「よかとこのボンボン」。
普通、ボンボンは、虚弱体質・温室育ちですが、ご多分に漏れず晋作もその通り。(^^ゞ
この「ボンボン」が「革命児」へ変貌するところが、晋作の魅力。

『高杉晋作は、こういう家にうまれた。こういう家の出身者が、革命家になるというのは長州だけでなく薩摩や土佐でもきわめてまれで、ましてその指導者になったという例は他藩でも絶無に近く、こういう点、高杉晋作の存在はじつに珍奇というほかない。』   
『「高杉さまの坊ちゃまは、甘やかされすぎている」という蔭口が、晋作の少年のころ出入りの連中のあいだでささやかれていた。なにしろ一人息子であるうえに、幼少のころから呼吸器が弱く、わずかなことで風邪をひいたり、熱を出したりした。高杉家にすれば、もしかれをなくしでもすれば相続者をうしなってしまう。そういうあぶなっかしさがあって、つい手きびしい教育を避けた。さらに祖父も祖母も健在で、このひ弱い孫を甘やかすことが多くたとえば同藩の松陰の生い立ちにみられるような叔父玉木文之進による酷烈無残なほどの個人教育は、晋作はうけていない。晋作にとってはそんな家庭教育は想像もできなかったであろう。』
(司馬遼太郎『世に棲む日日』)

ボンボンで、じい様・ばあ様ご健在、一人息子、虚弱体質→温室育ちとくれば当然「ワガママ」になる。

『まだ前髪をつけていたころの正月である。晋作は、門前のせまい路上で、凧をあげていた。凧はしばしば落ちた。その落ちた凧を高杉家へ年賀に来た藩士が、あやまって踏みつぶしてしまったのである。その客は高杉家とほぼ同格の士分の者であった。「やあ、これは」とつぶやいて去ろうとしたとき、晋作は、跳ねあがって怒った。「おじさま、なぜあやまちぬのです」と、甲高く叫んでつめ寄った。その大人は、にやにやしてなおも去ろうとしたが、晋作は追って行って、「土下座せよ。三ツ指をついてあやまれ」とわめいてやまず、そのあまりの雑言に大人はひらきなおり、晋作の無礼をたしなめようとした。晋作はいよいよ猛って、「あやまらぬなら、泥をかけてやる」泥をつかんでいた。その大人は、藩主から拝領した羽織を着ており、毛利家の紋所である一文字三ツ星をつけている。晋作はコブシをあげ、その御紋に泥をかけてやるとわめいているのである。この場合これ以上の戦法はなかった。当の大人にすれば、拝領羽織の御紋に泥をぬられてはどういう罰をうけるかわからない。小面憎いことにこの少年は大人のその弱味をよく知っていた「わかった」 大人は機嫌をとるように笑い、すぐにがい顔にもどって、「しかし、若や、武士たる者がこんなところであやまれない。こっちへおいで」と、晋作をそのあたりのいけがきの内側にさそいこみ、「凧をつぶしてすまんじゃった」といったが、晋作はコブシをふりあげたまま、まだゆるさない。約束どおり土下座をせよ、という。その大人はたまりかね、これでよいか、とその場にすわって三ツ指をついた。「すまんじやった」(大人とはこういうものか)晋作は、その意気地のなさを肚のなかであざわらった。』
(司馬遼太郎『世に棲む日日』)

(ーー;)とまぁ、こんな子が育つわけです。
で、普通は、こんな事が親にばれると「折檻」モンですが、この時は、親父が謝りに行き(ーー;) バア様が晋作の代わりに親父に謝って、「一件落着」。(ーー;)

そうこうしている内に、「黒船」登場。長州藩は江戸湾の警備を任じられる。
親父殿は江戸へ。以後数年は、江戸在住。その間の教育係はジイ様。(ーー;)

その頃、晋作少年は、「常山紀談」が愛読書だったとか。特に、「信長」にご熱心。

そんな息子が心配でしょうがない江戸の親父殿。
「ここは一つ、ボンボンに言っておかねば」と思ったか?
晋作からの手紙の裏面に「気質変化」を講じる。
<別途UPー高杉父子の手紙ー参照して下さい。>

しかし、その後「突然、書を読み出し勉学に励む」様になるのですが、司馬氏は、その原因を玄瑞の存在にあったのでは、と、述べられています。



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