東行の由来
文久2年12月12日(1863年1月31日)に、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。

隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上聞多・伊藤俊輔・寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎・堀真五郎・松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助ら

攘夷断行を幕府に促す勅使一行が江戸滞在中の11月31日、高杉ら10余人は横浜襲撃を計画したが長州藩主毛利定広の説得で中止。
その後御楯組を組織し勅使らが江戸を離れた後実行した。

これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では晋作を江戸から召還する。
その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。

その東行の由来について・・・
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堀 真五郎

堀真五郎 『伝家録』
西行は西に行かんと欲す。我は東に行かんと欲するのみ。他の意義なし。

酒楼で堀真五郎から「東行」の由来を尋ねられてこう答えたという。

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周布 政之助から贈られた甲冑の裏布
予、断髪し関東に赴き、将に東せんとす。政之助この甲冑をもって予に贈る。
予即ちこれをもって着し、勤王の戦において討死にせんと欲するなり。

<東>の幕府を倒しに<行>くの決意を込めて「東行」と号した?



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