「剣の師匠」内藤作兵衛の悲劇
此の御仁、頑固一徹な武士だった。後年、幕府が倒れて、明治の世となり、廃刀令が出た。作兵衛はそれに従わず、いぜんとして刀を腰に差して歩いた。明治9年、萩で士族反乱がおこったとき、そんな恰好で町に出たところを、暴徒と間違えられて射殺されてしまった。晋作もすでにこの世にはいないころの話である。(ーー;)

ところで、「大衆の面前で」晋作に打ちのめされた馬田多一郎。
その後、全く有備館に姿を見せない。(内心ホッとした「いじめられっ子」もいたのでは。(^^) )
三ヶ月程してから、晋作に多一郎からの手紙が届く。
「今度は真剣で勝負しろ」・・・だと。^^;
多一郎が指定したのは、三日後の明け六つ(午前六時)、場所は菊ケ浜の城寄りとしてある。一人で来い、当方も一人で行く。一対一で勝負をつけようというモノ。

あたりを見まわしたが、人の気配はなかった。
「馬田多一郎、どこにおるんじゃ」
晋作は怒鳴った。そのときになって、ようやく松原の中から一人の男が、砂浜を走りおりてきた。見ると多一郎は、白鉢巻に襷がけ、袴の股立ちをとった勇ましい恰好をしている。近づいてきた彼は、晋作が別にこれといった支度をしていないのを見て、「おぬし、それでよいのか」と、怪訝な顔で言った。
「はじめようか」多一郎の質問には答えず、いきなり晋作は刀を抜いて、何時ものように下段に構え、渚を右にして立った。
「いざ」多一郎も抜刀して、青眼に構える。
「いざ」と、もう一度、多一郎が声を発し、相手を誘ったが、晋作は微動もしなかった。あくまでも敵の動くのを待って、わずかな瞬間の先の、さらにその先を突く「後先の先」を狙う戦法である。
「や!」
掛け声をあげながら、多一郎は大上段に構えなおし威嚇したが、晋作は身じろぎもしなかった。さすがに多一郎も軽率には打ち込んでこない。
朝日が晋作の背のほうから、徐々に光を射しかけはじめた。多一郎の目には、ざらめく光の中で、影法師になった晋作が、わずかに動いたように見えたはずである。晋作は、砂に埋もれた右足を静かに退くと同時に下段から陰の八双に構えなおしたのだ。
「きえっ」
多一郎が猛然と斬り込んで行く。二度三度互いの刀が激しく触れ合う音が響き、体をかわされて勢いが余り、泳ぐ姿勢になった多一郎が、そのまま前のめりになって海水のなかに両膝をつく姿勢になった。
多一郎の股立ちにとった袴が斬り裂かれ、血がしたたっている。縦縞の白木綿を着た晋作の肩にも血がにじんでいた。相打ちだが、多一郎の傷が深く、立ち上がれそうにない。「さ、討て!」と、晋作を振り仰いで多一郎が呻いた。
晋作は残心に構えた刀をひき、黙って立ち去ろうとした。
(古川薫『わが風雲の詩』)

その時、多一郎の兄精太郎とその友人が助っ人として登場。
晋作ピンチ!

すると、今度は手に手に棒きれや竹槍をかざした十数人の者が砂を蹴って近づいてきた。
「高杉様、助太刀にきましたぜ」

誰在ろう八百政の子の孝肋。そう、晋作に火をつけられた御仁。(^^)

結局、そこで The End !

双方の傷も軽傷。^^;

さて、其の後の晋作と多一郎の関係はどうなったか?

あれ以来大変親密になったそうな・・・



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