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『日本及日本人』とは・・・
日本及び日本人

大正5年が晋作の50回忌に当たり、『日本及日本人』で、晋作の特集を組み「高杉雅子刀自の回想」他、頭山満・村田峯次郎(清風の孫)・井上哲次郎・岩崎鏡川・河東碧梧桐などの論考が集められています。

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高杉雅子刀自の回想
高杉雅子

高杉東行先生の夫人政子刀自を、飯倉五丁日六十番地の邸に訪ずれた。
三月十七日午前十時。
夜来の陰雨名残なく霽れて、近頃にない暖かい朝日が庭の回り椽にさしていた。
りんどうの紅い蕾が、ポツポツと立つ水気の間に浮かんで見えた。
さすがに女性ばかりの宿に音ずれる春は繊やかであった。
案内されたお居間の八畳には、
先日挨拶に出られた故東一氏(東行令息)夫人が風邪にて床の上に坐しておられた。
落飾された東行夫人は、坐をすべってしとやかに挨拶された。
(『日本及日本人』鹿野記者)

私共では何うしたものか、元から親子兄弟の緑が薄うございまして、
夫れから夫れと不幸ばかり続きました。
東行は御存じの通り四人兄弟で東行が長男であと三人は、皆女でございましたが、
東行は、二十九で亡くなりますし、
中の妹栄子は坂氏に嫁いでいましたが、これも早く亡くなりました。
末の妹光子も先年亡くなりまして、唯今残っていますのは、
一番上の妹竹子が存命であるばかりでございます。
竹子は武藤氏に嫁しましたもので、
唯今は青山原宿一七○の一八号武藤氏方に暮しています。
私よりも年上でございまして、近来だいぶ弱りました。
この節眼が悪いとか申して、医者に通っているそうでございます。

私には東一という子が一人あったきりでございましたが、
東一も先年亡くなりました。
東一も子供には不幸で皆な亡くしまして、
今は唯当主春太郎が存命でこの家にいるのみでございます。
長女は帝国大学に出ている伊木寿一に嫁しましたが、
一人の子供を残して、産後の肥立ちが悪く二十四で亡くなりました。

この写真は先年東一が存命中
ちょうど寿一へ参っている娘が産後の保養に宅に帰って来ていました時
皆なをこの椽側に集めて、とったのでございます。
東一も其時はもう病気に罹っていた時で写真も何となく元気がありません。
自分で立ちながら何と申しますか写真の綱を引いてとりましたので、
左の手に握っている綱がそのまま写真に出ています。
娘も産後の経過が面白くありませず、大へんふさいでいましたので、
思いなしか写真まで何となく力なさそうに写っています。
写真に向って右が東一、次が娘次が私、其の次が春太郎、
一番左がこれでございます(東一氏夫人を指される)。
ごらんの通り庭も家も昔のままに残っていますが、
昔の楽しさは、かげにも残っていません。
年々にさびしさばかりますのみでございます。

政子刀自今年七十二歳である。
然も其人を見れば、其容秀麗、其気生々、目もはっきりしていらるれば、
耳も達者である。
襖を隔てて其の声のみを聞いていれば、
若き娘のささやきを聞く様な力がこもっていた。
刀自は、病床の東一氏夫人に代て二階に往来して、
東行碑除幕式の写真や東一氏の洋行中維納でとられた写頁、
東行碑の碑文、東行先生妹光子刀自の写真などをとりどりに示されながら、
それからそれと、ありし昔の思い出を語られた。
すべて刀自の許しを得て其場で写真師に複写せしめた。
額にしてかもいに掛けてあった東行先生御両親の写頁までとり下して、示された。

「かく皆さまの御写真を揃へて頂いた内に、
夫人のみ一人欠けていられるのは、
まことに心のこりであれば・・・」
と政子刀自の撮影を促した。
私の様なものが写真をとりまして、皆様に御目にかけることは、
東行を辱かしめる様なものでございますから、なるべく御ことわり申上度う存じます。
一昨年もちょうど私が、
七十になりましたので親戚などからしきりと記念に写真をほしいと申して来ましたけれども、
元来写真をとることがきらいでございますから、
それさえとうとう御ことわり申した様な次第でございます。
然し此度は東行の五十年祭を旧藩主公から御営み下さるという有り難いことになり、
其の上御社では東行の為に記念号まで御作り下されるとの趣き、
東行の名誉はこれにこしたことはございません。
皆様の有り難い御情けに東行もさぞ喜んでいることでございましょう。
かくまでの御親切に背くのは却って心ないことでございますれば、
御言葉にあまえて御願いをいたしましょう。

政子刀自は
八畳の客間の椽に毛布を布いてはなやかなめりんすの座蒲団をしつらえて、其上に坐られた。
ふだんぎ其のままの上に黒いひふを折かけて、静かにレンズに向われた。

写真がすんで刀自は、自ずから八畳の客間に招じて、
玄米で引いた粉の湯を汲んで侑められた。
そうして静かに東行先生が閉門されておられた時の話を始められた。

東行は御存じの通りの乱暴者でございましたから、
何ぞお上の御迷惑になる様なことをいたしましたと見えて、
野山屋敷へ入れられることになりました。
それが元治元年の三月の頃のころであったかと記憶しています。
其の間私共は親類預けということになりました。
高杉が野山屋敷にいましたのはニ、三カ月位だったと思います。
其の後東行の罪がかるくなったものと見えまして、
其の年の六月頃であったかと思いますが、
野山屋敷から出されることになりまして、父の家へ帰って参りました。
宅にいましても御咎め中のことでございましたから奥座敷のニ間を閉切って、
其の中に東行を入れました。
外からすっかり釘付けにしてしまいまして、
それに鍵を下して誰も面会することが出来ない様にされました。
家内の者も容易に出入りすることは出来ません。
御屋敷から家来が一人来ていまして、それがすべて東行の始末をしていました。
それでも私は両親の目をぬすんでは色々用を足していました。
三度三度の御飯なども私が運んでいました。
同じ御咎中ではございましたけれども、
宅にいますと、何かに自由がきく様になりました。
其の内井上さんが洋行から帰って来られ、
わざわざ宅へ尋ねて来られまして、
是非東行に会わして呉れろといって来られました。
其の由を父へ申しますと父は、
御存じの通りの頑固一図の性質でございましたから御屋敷の命令を堅く守りまして、
御咎中のものであるから決してお会わせすることは出来ないと申しました。
井上さんは是非東行に会って西洋の様子や、
是れからの方針やを話したいから是非会わして呉れろと何と云ってもきかれませんから、
とうとう父も我を折りまして、
お会わせすることになり私が、高杉の居間へ御案内申上げました。
東行も井上さんが来られたというので大変に喜んでいました。
井上さんから其の時いろんなお話があったと見えまして、
東行もあとで様子がわかって愉快じゃと申して喜んでおりました。
何しろ一切人に会わなかったものですから、
井上さんにお会いしたのは此の上もない喜びであったろうと思われます。

其内外国の船がどんどん姫島へ集って来るという噂が騒がしくなって、
国中が愈々やかましくなって参りました。
それをどうしてか東行が耳にはさみましたと見えて、
それからは、
居間のすぐ隣りに土間のたたきがありました処へ家来に大きな石を運ばせまして、
毎日の様に其の石を差し上げては下し、差し上げては下していました。
何のつもりでございましたか私共には少しもわかりませんでしたが、
東行の考えでは長い間一室に閉込められていて自由に運動が出来なかったので、
力が失せてしまっていたものですから、
外国の軍艦でも打ちはらうのに此んなことでは駄目だと思って、
あんな力だめしをしていたものと思われます。
それから間もなく御許しが出て馬関へ出ることになりました。
馬関から例の殿様から拝領いたしました、
鎧直垂を著て今の言葉では何と申しますか、
外国の船との講和談判に参ることになりました、
何んでも其の時は高杉という名前ではいけないとかいうことでありまして、
宍戸刑馬とか変名をして参りましたように、記憶しています。

私は高杉と一所にいましたのは、
ほんのわずかの間で、其間東行はいつも外にばかり出ていました上に、
亡くなりましたのが未だニ十九というほんの書生の時でございましたから、
私は何んにも東行に就て御話する記憶がございません。
其の内馬関で東行が病気にかかりまして、
大ぶひどいという知らせが参りましたので、
私は両親とー緒に馬関に参りました。
東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、
林屋と申しますのは唯今でいえば、
新地の村長さんとでも申します家でございました。
東行の病気は唯今の肺炎とでも申す様な病気でございまして、
私共が参りました時は、
もう大ぶ悪くなった時で沢山吐血をいたしました。
御飯もおもゆ位しかいただけませんので、
もうすっかり弱ってしまっていました。
井上さんや福田さん等がよく御尋ね下さって、御話をして下さいました。
東行は白分の体は悪くなるし、
それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので日に日に昂奮するばかりで
いつもいらいらしていました。
井上さんや福田さんに向っていつも
『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。
しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』
と言い続けて亡くなりました。
いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。
『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。

野村望東尼さんは、
一所に林屋に来て下さいまして、東行が亡くなるまで、
それはそれは一通りならぬ御世話をして下さいました。
それで東行が亡くなりましてから
東行のかたみの品を望東さんへ御贈りいたしました。
それは何んでございましたかもう忘れましたが
何んでも東行の衣類であったかと思います。
その時望東さんは三田尻におられましたが、
その地から大へん御叮寧な御礼状を頂きました。
その手紙は今に私の文箱に保存しています。
望東さんは、
御存じの通り大へん御手のいい方で
御らんの通り此の手紙なども却々達筆でございます。
歌も大へん御上手であり其の外生花縫取り等も却々御上手で
何んでもよく出来た方でございました。
東行が亡くなりました時に、歌を書いた短冊を下さって、
これを是非東行の柩の中に入れて一所に葬って呉れろと頼まれましたが、
これはとうとう私が手ばなし兼て今に保存いたしています。
その歌は
おくつきの
もとにわがみはとどまれど
わかれていぬる
君をしぞおもふ 望東

お歌も却々よく出来ていますが、
この歌を拝見しますと昔のことが昨日のように思われます。

東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していましたから、
望東さんが、東行の生前に観音経を写して下さいましたことがあります。
それは『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』というので、
二寸に四寸位の薄葉紙に書かれたもので三十六枚あるのを綴ったものであります。
その裏に
ふでのうみすずりの海もちかなから
えもふみなれぬ鳥のあとこれ 望 東
と書き添えてあります。
望東さんのやさしい心掛けがこの歌の中にも見えている様に思われます。
その裏に東行がいたずら書をしています。
それは何んのつもりでございますか、何から見たのですか次の様な歌を書いています。
尾張美濃の国境にて人をやく烟を見て
よみ人知らず
あれを見よ我もあの身に成海坂
明日ともしれぬ身の(美濃)をわり(尾張)かな
其れを聞いて 倚 人
あすあすと思ふ心はあだ桜
よひに嵐のふかん物かや
又前の人
あすあすと兼て心に思へ共
昨日明日とは思はざりけり
と書いています。
何か自分で思いついて書きつけて置いたものでありましょうが、
今日になって見ますれば何となく白分の事を白然に知っていた事のように思われます。
東行が亡くなりました後に、
望東さんが此の経文のことを思い出されまして、
次のようなお歌を下さいました。
のりのみち君先かくるふみとしも
しらでかたみにやりしかなしさ 望 東
望東さんはお歌がお上手でいらっしゃいましたから、お歌を拝見していると、
何となく昔にさそわれて行くような心地がいたします。
これは東行に関したものではございませぬが、
望東さんのお短冊を東行が持っていましたのに
さわがしき世にもならはで秋の野の
花のすがたはみなのどかなり   望 東
というのがございます。


東行が持っていました短冊の中に、
あなたのお国の平野国臣先生のがございます。
それはこれでございます。
玉敷のたいらの宮路たえまなく
みつぎのくるまはこぶよもかな 国 臣

下田歌子さんが
先年東行の十七年祭の折に書いて下さいました短冊は
天の橋立の杉板でございますが、お歌は
国の為つくすしるしは顕はれて
いさほくちせぬ谷のあや杉 下田歌子
東行が剃髪いたしました折の歌に
西へ行く人をしたひて東行く
わがこころをば神やしるらん 東 行
というのがございますが、
偶然にも父が西行法師を詠じました歌がございます。それは
世をうしとすてしうちにもすてやらぬ
しきたつ沢の秋の言の葉 丹 治
と申すのでございます。

私は久しく国へまいりませぬ。
先年東行碑の除幕式がございました時に、
是非にとすすめられましたけれども、
丁度その折は、孫が亡くなりまして葬式を出すという騒ぎの時でございましたので、
つい失礼いたしました。
この月末、春太郎の試験休みを利用致しまして、
一家打つれて、久しぶりでお国へ墓参を致したいと存じています。

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「天下第一人」三浦梧楼
「天下第一人」は、雑誌『日本及日本人』の大正5年4月1日号に載せられたモノです。
「天下第一人」の作者ですが、三浦梧楼と云う奇兵隊出身者。


高杉先生の五十年祭? ウムあれは俺れがやり出したのだ。
此の間熱海に出かける前にフイと考えると五十回忌に当るようだ、
暦をくったりして見ると、愈々そうだから
ニ、三の者に話しをしてああいったことをやり出した訳じゃ。
僅かニ十九歳で亡くなられたのであるが、
其の間にやられた仕事を考えて見ると、
到底尋常人に出来ないことを立派に仕遂げておる、
臨機応変、機智縦横、如何なる困難に遭遇しても、
綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられたことは、
何人と雖ども企て及ぶべからざるものがある。
普通世間では単に慷慨悲歌の人、憂国熱誠の士位に考えて、
磊落粗豪を以って事に当ったように其表面許りを見ておる者が多いようであるが、
却々どうして此の裏には強いて思慮分別を煩わさずして、
天才滾々として湧出したることは驚くべきもので、
其事業の跡を見ると
能く其の基礎を固め根柢を作ると云う結果を自然に現わしておる。
しかして其の働きをなすには
縦横の機智と臨機の天才を応用せられたのであるから、
何事も当って迷うことなく、行って遂げざるなしと云う次第である。
先ず俗論紛々として帰著する所を知らざる藩論を一定し、
続いてあの猫額大の地を守って天下の大軍を引受けこれを四境に破り、
遂に薩長聯合の素地を作って維新大業の基礎を堅めたのである。
実にあんな短日月の間にあれ丈の大事を成し遂げた神出鬼没の働きは
ただただ驚嘆するの外はない。
其の最初の企てはあの諸隊の編成にある。
先ず奇兵隊を以って根本とし次いで諸隊を作り従来の階級制度を一掃して、
士であろうが足軽であろうが百姓であろうが、
才気胆力手腕のある者は悉く採用することとした、
これが為めに因循姑息の弊風を刷新して
一藩の士気を鼓舞激励したること多大のものである。
此等が原因となって藩論を動して萩より山口へ藩を移転せる際なども、
家老以下宿屋住居と云うような困難があったに拘らず、
これを断行したと云うのは
畢竟高杉などの主唱に係る一藩の士気を刷新して、
従来の弊習を廓清すると云う根柢的計画に外ならぬのである。
併し其の運動の激烈なりし丈、俗論党の反抗熱を愈々熾んならしめ、
積年の因習に囚われたる事勿れ主義の一派を動かしあらゆる手段を講じて、
遂に俗論党の為めに時の政府を乗取らるるの非運に陥った。
其の結果として、第一次長州征伐の総督たる尾張大納言に向って、
俗論党政府は先ず四家老の首級を捧げて低頭平身謝罪降伏を乞い、
藩公を萩に蟄居せしめ、正義派の主なる連中を片っ端から斬殺する、
高杉なども其の目指されたる主なる一人であった。
斯うなっては、あたら高杉の計画も水泡に帰して、諸隊は解散を命ぜられ、
其の身は親戚に御預けとなり、
日夜の監視寸隙なく危害旦夕を図られざる有様となった。
斯る場合に臨んで機智愈々其の妙を発揮する高杉は、
此の際躊躇すべき時ではない、
先ず身を脱して再挙を図らざる可からずと考えたが、
何が扨て夜間は監視が最も厳重である、遁げるのは昼間に限ると苦心して、
或る朝便所から其儘に草履をはき、手洗所の手拭を頬冠りにして飛び出した。
そうして山口街道に向って走って来た。
すると向うから七、八人の藩士が何やら声高に話しながらやって来るのが見える。
段々近づいて見ると皆な自分の幼少からの友達であるが、
現在俗論党の働き手の面々である、
今これ等に目附かっては百年目と考えたが、
何様一と筋道のどうすることも出来ない、
そこでフイと横を向いて路傍の松の木の側で小便をし出した、
士連は何処の町人か百姓とでも思ったのであろう、
少しも気附かないで矢張り話しながら通り過ぎて了った。
こりゃ此の路を行っておっては、又どんな連中に遇うかも知れないと、
横にそれて野と云わず山と云わず駈け出して、其の晩遅くなってから、
我々が集っている徳地と云う所にやって来られた。
其所で衣服や大小なども調えられて、愈々別れと云う時に、
行燈に、「灯の影くらく見る今宵かな」と云う発句を書いて立ち去られた。
そうして小郡から船に乗って博多の方へ渡られたのである。
此の時の光景は実に感慨無量であった。

博多に往ってからも、始終こちらと連絡を取って機会を窺っておられたが、
急に馬関に戻って来られた。
其の頃諸隊は解散を命ぜられたものの、陳情書を出すやらなどして、
長府や山口附近の在郷に集団していたのである。
併し反対党が時の政権を握っているから、
仲々急に事を挙ぐると云う時機と思われなかった。
それで今少し模様を見た方が宜かろうなどと唱える者もあったが、
高杉は断乎として肯かずに馬関で爆発して了った。
そこで討伐に来る萩勢は、途中の諸隊をして逆襲せしめてこれを破り、
一面此の事あるを予測して手筈をきめてあった通り、
三田尻に繋いである藩の軍艦四、五艘
(今から見れば実につまらぬ船であるが、兎に角当時は軍艦)
を手に入れて電光石火の有様に、
萩の沖に廻して空砲ではあるが城内に向けてドンドン大砲を打ち出した。
サア城中の混乱は名状すべからずである。
時の当局は震駭して為す所を知らざる有様である。
こうなると従来中立にあって傍観的態度を取っていた連中までが
こちらに味方することとなったから、
大勢忽ち一変して時の政府は顛覆する、再び勤王派が政権を握って、
藩論ここに一定するの根柢を堅めたものである。

藩論も確定して何時幕府と開戦も辞せないと云う決心もついたから、
高杉は、これ迄大分君父に心配させ色々御迷惑をかけたが、
藩論も斯くの如く決した以上は、万事の関係を断ち、
一応身を引いて乞食にでもなって、
諸国遊歴に出かけようと妾一人を連れて船頭の様な風に姿を変えて
飄然として国を出た。
先ず大阪に着いて船を安治川口に停めて、
或る時一人でドテラか何かを着込んだなりブラブラ市中を歩いていた。
そのうち心斎橋筋に一軒の古本屋があるから立寄って
徒然草は無いかと聞いて見た、
亭主は熟々高杉の様子を見て、
一体お前サンはどうしてそう云う本を求められるかと聞く、
イヤ何俺が在所の御師匠様からエライ面白い本だ
と云う話を聞いているから大阪に来た序に買って見ようと思ってとトボケた。
亭主は、船頭サンにしては面白い心懸けだ、
マア御上んなさいと無理やりに座敷に請じ入れ、
色々歓待をしてどうしても帰そうとしない、
高杉は是非帰ろうとすると、
亭主の云うには実は私の内に面白い御方が泊っておられる、
幕府の御役人で先達からこちらに出張っておられるのだが、
それはそれは面白い気質の方で、
何んでも一風異ったことが御好きだから、
御前サンのような人を引合せたらさぞ喜ばれるだろうと思うから
暫らく待ってくれと云う話であった。
其の役人の名前など聞いて見ると、
かつて聖堂で塾頭か何かをしていた知り合いの人らしいので、
コリャ大変と思ったが顔にも出さず、
そんな御立派な方に斯んな風では恐れ多くて御目にかかれませんと
辞退しても亭主はなかなか承知せぬ、
そんなことを気に止められるような御方じゃないからと、
どうしても帰そうとしない、
そこで高杉は、私だって羽織の一枚位船に持って来ているのである、
そう云う方にお目にかかるのなら一
と走り船に帰って着物を着換えてすぐ来ますからと、
やっとのことで亭主を説き落して韋駄天走りに船に帰り、
それ直ぐ出帆だと僅に虎口を免れたという話もある。
それから四国に渡って、暫らく讃岐の日柳燕石の処に匿れていた。

一日高杉は琴比羅の市中をブラブラした末床屋に入って髭を剃った、
其の時フイと床屋の亭主の顔を見ると、
どうも見たことのあるような男である、
考えて見ると国の者らしいと云うことが思い浮んだ、
こりゃ此処まで手が及んでいるか、
此処も危険だなと思いながら燕石の所に帰って見ると内は大騒ぎである。
日柳の細君はオロオロ声で、
実は貴方の御身分の事で取り調べ度いことがあると云うので、
今主人が役所に連れて往かれましたと云う、
高杉は、ハア、テッキリ先刻の男が密告したに相違ないと思ったが、
さあらぬ体に、そりゃ飛んだ御迷惑のことである。
併し私の身上のことなら、
私が役所に往って話をすればすぐ分ることですから一寸往って来ますと云いつつ、
机の上には書類や一朱二朱の小金を散乱したまま飛び出した。
其の日は小雨が降っていたが、
金比羅参りの連中が皆な跣足になって男女入り交って走っている、
これを見るや否や高杉は、
咄嗟の間に連れておった妾に、オイ足駄を脱げと云い附け、
自分も跣足になり尻端折をして、
金比羅参りと一緒になってどんどん駈け出して船場に至り、
我々は金比羅参りに来ていた者だが、
今、親が大病だと云う飛脚が来て一時もこうしておられぬのだ、
金はいくらでも出すから、直ぐに船を出して呉れと頼み込み、
やっとのことで危難を脱して室の律に渡り、種々の辛苦を嘗めて帰国した。
其の頓才機智、高杉ならでは出来ない仕事である。

其の時から間もなく、幕府の第二回目の長州征伐となったので、
高杉は其の防禦総督として諸方に転戦し、
あの寡兵を率いて天下の大軍を四境に破り、
幕府の為すなき事、長藩の恐るべきことを海内に示すに到ったのである。

幕軍は、主力を芸州口に集め、一面四国諸藩の兵を以て、
長州の中腹に横たわっている大島郡を占領し、
横合より山口を衝かんと企てたのである。
防長二州は知っての如く細長い地形であって、
其中程の前に大島が横たわっているのだから、
敵に此の地点を占領されたなら
芸州口に出ている軍隊の後ろを断たるるのみならず、
直ちに主城の山口を衝かるることになり、
勝敗の数既に定まったと云ってもよいのである。
そこで先ずどうしても此の大島郡の敵を追払わねばならぬとあって、
高杉はみずから丙寅丸と云う
僅か百噸もあろうかと思う其頃の軍艦に乗って出かけることとなった。
そうして何んと思ったか三田尻に上陸して貞永と云う人の家に立寄った。
此れは塩田などを持っている豪家で、
よく当時の有志家抔が遊びに往った家である。
此の日主人は不在中であったが、高杉はそうか留守でもよしと云って、
つかつかとニ階に上って往った。
女中が御茶など持っていった時は、床の間を枕に仰臥していて、
何か考えてでもいたらしかったと云うことである、
やがて暫くすると、また来るから主人に宜敷と云ってフイと帰って了った。
此の夜半あの小船を以て、大島郡の敵の屯している処をドンドン砲撃した。
敵は黒闇から打たれるのだから、
何が何やら訳が分らず非常に狼狽して悉く散乱した。
此の一回の奇襲で、大島郡の敵を掃蕩し、
腹背に受けたる敵の勢力を芸州口の一方に牽制し
能く敗を転じて勝を制することが出釆たのである。
高杉は、募兵を以て大軍に当るのだから、
常に味方の兵力を敵に知らしめない方略を取ったもので、
能く夜襲を用いたのもこれが為めである。
大島攻撃の前に、
三田尻に寄って貞永の家を尋ねたのも、まだ時間が早かったから、
待ち合せるつもりであったらしく思われる。

九州方面に向っても、
敵は小倉方面の田の浦、門司、大里と海岸近く陣所を連ねていたが、
味方の兵は皆な長府の後方の村々に分れ分れに潜め、
容易に攻撃的態度に出なかったが、
能く能く、機会を見定めたものと見え、
一夜諸方の村々より兵を集めて一時にドッと田の浦の朝駈けを試みた、
敵は不意を喰って忽ち潰散したが、
勝に乗じて之れを迫撃すると云うことをせず、
直ちに諸兵を纏めてサッと馬関に引き上げて、
また元の村々に分駐せしめた。
暫らく日を隔てて再び此の奇襲を行ったが、
矢張り暁方に前の如く引き上げた。
かかる奇襲を試むること三回、
其の後始めて追撃を命じ赤坂と云う所で大捷を博し
小倉の兵は城に火をかけて遁げ出す迄に至らしめた。
皆な是れ寡を以て衆に当るが為めに、
必勝の算が立つまでは
敵に味方の兵力を知らしめないと云う軍略の妙用が含まれていた次第である。

以上は僅かニ、三の実例に過ぎないのであるが、
如何に其の臨機応変、
機智縦横の大才に富んでおったかと云うことが窺われるではないか。
しかもそれが事々物々、能く趨勢に適応して基礎を固め、
根柢を築くと云う結果になったことを考えると、
実に驚嘆感服の外は無いのである。
階級を打破して諸隊を作り、一藩の士気を鼓舞振作して国論を確立し、
遂に四境の大軍を粉砕して、幕府の為すなきを天下に暴露し、
長藩の勢力をして九鼎大呂より重からしめ、以て薩長同盟の素因を堅め、
王政維新の偉業を成就するに到る迄、
其の間一貫せる経綸の大才毫末も紊れたることなきは、
殆んど人智の企て及ぶべからざる点がある。

其の当時能く我輩年少の者に向って、
愚を学べ学べと訓誡を垂れられたものだ。
俺れも若い時は撃剣をやる時に、道具外れをわざと打ったり、
鎗を使う時に脛を突いたりしたものだが、そんなことでは駄目だ、
どうしても愚を学ばなければいかんと屡々話されて居たが、
充分理解することが出来なかった。
漸く近年になって、
あれは孔子の所謂甯武子其智可及其愚不可及
と云うことを教えられたもので、
年少客気を戒められたものであろうと考えると、
実に今昔の感に堪えぬ。
また其の頃の有志家は皆な慷慨悲歌、
文天祥胡澹菴宜敷と云う風の人が多かったが、
高杉丈は一種超然とした所があって、
陣中に茶器を持って来て煎茶をやって見たり、
時には三味線を携えて来て弾いて見たりしていたのも、
今から考えて見ると、
皆なそれぞれ深長の意味が含まれていたことが分って懐しさの限りである。

遺物と云っても手元には何もなく、書面やなぞも大概人に取られて了った。
一つ残念に思うのは、高杉が上海へ船を買いに行った時に、二十一史を購って帰り、
其の箱に「抛千金購聖賢書、是予一人之私哉」と書いたのがあったが、
明治二年に諸隊暴動を起した時、何処へどうなったか分らなくなって了ったのは、
今でも惜しくて堪らない。
亡くなられる十日程前に見舞に往ったら、非常に喜ばれて色々話をされた、
其中フト傍を見ると、
小さい松の盆栽があって、其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、
これは何んですかと聞くと、イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、
此の間硯海堂が見舞に呉れた「越の雪」を松にふりかけて、
雪見の名残をやっている所さと微笑された。
斯かる際まで平常の心根を、遺憾なく発揮せられていた其の温容、
今なお彷彿として夢の如しである。

嗚呼春風秋雨五十年、今少しく永らえておられたならばと思えば、
涕涙の滂沱たるを禁じ得ぬ次第である。
祭典に当って捧げようと左の一絶を作って置いた。

賦梅花一絶恭奉供于
東行先生五十春忌之祭禋先生曽
有愛梅之癖変称谷梅之進亦其一也詩意故及
英花秀発二州春。別有早梅驚谷神。勁質貞姿心鉄石。
邦家長憶歳寒臣。



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内村鑑三『日本および日本人』
明治二十七年

では、彼(西郷隆盛)の生涯を支配した二つの思想、
(一)統一帝国と、(二)東アジアの征服という、
この二つの思想は、どこから来たのであろうか?
王陽明の哲学を論理的に追求すれば、
このような思想に達することは考えられる。
・・・・『キリスト教は陽明学に似ている。
日本帝国崩壊の因をなすものはこれだろう』と、
維新史に名高い長州の戦略家、高杉晋作は、
長崎で初めて聖書を調べた時に叫んだ。
キリスト教に似たあるものが、
日本の再建にあずかって力あったということは、
日本の維新史上の驚くべき事実である



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横山健堂『高杉晋作』
大正五年

高杉は極めて徹底した人物である。
……徹底的なる高杉の一生には、
しばしば大疑問が起こり、それが解決されつつ、前へ前へと躍進した。
彼が大徹底の路上には大煩悶が横たわるべきである。
彼が煩悶した問題は、
一に開国攘夷、二に忠孝両全、三には死生の煩悶である。
……彼は徹底したる攘夷、徹底したる開国を求めた。
彼の攘夷も開国も甚だ明晰である。透徹している

吾輩は、彼を伝するによって、殊に愉快を感ずる所以の理由が三つある。
 (一)彼が天下第一人であること。
 (二)彼が、わが民族性の本領を発揮したる大人物たること。・・・・・・
 (三)彼は青年の好伴侶たり。
とこしえに将来のわが青年を鼓舞、作興するにたるべき快男児たることである

近来、維新功臣の人物はだんだん伝記が明らかにされてきた。
しかしながら、高杉に至っては、まだ一巻の正確なる伝記を見たことがない。
彼の名は一世に響いているにかかわらず、
身後五十年に近うして、まだ伝記のないことを私は遺憾とする

横山の父・幾太は、
「高杉よりも二歳年少にして、手習い稽古にも同学し、
松下村塾にも同窓であった」という。




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