Prev | 1 | 2 | Next

井上哲次郎『高杉東行を億ふ』
大正五年

(高杉は)維新前の騒々しき世の中に生まれ、
その渦中に在りて活動したのであるから、
ゆっくりと且つ専念に学問をする余暇はなかったのであるが、
しかしなかなか聰明なるところがあったように思われる。
しかして大いに王陽明を尊信しておったことが彼の詩によって明らかである

東行はかつて長崎に赴きたる時、
耶蘇教の書を読み、慨然として歎じていえるよう、
『その言すこぶる王陽明に似たり。
しかれども国家の害、いずくんぞこれに過ぎるものあらんや! ・・・・』と。
なるほど東行の言うたごとく、基督教と陽明学の間には著しい類似点がある。
第四の福音書ヨハネ伝に於ては神を内在的に観ている、
その内在的に観たところの神は良知と異なることはない、
良知はやはり各個人の胸中に在る神である。
……もし東行が永く生存して学問の方に力を致したならば、
また非常なる見識を立てたであろうかと想像される



|| ||
三宅雪嶺『想痕』
大正四年

薩の西郷に当たるは長の高杉にして、
維新前に死し、維新の元勲として名を列せざるも、
その人格および行動の豪快なる、永く歴史を飾るに足る。
長に木戸なくして可、広沢・大村なくして可、
伊藤・山県・井上なくして可なれど、
高杉なきの長は気の抜けし炭酸水のごとし。
維新史料を編纂するも興味索然たらん。
長が幕府に破られ、続いて高杉が回復を計り、
頻りに兵を募りし時、山県は時非なりとして応ぜず。
しかして伊藤は蹶起してこれに応じ、
勢いの揚がりてより山県も応じ来たり。
ついによく募兵を駆逐し、幕兵の与みし易きを天下に知らせ、
関西数箇国の相呼応して幕府を覆すに至れる。
誰が高杉を首功に推さざるべき



|| ||
徳富蘇峰『近世日本国民史』
(大正七年から昭和三十七年)

彼(高杉)は大なる我侭者である。
彼は何人からも指揮、命令を甘受する漢ではなかった。
彼は頂天立地、唯我独行の好男子であった。
同時に彼には奇想妙案湧くが如く、
しかも同時にこれを決行するの機略と、胆勇とを具備していた。
彼は戟を横たえて詩を賦するの風流気もあれぱ、
醇酒美人に耽溺するの情緒もあった。
しかしてその脱然高踏、世間離れの気分に至りては、
東行である彼は、恐らく西行以上であったかも知れない。

彼は松陰門下においても、
その師松陰さえもある意味においては、畏敬したる程の、
毛色の変わった一本立ちの奇男児であった。
従って彼の行動は、到底尋常の縄墨もて律すべきではなかった。
天馬空を行き、夏雲奇峰多し、
かかる形容文句は、幾百を累ね来たるも、
恐らくは這般の真面目を道破するには、いまだ十分ではあるまい



|| ||
頭山満『巨人頭山満翁』
昭和七年

長州で俗論党が勢力を得ている時、
高杉晋作が、危難を避けて筑前に遁れて来て、
暫く野村望東尼の許に匿れていたことがあるそうじゃ。
よほど機鋒雋鋭の人であったらしく、
当時の有志家のうちにも嶄然頭角を抽んでていたようである。
それが文武両道の達人であるとか、
智勇弁力に優れていたとかいうことは別としても、
どこかに超脱したところがあったように思われる。
色々その当時の逸話のようなことも大分聞いていたが、
大概忘れてしもうた。
しかし一つ覚えているのは、
その頃福岡の医者に、よほど豪い奴で、始終有志家などと往来し、
高杉ともなかなか懇意にしていた男があったが、
この男、常に人に語っていうには、
『俺は残念ながらどうしても高杉には敵わない。
それがどういう訳でもないが、
彼奴には押えられるるような気がして、
自然負けるやうになるのは不思議でならぬ』
などといっていたそうだが、
其奴が病気になって、いよいよ助からぬという間際に、
『アァ今の気分であったなら、高杉には負けなかったのだ。
残念なことをした。
しかしあの時分から高杉という男は、
常に死という諦めがチャンとついていたものと見える』
といって感嘆したという話がある。
この医者もなかなか豪いが、それから考えてみても、
高杉という人は、
如何に生死の上に超脱していたかということが窺われる。
それだからあの通り臨機応変の活動が出来たことであろう。



|| ||
Prev | 1 | 2 | Next