桂小五郎と晋作
当時萩では、柳生新蔭流の内藤作兵衛、馬来兵馬、平岡弥三郎の道場があり、晋作は、後年、内藤作兵衛から免許皆伝を受けています。その内藤道場には、「桂小五郎」がいました。

『内藤道場で、先輩の桂小五郎と手を合わせる機会があったかどうかわからないが、すくなくともまだニ人はたがいに深く相知ることはなかった。二十歳に近い小五郎からみれば、身分はおなじ程度の中級藩士であっても、一三歳の晋作など眼中になかったであろう。』
( 冨成博 『高杉晋作』)

「晋作の少年時代ーその1ー」で述べました様に、嘉永五年(1852)に斉藤新太郎来萩。長州勢「全員討ち死」(ーー;)。 そこで、新太郎は、藩内から若者を選んで江戸の道場へ修業に出すよう進言。剣術修業と同時に勉学の修業が目的である。そこで五人が選抜された。しかし、桂小五郎はその選に入ることが出来なかったできなかった。そこで、桂は、自費で江戸へ遊学する事を願い出て許され、目出度く、新太郎の供をして江戸へ・・・・練兵館に入門したのは11月。
1年後には、はやくも塾頭になって、諸藩にその剣名が響きわたった。(^^)
その頃の晋作は「剣一筋」。

『なで肩で、人並すぐれた体力があったとも見えないが、負けずざらいの晋作が、心気をもって相手を圧倒できるのは剣術であった。そういうところが、晋作の奔放な気質にマッチしたのかもしれない。ひごろ家庭で、二〇〇石の譜代藩士のあととりとして、チヤホヤされながらも実際は頭をおさえつけられている晋作が、自由にのびのびと本領を発揮できる世界がそこにあったのだ。』
『とにかく斎藤新太郎の出現は、晋作にいっそう剣士へのあこがれをかき立てずにおかない。けれども実は、晋作がどうしても学問にうちこむ気になれない理由が、ほかにあったのである。それは型にはまった旧態依然たる藩学の空気であった。』
『晋作が大学生から入舎生に進んだのは、五年もたった安政四年(一八五七)二月だった。この間、晋作の内には、周囲の抑圧を突き破ろうとする、うつぼつたる青春のエネルギーがたまっていた。しかもけんめいに自分をおさえてきた。それでも、ややもすれば、人と妥協しない、かたくなな性質が蒸気のように噴きだして家族の気をもませる。』
( 冨成博 『高杉晋作』)

「自笑」はこの頃の作

 百年一夢ノ如シ
 何ヲモッテカ歓娯ヲ得ン

 自ラ笑ウ平生ノ拙
 区々トシテ腐儒ヲ学ブ

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