
碑文の篆額は毛利元昭、文字は杉孫七郎の筆。
撰文は伊藤博文作。
撰文の完成は明治42(1909)年9月。
翌月、伊藤はハルピン駅頭で暗殺される。
一方、完成を心待ちにしていた梅処尼(おうの)も同年8月に急逝。
両者とも碑文の完成を見ることなく亡くなった。
明治44年5月20日に除幕式が行われ、井上馨が除幕し、友人代表として演説している。
数千人の参列者が集まり、小月から吉田まで人力車が連なったという。
顕彰碑の鉄柵には当初、奇兵隊が使用した歩兵銃の銃身が用いられていた。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢て正視するもの莫。
これ、我が東行高杉君に非ずや。
君は諱を春風、字を暢夫、通称を晋作、後姓名を変えて谷潜蔵と曰う。
東行はその号なり。
系は武田小左右衛門春時に出づ、春時は天文中備後、高杉城主たり。
因って氏たり、子孫は世々利氏に仕う。 考の諱は春樹、妣は大西氏。
天保10年8月20日を以って長門萩に生る、
幼にして惆傥大志あり、
眼光は烱烱として才識人に絶す、
はじめ藩学明倫館に入り年19にして吉田松陰に師事、
松陰は深くこれを偉として久坂実甫と并び称す、ついで東遊して昌平黌に入り、
また佐久間象山を信濃に訪い、横井小楠を越前に訪う、学識倍進む、
文久元年藩公朝廷と幕府との間を周旋す、ときに君は世子の近侍たり、
周旋のことをおもうに国に利非ず、すなわち将になすあらんとす、
2年公君をして上海に游んで海外の事情を探らしめんとす、居ること数ヶ月にして還る。
則ち世子は勅を奉じて江戸にあり、周旋すこぶる力む君当路にその不可なるを以って説く、
聴かれず、 君憂憤し、1日切に世子を諫め、直に藩邸を脱す、
すでにして勅使三條中納言、姉小路少将江戸に至り、幕府に攘夷の勅を奉ぜしむ、
幕議違に依って決せず、君、同志と謀り、まさに外人を襲殺して以って事端を啓かんとす。
世子論にしてこれを止む。
君等遂に御殿山外館に火す、世子君に京都に召す、故あり、髪を薙って東行と号す。
3年春、車駕加茂社に詣ず、将軍家茂列侯を率いて扈従す、
すでにして.将軍まさに遽に東帰せんとす、君謂う、将軍、一たび挙趾すれば、
すなわち大事去る。
すなわち同志と鷹司関白に謁し、その不可を陳ぶ。 朝議これを納る。
未だ幾もならず、国に還り、屏居して出でず、6月藩公勅を奉じて外艦を馬関に撃つや、
君を起て防禦の事を任す。
君士民勇壮者を募り、奇兵隊を編す、8月朝議にわかに変じ、三條中納言等の官を褫い、
藩公父子の人京を停む、士民憤激す、游撃軍総督来島又兵衛、
まさに兵を率いて闕下に詣らんとす、
君公命を銜みてこれを諭す、聴かず、君深くこれを慨き、
即日亡命し入京す、藩、その罪を論じて獄に下す、
元治元年8月英仏米蘭四国艦隊を連ね馬関を侵す公また君を起て政務に参ぜしむ、
我が軍利あらず、すなわち君を以って媾和の使となし、
上戦媾和の約を訂ぶ、余等また参ず。
これより先、士民寃を京師に訴え、皆省みず、ついに禁門の変あり、
幕府、問罪の師を興し、我が国境に逼る。
藩士俗論を唱うるもの争いて起こり、公を萩に擁し、政柄を掌握して、
専ら恭順を主とし、正党は皆罪を蒙る、
君慨然として、国論を回復するの志あり、
機を見て遁れ、山口に潜入す、捕使追躡す。
すなわち、航海して筑前に走る、
奇兵諸隊しばしば上書して事を論ずれど、納れられず。
俗党ついに三老臣四参謀を斬って、幕府に謝罪す。
君は事の急なるを聞き、また長府に帰り、
まさに諸隊を率い、俗党を討たんとす。
隊士等以って時機尚早となし、未だことごとく応ぜず、君、余等と謀り、
わずか二隊の兵を以って発し、急に馬関伊崎の官廨を囲み、姦史を逐う。
その翌、諸隊また陣を伊佐に進む。 俗等驚駭し、また正士7人を殺す。
君大いに怒り、兵を進め伊崎官廨を襲うてこれに據り、討姦檄を国内に伝う。
実に慶応元年正月2日なり。
ここにおいて俗党兵を発し諸隊を撃つ、諸隊、絵堂大田に邀え戦う。
皆捷つ。 君往きてこれに会い、赤村の敵を夜襲しこれを破る。
転じて山口に入り、三道に兵を分けて萩に向う。
藩士俗党に與せざるもの、上書きして、国難を靖んぜんことを請う。
公これを納れ、諸隊に告諭す、諸隊命を聴き、藩始めて一に帰す。
君は諸隊を部署して、以って東兵に備え、しこうしてまさに余を伴い欧洲に遊び、
その形勢を察せんとするも、事を以って果さず。
5月、土佐の坂本龍馬、馬関に来り、桂小五郎に見え、薩長連合の事を説く、
君余等とその議に賛し、かつ曰く、今、東軍まさに大挙来攻せんとす、
よろしく、峩艦利器を外国に購い、以ってこれに備う。
しかれどもその事、薩藩名を借るにあらざればすなわち能わざるなり、
余、井上聞多と長崎に抵り、薩の老臣小松帯刀と謀り、銃艦を購入す。
桂、また命を奉じて京に入り、西郷吉之助等と協議し薩長連合すなわち成る。
2年春、君、余と長崎に赴き、尋いでまさに欧洲へ航せんとす。
未だ発せざるに、たまたま幕府の使、小笠原壱岐守日を刻して公父子を広島に召す。
君、これを聞いておもえらく戦期すでに近し、急ぎ軍艦一隻を購いて帰る。
丙寅艦これなり。
6月、東軍大島郡を襲う君、丙寅艦に乗り、
夜敵艦駢列の中に突入し、礮を放して去る。
敵軍震駭す、我が兵また海を渡り、陸上の敵を撃ち、これを走らしむ。
君、尋いで軍を豊前に進め、門司大里を取る。敵、小倉城に火し、退いて香春に入る、
竟に降を請う。 しこうして、芸石の東軍またすでに我の破るところとなる。
四境の外、また敵騎を見ざるなり。
ここにおいて幕威、地に墜ち、王政復古の業まさに緒につかんとす。
3年春、君、偶疾を獲、4月14日ついに起たず。 春秋二十有九にして闔ず。
藩の士民、悼惜せざるなし、吉田村清水山に葬る。
配は井上氏、一男あり、名は東一、その祀を承く。
明治二十四年、朝廷その功を追褒し、正四位を贈る。
嗚呼、君病歿するの翌年、聖上登極し、乾坤一新す。
しこうして、君、目に中興の聖業を覩るをえず。
身に昭代の霈澤に霑能わず、悲しいかな。
今、ここに某月、君の故舊相謀り、墓側に石を建て、
以って之を朽せず、余に属して文をなさしむ。
誼辞すべからず。すなわち、その行実に書して、概略かくの如し。
明治42年9月 正二位大勲位公
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